酔雲庵

侠客国定忠次一代記

井野酔雲

創作ノート




あさを社刊『上州路』より





  • 羽倉外記用九‥‥‥簡堂。21歳の時、越後国の天領5万石支配を振り出しに、上野、下野、遠江、三河、駿河、信濃等の代官を歴任、また、伊豆諸島をも支配した。後に天保改革を行った老中水野忠邦の推挙によって、勘定吟味役及び御納戸頭を兼任して、鴻の池、加島等の京阪の富豪から、百五十三万六千両という巨額の金を幕府に献金されたという人物で、当時学者として名高く、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)、川路左衛門尉聖言莫(敬斎)と共に、幕吏の3兄弟と仰がれたという漢学者で『南汎録』『駿府志略』『赤城録』等々数十巻の著書あり。当時の高名な学者や名家の人々とも親交があり、頼山陽、藤田東湖、渡辺華山、佐久間象山、山内容堂、市川米庵等の四十数人からの書簡あり。蛮社の獄にも関係したが忠邦のお陰で免れる。水野忠邦の失脚に座して、勘定吟味役及び御納戸頭の職を退いた。中山誠一郎は天領代官当時の下僚。
  • 天保の物価‥‥‥3年、1両=米9斗8升。7年、1両=2斗8升。8年、1両=玄米1斗8升。
  • 田崎草雲181598)‥‥‥足利の画家。忠治の肖像画を描く
  • 新井小一郎雀里1813-)‥‥‥古賀侗庵に学び、伊勢崎藩校学習堂の教授であり、後に函館奉行所から招かれて、長万部の移民事業などを計画実行した。忠治の墓の墓誌銘を書く
  • 上州一円のてきやの縄張りは代々、不流三左衛門が牛耳っていた。
  • 上州は天領、大名領、旗本領、寺社領と入り組み、行政支配が異なり、無宿者の取り締まりが非常に不都合だった。
  • 島村の伊三郎‥‥‥利根川島村河岸の船問屋の主人だったが、自分から遊侠を好み無宿となった。生涯、人を殺めた事はなく、旅に出る事もなかった。そのため、八州役人の道案内も務めた。道案内は始め、村役人が務めたのであるが、大変迷惑な仕事であったので、だんだんと博徒どもが鑑札を貰って道案内を務めるようになって行った。御用聞きとか目明かしとか呼ばれた、二足の草鞋の事である。兇状のない伊三郎は道案内を務めながら、縄張りを広げ東上州を一手にした。
  • 天保5年(1834)7月2日の晩、新田郡世良田村の賭場帰りに、米岡(境町)の熊野神社裏手で、島村の伊三郎(44)は忠治らに闇討ちに遭い惨殺される。
  • 伊三郎が殺された後、上州は大前田一家と国定一家に二分される。
  • 大前田一家は八州の道案内を務めたので逃げ回る事はなかった。
  • 国定忠治は人を殺めて旅に出て、文政末年、上州に戻り、百々村の紋次の身内になる。紋次の元にいたのが、三ツ木の文蔵、境村の安五郎で、特に文蔵は手に負えない悪漢だった。天保5年の春、文蔵が境村の桐屋という呑屋で無銭飲食をした揚げ句に散々暴れた。文蔵は伊三郎にやられ、百々村に帰ると忠治に話し、伊三郎の闇討ちを図る。忠治一党は関八州取締出役に手配される。
  • 三ツ木の文蔵は天保9年春、世良田村の村役人以下大勢の村人の捕方に追われてハシゴ捕りにされた。そして、木崎宿にいた八州役人に引き渡され、江戸に送られて伝馬町の牢の裏にある土壇場において斬首された。獄門という附加刑のため首だけ小塚原に送られて三日間晒し首にされた。
  • 伊与久村の学者深町北荘の『忠治引』という手記によれば、『忠治一党は昼は山に隠れて捕吏を避け、夜は徒卒を率いて町を侵す。処女は暴に遭うて婚儀にそむき、娶婦は節を失って泣く』とある。
  • 三室の勘助‥‥‥博徒の親分で二足の草鞋。
  • 下植木村の浅次郎‥‥‥勘助の甥。元板屋根を葺く板割職人。槍の名人。
  • 博奕で召し捕られた無宿者は大体、佐渡送りと相場が決まっていた。
  • 高瀬仙右衛門‥‥‥館林の博徒。東海道や越後地方を歩き回り、地元よりも旅先で上州無宿を看板にして来た。
  • 江戸屋虎五郎‥‥‥館林のテキヤ。
  • 忠治の死後、国定一家の縄張りは代貸の田中の沢吉が継いだので田中一家と呼ぶようになる。沢吉は新田郡上田中村無宿で本姓は新井。安政6年(1859)に召し捕られて死刑になる。二代目は沢吉の子敬次郎で、敬次郎も八州の無宿狩りによって召し捕られたが、牢破りして逃げ、清水の次郎長の客分となる。
  • 天保13年(1842)9月8日、板割の浅次郎27)は伯父三室の中島勘助(43)とその子太郎吉を八寸村小斉の勘助の家で殺害する。太郎吉の姉ふさ(14)は無事だった。
  • 忠治の母(-1844.5.14)は権右衛門村の権右衛門の子。
  • 大谷刑部国次千乗184467)‥‥‥父は国定忠治、母はおてい。祖父は下野国都賀郡大久保村の人にて大久保一角と称し、剣術を以て業と為ししが、その娘お貞という者、忠治の妾となり一子を生み寅次と称す。即ち国次なり。忠治処刑後、寅次を携え、父の故郷に帰り、寅次を出流山千手院に託し、所化として千乗と名乗る。忠治自身は国次の存在を知らなかった。
  • 赤城山の湯の沢温泉は栄五郎の縄張り。
  • 忠治は『親分』と呼ばれるのを好まず、『旦那』で通した。


  • 碓氷関所‥‥‥中山道。関所の警固は安中藩主が務めた。番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名。箱根の関所と並ぶ重要な関所。
  • 大戸関所‥‥‥信州街道。沼田藩改易後は幕府代官の管理となる。一場、加部、堀口、田中の4名が世襲して役人を務めた。関所の雑務処理のため、大戸村、本宿村、萩生村の3村が交代で、通常一日2名の下番役が徴 用された。
  • 狩宿関所‥‥‥信州街道。沼田藩改易後は幕府代官の管理となる。警備の中心は草津温泉の湯治客の取締り。
  • 大笹関所‥‥‥信州街道。沼田藩改易後は幕府代官の管理となる。
  • 杢ケ橋関所‥‥‥三国街道。吾妻川の川関。橋の架かっていた頃もあるが、出水で度々、流失した。大抵は舟橋か渡舟。
  • 猿ケ京関所‥‥‥三国街道。
  • 五料関所‥‥‥日光例弊使街道。利根川と烏川の合流する東西交通の要衝。






上州の剣術


  • 東上州は佐波郡赤堀村の本間道場と新田郡平塚村の田部井道場、西上州は多野郡馬庭村の樋口道場。
  • 沼田藩主土岐氏が直心影流の長沼正兵衛綱郷を剣術指南役として迎える。藤川近義、櫛淵虚冲軒、生方県斎らが出る。
  • 高崎藩主大河内輝高は1763年、遊芸館を創立し、小野派一刀流を採用する。寺田宗有がでる。
  • 安中藩からは造士館を建て、根岸宣延が出る。
  • 楳本法神(17191830.8.15
  • 須田房吉(17901831.3.11)法神流。
  • 本間仙五郎17441815.8.6)‥‥‥父、権八郎(172156)は農業と蚕種業を営み、大男で剛力無双、地相撲の大関を務め、自然流剣術の遣い手でもあった。勢多郡荒砥村の荒木流、大山志磨之助に入門する。
  • 1765年9月、赤城不動に参籠し修行を重ね、師の大山より免許を受ける。その後、念流の樋口に入門、1813年、馬庭念流の永代免許を授けられる。
  • 本間千五郎応吉17841874)‥‥‥仙五郎の長男。赤堀村に道場を持ち、門下は数百人。1822年4月の伊香保奉額事件に拘わる。俳人としても有名で丹頂と号し、金井烏洲と懇意。
  • 櫛渕虚冲軒宣根(17471819.4.23)‥‥‥神道一心流。
  • 寺田五郎右衛門宗有(17451825.8.1)‥‥‥高崎藩士。天真一刀流。
  • 飯塚臥竜斎興義(17801840.2.3)‥‥‥藤岡出身。気楽流。
  • 海保帆平芳郷(182263.10)‥‥‥安中藩士。北辰一刀流。
  • 根岸松齢宣教(183397)‥‥‥荒木流。
  • 清水赤城(17641848.5.10)‥‥‥神道一心流。虚冲軒の高弟。






  • 生田万180137)‥‥‥館林藩士生田信勝の長男として館林城内、大名小路の武家屋敷に生まれる。諱は国秀、字は救卿、号は華山、大中道人。1823年、友人荒井静野の紹介により江戸に平田篤胤を訪ね、その門に入る。文政1110月初、藩政改革意見書が藩主の怒りに触れ、藩籍を除かれる。館林藩と別れた万は江戸に向かった。篤胤の養子となり四年間、江戸で暮らす。その後、郷里館林に近い太田に隠れ住む。
  • 18311011日、江戸から桐生に向かっていた渡辺華山と郷里に急ぐ万が途中で出会う。
  • 太田での仮住まいは1831年から183610月まで。金山の下、大光院前の長屋→太田郊外の上浜田村。
  • 1836年夏、碓氷峠を越え、その5月14日、柏崎の樋口家に着く。滞在3旬の後、太田に帰り、柏崎に移る決心をする。妻鍋(30)と貴吉(5)、豊治(3)を伴う。柏崎下町山田小路に住む山田義八郎の持ち家を借り、『桜園塾』と名付け私塾を開く。1837年6月1日、代官陣屋を襲撃するが失敗して自害。妻と子は捕まり、獄 中3日目に、二人の子を絞殺し自害する。
  • 荒井静野(17931868.4.18)‥‥‥館林に生まれる。静右衛門、号は良任、真清、清野、静野、草陰屋、丹生乃屋。祖父の死後、木綿問屋と酒造業を継ぐ。






上州の文人、画家


  • 井上浮山17941842)‥‥‥玉村在の樋越村の絵描き。名を祐永、字を胤宗、敬斎と号す。大百姓の主人だったが、若い時から絵が好きで百姓を捨てて、木崎宿の柿沼山岳という画家の門に入る。たちまち破産した。西上州に多くの友があり、板鼻の島方松蔭と特に親しかった。1835年、島方松蔭と共に仙台に師の菅井梅関を訪ね、半年、奥州を遊歴する。安中の首藤家に客死す。

  • 千輝玉斎17901872)‥‥‥幸兵衛、玉村の飯売旅籠万屋の主人。中之条の町田という家に生まれるが生家が没落、玉村の酒屋に後家入りする。女房はえい。生来はなはだ頓知に富み話し好き、多芸で玉斎と称し、持ち前の愛嬌からたちまち金儲けをして、飯売旅籠屋を始める。商売は当たり、飯売女は36人とも450人いたともいわれる。万屋であるが、人は玉斎楼と呼んだ。北斎を手本とした画名は高く、色々な芸に手を出し、点茶、活花、彫刻、陶芸、踊り、俳歌など、今に作品を伝えている。
  • 金井万戸17701832)‥‥‥島村の養蚕長者、俳人。名は長徳、通称彦兵衛、華竹庵と号す。酒井抱一、十返舎一九、古賀精里、宮沢雲山らと交わる。画家烏洲の父。
  • 金井烏洲17961857)‥‥‥名は時敏、通称彦兵衛、号は朽木翁、呑山人、白沙頓翁など。春木南湖に絵画を、菊地五山に詩を、古賀イ同庵に文を学ぶ。1832年、関西を旅して、『月カ瀬梅渓図巻』を製し、その後、日光に旅して『晃山紀勝』を成す。生涯、絵を描き続け、伊勢崎藩に莫大な融通金をして返却されず、有り余る資産を失ったが、その作品はいずれも神韻の気に満ちたもの。
  • 長尾景範17861866)‥‥‥伊勢崎藩大目付役。浮山と親しい。1813年、関西に半年旅して、播州明石の荻野六兵衛より荻野流砲術を修め、後、藩の師範となり学習堂に兵学と火法を教授する。天保初年に剛直ゆえに藩の出仕を止められ、下植木の家に謫居7年におよぶ。白井長尾氏嫡流。
  • 鈴木楓二17561836.10.28)‥‥‥赤堀村の俳人。名は伊之丞、赤堀村市場の旅籠屋竹屋の主人。春秋庵長翠門下、長翠没後は小蓑庵碓嶺に師事して俳諧に長じ、東毛地方きっての名人と全国に名を謳われた。村の本間仙五郎こと丹頂を初め多くの有力な弟子を育てた。
  • 高野長英180450)‥‥‥和漢洋の百般に通じた学者。佐波郡境町の村上随憲、渋川の木暮足翁、中之条の柳田鼎蔵(ていぞう)、沢渡温泉の医者福田宗禎(浩斎)、中之条町横尾の高橋景作、六合村赤岩の医者湯本俊斎など数多い交友があった。1844年、牢を出て、逃げ回る。
  • 村上随憲17891865)‥‥‥武蔵国久下村(熊谷市)生まれ。江戸、長崎で蘭方医学を学び、1828年、境町で開業する。居宅を『征病薬室』と称して診療に努めた。オランダ語に堪能で、蘭方医学書を収集し、翻訳書写事業も行う。高野長英との親交も深く、尚歯会の一員。また、私塾『征病余暇簧楼』を設立して郷土の子弟 を教育する。
  • 福田宗禎1790-)‥‥‥沢渡温泉の医者兼旅館を営む福田家に生まれる。脱獄後の長英を庇護する。
  • 高橋景作17991876)‥‥‥吾妻郡横尾村の名主高橋家に生まれる。脱獄後の長英を庇護する。
  • 黒岩鷺白17441824)‥‥‥忠右衛門。草津の宿屋の主人で俳人。京都の芭蕉堂蘭更の門下で雲嶺庵と号す。白井鳥酔、加舎白雄、烏明、暁台、小林一茶、道彦、単兆、十返舎一九、鈴木牧之ら一流の俳人、文人が鷺白の元に集まった。
  • 坂上竹烟17851862)‥‥‥名は治左衛門、一夏庵。前半生を諸国遊歴し、1840年、草津に定住し開庵する。
  • 宮崎酔山(?)‥‥‥草津の画家。林豊山の門下。






  • 伊勢崎(1・6の六斎市)の初市(寄市)は正月6日、境町(2・7の六斎市)の初市は正月7日。
  • 伊勢崎の暮市は1221日、境は22日。
  • 1789年‥‥‥不作のため酒造りが3分の1になる。 1791年‥‥‥長雨のため凶作。
  • 1799年‥‥‥長雨のため麦作が皆無。 1802年‥‥‥米不作によって酒造り減石される。
  • 1805年‥‥‥大旱魃で諸作物は立ち枯れ。 1806年‥‥‥長雨による凶作、種籾も無くなる。
  • 1808年、1809年‥‥‥不作。 1810年、1812年‥‥‥大洪水。
  • 1816年夏‥‥‥大嵐、利根川洪水。 1817年‥‥‥大旱魃で田植えができず。
  • 1832年‥‥‥大霜害、桑が全滅し日照りが続く。
  • 1833年‥‥‥長雨になり飢饉。春にあちこちで打ち壊しが始まり、11月には食料を全く失ってしまった赤城山下の180ケ村の百姓の暴動が起こり、伊勢崎、境に押し寄せる。各村の豪家は飢民に施米をする。
  • 1836年‥‥‥大凶作。春先から冷害。田植えに綿入れを着る。その後、雨続きとなり、夏中、雨が降り通す。四方の河川は氾濫し田畑は冠水、稲作は青立、水腐れになる。伊勢崎藩は各村に天気祭りを命じるが効果はなし。世間が物騒になり、八州方役人は廻村して、米屋に米の売り惜しみを禁じ、酒屋は居呑みさせず、綿売りを制限させた。伊勢崎藩は毎夜、30人づつが廻村して治安に当たった。どこの名主の門前にも飢民が寄り集まって動かず、道にも多くの飢民が倒れ伏す有り様。当然、暴動、打ち壊しの発生が心配され、各村の豪家は蔵を開いて施米をした。


  • 白根、万座の硫黄稼ぎ‥‥‥堀子(原鉱の採掘)→釜場(原鉱を砕き水釜に入れて熱する)→絞り(釜から出し麻袋に入れて絞り、さらに砕いて箱詰めし、釜に入れて固める)→箱の取り外し(凝固した硫黄の箱を取り崩し、低部に膠着した黒砂を斧で切り落とし製品とする)。1846年、山頂での稼ぎ人足は延べ1386人、5月から11月までの7ケ月間作業に従事するとして一日10人余りの人足が稼働していた。
  • 十代加部安左衛門兼重‥‥‥1833年、持高出作ともに四百石所持、苗字帯刀御免、足尾銅山吹所世話役、農業の間酒造並びに麻繭商い、召使下男下女38人、居屋敷は表間口20間余、奥行50間ほど、家作は本宅物置とも5、6軒、酒造蔵3ケ所、その他土蔵4ケ所。






  • 中山道の宿場
  • 新町宿 ‥‥‥ 862石、407軒、1437人、問屋場2、本陣2、脇本陣1、旅籠屋大16、中10、小17
  • 倉賀野宿‥‥‥1946石、297軒、2032人、問屋場3、本陣1、脇本陣2、旅籠屋大4、中4、小24
  • 高崎宿 ‥‥‥    837軒、3235人、問屋場3、本陣0、脇本陣0、旅籠屋大4、中5、小6。
  • 板鼻宿 ‥‥‥1298石、312軒、1422人、問屋場2、本陣1、脇本陣1、旅籠屋大14、中18、小22
  • 安中宿 ‥‥‥     64軒、 348人、問屋場1、本陣1、脇本陣2、旅籠屋大3、中8、小6。
  • 松井田宿‥‥‥ 363石、252軒、1009人、問屋場2、本陣2、脇本陣2、旅籠屋大3、中4、小7。
  • 坂本宿 ‥‥‥ 268石、162軒、 732人、問屋場1、本陣2、脇本陣2、旅籠屋大20、中10、小10




  • 日光例弊使道の宿場
  • 玉村宿‥‥‥1629石、270軒、1030人、問屋場2、問屋8人、本陣1、脇本陣0、旅籠屋大9、中12、小15
  • 五料宿‥‥‥ 484石、161軒、 541人、問屋場6、問屋6人、本陣0、脇本陣0、旅籠屋大0、中0、小2。
  • 柴宿 ‥‥‥ 803石、219軒、 805人、問屋場3、問屋6人、本陣1、脇本陣0、旅籠屋大0、中7、小10
  • 境町間宿(あいのしゅく)‥‥206軒、 844人、
  • 木崎宿‥‥‥ 309石、147軒、 917人、問屋場2、問屋2人、本陣1、脇本陣0、旅籠屋大7、中10、小17
  • 太田宿‥‥‥ 548石、406軒、1496人、問屋場2、問屋2人、本陣1、脇本陣1、旅籠屋大3、中3、小4。
  • 例弊使一行‥‥‥4月10日、坂本宿泊。
  •             4月11日、坂本宿→安中宿昼食→倉賀野→玉村宿泊。
  •             4月12日、玉村宿→五料宿→柴宿小休止→木崎宿→太田宿→下野天明宿泊。
  • 例祭の場合、およそ5060人。家康の百回忌とか百五十回忌といった大法会には人数も倍増された。
  • 例弊使一行の通る前後、公家衆の御通行が続いた。宿場は供揃いの連中に入魂禁を差し出さなくてはならなかった。
  • 例弊使道の問屋場にはいつも馬25疋、人足25人の用意があった。
  • 玉村宿の旅籠屋で働く女の多くは越後から来ていた。玉村の飯売旅籠屋には5人から10人の飯売女がいた。
  • 飯売女がいたのは、玉村、柴、木崎。伊勢崎、境にはなかった。
  • 1852年、玉村の飯売旅籠屋は41軒、平旅籠屋2軒、茶屋7軒。木崎は飯売旅籠屋36軒。




  • 利根川の渡し場 舟渡り‥‥‥日光脇往環の武蔵新郷村──川俣村
  •                     足尾銅山街道から中山道へ通じる新田郡平塚村──武蔵中瀬村
  •                     日光例弊使道の五料宿──柴宿
  •                     日光例弊使道の玉村宿から北上して前橋町に通じる福島村──上福島村
  •                     上新田村──市之坪村間の実正渡舟、
  •                     岩神村──総社町の大渡渡舟
  •                     吾妻川と利根川の合流点に近い白井村──八崎村の戸屋渡舟
  •                     上白井村──猫村を結ぶ有瀬渡舟
  •                     月夜野村──後閑村の竹之下渡舟
  • 利根川の河岸‥‥‥倉賀野、五料、平塚、






  • 1842年の物価 上酒‥‥‥1合24文      上醤油‥‥‥1升188文     上酢‥‥‥1升68
  •          上白砂糖‥‥‥1斥2匁4分  上素麺‥‥‥17100文     上味噌‥‥‥540100
  •           盛り蕎麦‥‥‥1ツ12文    豆腐‥‥‥1丁48文       半紙‥‥‥1帖36
  •           蝋燭‥‥‥32100文      上炭‥‥‥1俵500文      刻煙草‥‥‥100400
  • 1842年8月、金1両=銭6貫500文を公定相場と決める。
  • 1858年の物価 宿泊‥‥‥250300文     酒‥‥‥1合30文      渡し舟‥‥‥1550
  •           草鞋‥‥‥25文        髪結‥‥‥32文       あんま‥‥‥50
  •           飯盛女‥‥‥500600文    夜鷹‥‥‥24

  • 1809年の両替‥‥‥1両=銭6貫720文。





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