酔雲庵


酔中花

井野酔雲








 イーゼルの前に座り込んで絵を描いている昭雄。

 キャンバスには苦しみに歪んでいる女の顔が描いてある。まだ未完成。筆を口にくわえ、キャンバスから離れて絵を見つめる。首を傾げたまま、しばらく動かない。

 六畳一間に台所だけのアパートの一室、窓からは街のネオンの光と酔っ払いの声、飲み屋から流れる下手くそなカラオケの音などが入って来る。壁には何枚もの油絵が無造作に飾ってある。

 B広い草原にポツンと赤ん坊が泣いている絵。

 B妖精の格好をした麗子の肖像画。

 B小川に三日月の影が映り、大きな石に黒く二つの人影のある風景画。

 B足を組んで椅子に腰掛けている裸婦。

 B月夜の晩に祈りを捧げている着物姿の女の図。

 そして、未完成の作品が壁に立て掛けてある。

「ただいま」と赤ん坊をおぶった麗子が帰って来た。

「遅くなってごめんなさい。ねえ、あなた、今、火事があったのよ。ほら、銀行のちょっと先に食堂があるでしょ。そこから火が出たの。わりとすぐに消えちゃったけど凄かったわ。風がなかったから、よそのうちには移らなかったけど、あの食堂はほとんど燃えちゃったわ。それが面白いのよ。消防車が着いた時にはもう、火はほとんど消えてたの。それなのに水を撒いてんのよ。だから、もう水浸し。隣のお肉屋まで、びっしょりよ。親爺さん、かんかんに怒ってたわ。それで、水浸しになったお肉を貰って来ちゃった。すぐ用意するわね」

 麗子は赤ん坊を部屋の隅に寝かせて、台所で買い物袋を開けた。昭雄は絵の道具を片付ける。

「どう、いい絵、描けた?」

「どうも、うまくいかんよ」

「そう‥‥‥ねえ、あなた、今夜、何か面白いテレビある?」

「ああ、あるよ。九時から『殺意』が」

「ああ、あれ。実際にあった話なんでしょ」

「何だってあるだろ、今の世の中」

「でも、怖いわ。理由もないのに殺されるなんて」

「生きてるのに理由がないんだから、死ぬのにも理由なんかいらないさ」

「そうね‥‥‥今、何時?」

「八時半」

「もうすぐ、できるわ」









 テレビでは『殺意』をやっている。

 食卓を囲んでテレビを見ながら食事をしている昭雄と麗子。

「この犯人、今、どうしてるのかしら?」

「外国にいるらしいよ。大分、儲けたらしいからな」

「そうね、ベストセラーだもんね」

「大したもんだよ。刑務所にいて大金持ちになったんだからな」

「でも、たった三年でしょ。また、人を殺したりしないのかしら」

「また、外国でやるんだろ。今度はハリウッドで映画になるかもしれないな」

「あなた、もう、いいの?」

「ああ」

「最近、少し変よ。どこか、体の具合でも悪いんじゃないの?」

「何でもないよ」

「そう‥‥‥でも、人を殺して大金持ちになるなんて、いいわね」

「普通の奴らじゃ、できやしないさ。あいつは天才なのかもしれないよ」

「ねえ、もし、この部屋に突然、入って来たらどうしましょう」

「まさか、そんな事はないさ」

「だって、何も理由なんてないのに関係ない人たちを十八人も殺して来たんでしょ」

「殺しなんて日常茶飯事だろ。いちいち気にしてたら生きて行けやしないよ」

「そうね」

 二人はテレビの画面に熱中してくる。





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