酔雲庵

無住心剣流・針ヶ谷夕雲

井野酔雲










 武芸者は岩屋の中で、彫り上げた観音像を前に座禅を組んでいた。

 宝冠(ほうかん)を頭に乗せ、合掌しながら微笑んでいる五寸(約十五センチ)ばかりの小さな観音様だった。

 外から忍び込んで来る風で、時折、焚き火の火が揺れ、観音様の表情が変わるように感じられる。慈悲深い優しい表情が、怒りに燃えた表情へと変わった。

 武芸者は突然、右膝を立てて腰を浮かせると、気合と共に刀を抜いた。刀は鋭い音を立てて空を斬った。素早く、刀を納めると、また座禅に入った。

「何をそんなに考えていらっしゃるの」と誰かが言った。

 武芸者は目を開け、辺りを見回した。

 人がいるはずはない。気のせいじゃろうと、また、目を閉じた。

「ねえ、何をそんなに考えていらっしゃるの」とまた、女の声がした。

 武芸者は目を開け、回りを見るが誰もいない。首を傾げ、首の後ろを何度か叩いた。心を落ち着け、深く息を吸い、目を閉じようとした時、「わたくしよ」と木彫りの観音様が言った。

「独りで悩んでいても仕方ありませんよ」

 武芸者は観音様を睨みながら刀の(つか)に手をやった。

「ちょっと待ってください」と観音様は手を上げた。

 武芸者は刀の柄を握ったまま身を引いた。

 物の()にたぶらかされているのか‥‥‥

 武芸者の心を見抜いたかのように観音様は、「あなた、わたくしを妖怪かキツネか何かだと思っていらっしゃるのね」と言った。

 武芸者は頭を何度も振り、「えいっ!」と気合を入れて、目を閉じた。

 両手で(いん)を結ぶと怨霊退治の真言(しんごん)を何度も唱え続けた。

 観音様の声は消えた。焚き火の火が弾ける音と風の音が聞こえるだけだった。

 武芸者はそっと目を開けた。

 観音様は元の通りに合掌していた。

 武芸者は安心して溜め息をついた。

悪霊(あくりょう)ではございません」と観音様は両手を動かし、またしゃべった。

「わたくしは観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)でございます。しかも、あなたが作り出した観音様でございます。あなたがどう思おうと構いませんが、わたくしに悩みを話してみなさい。別に損するわけではないでしょう。それとも斬りますか」

 武芸者はゆっくりと刀を抜きながら腰を上げ、上段に構えると気合と共に振り下ろした。観音像の頭上、わずか紙一重の所で刀は止まった。

 物の怪は退散したはずだった。武芸者は静かに刀を納めた。観音様を手に取ってよく見たが、何の変化も見られなかった。武芸者は安心して、うなづいた。

「気が済みましたか」と観音様は武芸者の手の中で、笑いながら言った。

 武芸者は観音様を放り出すと腰を落とし、また、刀に手をやった。

 放り出された観音様は自力で立ち上がると、ピョンピョンと撥ねながら元の場所に戻って来た。

「そんなに怖い顔をしていないで、素直にわたくしを信じなさい。わたくしはあなたが作った観音様なのでございますよ」

 武芸者は恐る恐る観音様に近づいた。観音様はやさしく微笑んでいた。観音様の笑顔を見ているうちに、武芸者の心の中の猜疑心が徐々に薄れて行った。

「うむ。そうじゃな、信じるか」と刀から手を放すと観音様の前に座り込んだ。

「話してくれますか」と観音様は右手を差し出して言った。

「何を」と武芸者は観音様に顔を近づけて聞いた。

「あなたの悩み」

「わしの悩みか」

 武芸者は腕組みをして、少し考えてから話し始めた。

「実はの、人様の奥方に惚れちまってのう。それがいい女子(おなご)なんじゃ。寝ても覚めても、その女子の事が忘れられなくて、まいってるんじゃ。どうしたらいいもんかのう」

「あら、そうだったの。面白いお方ね。あなたが人様の奥方に惚れたのでございますか。そんなの簡単ではありませんか。その自慢の人斬り包丁で、御亭主を料理すれば片が付くでしょ」

 観音様は亭主を斬る真似をしてみせた。

「そうじゃな。やはり、それが一番いいか」と武芸者は納得した。

「あなた、昼間は毎日、棒振り踊りをしてらっしゃって、夜は座禅をしてらっしゃるから、真面目な堅物(かたぶつ)だと思っていたら、わりと面白いお方ではありませんか」

 観音様は両手を後ろに組んで武芸者を見上げた。

「それ程でもないぜ」と武芸者は口髭を撫でた。

「どうして、こんな山の中にいるのでございますか」

「世の中に飽きてのう。仙人にでもなろうかと思ってな」

「そんな年でもないでしょ。下界で人様の奥方と遊んでいらした方が面白いでしょうに」

「飽きたわ」

「この色男が、何を言ってらっしゃるの」

 武芸者は右手を伸ばして、そっと観音様をつかんだ。手触りはやはり、ただの木像だった。武芸者は観音様を手のひらの上に乗せ、顔の前に持って行った。

 観音様は笑いなから、「まあ、いいでしょう」と言った。

「あなたが言いたくないって言うのなら言わなくても結構でございます。それより、今夜は一緒にお酒でも飲みましょうよ」

「なに、酒を飲む?」

「お嫌いですか」

「嫌いじゃないが、ここには酒などない。しかも、観音さんよ、そなた、どうやって酒を飲むんじゃ」

「そんなの簡単でございます。この窮屈な木像から出ればいいのでございます。ちょっと待っていてくださいね」

 観音様が両手を上げると突然、焚き火の火が大きく揺れた。揺れながら火はだんだんと小さくなり、パッと消えると真っ暗になった。同時に、手のひらの上の観音様もなくなった。

 武芸者は暗闇の中、刀の柄を握り、じっと耳を澄ませた。

 しばらくして、再び、焚き火の火が付くと、焚き火の向こうに等身大の観音様が現れた。

 観音様は紫色の煙の中で微笑していた。後光を背に黄金色の宝冠をかぶり、宝石をちりばめた首飾りと腕輪を身につけ、キラキラと輝く着物をまとって、白銀(しろがね)色の瓶子(へいじ)を抱えて微笑んでいた。

 やがて、紫色の煙が流れて消えると、「もう一度、わたくしの肝を試すおつもりでございますか」と観音様は言った。

 木像の時と同じ声だったが、玉のように美しい声に聞こえた。

 観音様はゆっくりと近づいて来て、武芸者の隣に来て座ると、刀を押さえるように武芸者の手にさわった。その手の感触は滑らかで柔らかく、以外にも暖かかった。

「いや」と武芸者は首を振り、刀から手を放すと両目をこすった。

 寝不足がたたって、幻覚を見ているのじゃろうか。木像が動き、しゃべる位なら、まだ、症状は軽い。しかし、実際に観音様が現れるとなると、かなりの重症じゃ。

 背筋を伸ばし、心を落ち着け、恐る恐る目を開いてみた。やはり、目の前に観音様はいた。美しい顔で武芸者を見つめ、ニコニコ笑っている。

「心配しないで。これは夢の中でございます」と観音様は言った。

「夢か‥‥‥そうじゃろう。そうに違いない」

 武芸者は夢の中の事だと納得して目の前の観音様の存在を認めた。

「フフフ‥‥‥まあ、一杯やりましょ。あなたも久し振りなのでございましょ」

 観音様は二つの酒盃(さかづき)に酒を注いだ。さすが、夢の中だけあって、今まで見た事もないような黄金の酒盃だった。

甘露(かんろ)でございますよ」と観音様は武芸者に酒盃を渡した。

 (きぬ)ずれの音と共に、微かにいい香りが漂って来た。甘い魅惑的な香りだった。

 武芸者は酒盃の中を覗き見た。透き通った上等な酒だった。

「毒入りでございます」と観音様は以外な事を言って笑った。

 武芸者は観音様の顔をまじまじと見つめた。

 本当に毒が入っているのか。いや、観音様はわしを試しているに違いない。わしの覚悟を試しているに違いない。

「観音様と一緒に死ぬのもいいじゃろう」と武芸者は一気に飲み干した。

「うまい。こいつは最高じゃ‥‥‥はらわたに染み渡るのう」

 それは滅多にお目にかかれない『諸白(もろはく)』に違いなかった。

「そりゃそうでございますよ。お釈迦(しゃか)様が飲んでいらっしゃるお酒なのでございますから」

 観音様も酒を飲んだ。キラキラと光る薄い着物から出た白くて細い腕がやけに眩しかった。

「ほう。お釈迦様も酒を飲むのか」

「当然でございましょ。元々、お酒は神様や仏様にお供えするために人間が考えたのでございます」

「へえ、そうかね。物知りなんじゃな」

「わたくしは観音様でございます。大抵の事は存じております」

 観音様は酒を注いでくれた。焚き火の火に照らされて、観音様の薄い着物越しに、なまめかしい白い肌が透けて見えた。武芸者はニヤリとひそかに笑った。

「お釈迦様ってえのは、どんな男なんじゃ」

「いい男でございますよ、昔はね」と観音様は足を崩して座り直した。

 着物の裾が割れ、ふくら(はぎ)があらわになった。足首にも宝石の輝く足輪をつけていた。その宝石は勿論、見事だったが、白磁(はくじ)のように真っ白な足はそれ以上に見事だった。武芸者の目は観音様の足に釘付けになった。

 観音様は武芸者の視線など気にもせず、右手を武芸者の膝の上に置くと、左手で酒盃を持ち上げ、酒を飲み干した。

「最近はもうろくして駄目でございます。昔、書いたお経を読み返しては、ああでもない、こうでもないってブツブツ言っております」

 観音様は武芸者の前に酒盃を差し出した。その時、観音様の左肩から着物がずり落ち、ピンと張った見事な乳房が顔を出した。

 武芸者は目を丸くして乳房を見つめながら、観音様の酒盃に酒を注いだ。瓶子を持つ手が震えていた。

「あら、いやでございます」と観音様はずり落ちた着物を持ち上げ、武芸者を見ると笑った。

 形のいい乳房は隠れてしまったが、左膝を立てたため、今度は太ももがチラリと顔を出した。

「わしは無学じゃから、お経なんて読んだ事もないが、一体、何が書いてあるんじゃ」

 観音様の白い肌に心を奪われながらも、武芸者は興味もないお経の事を聞いた。

「たわごとでございます。本当はお釈迦様だって大変なのでございますよ。馬鹿な人間どもに、お釈迦様のお気持ちをわかりやすく教えてやろうと思って、いっぱい、お経を書いたのでございます。それでも昔はよかったのでございます。みんな、知っておりました。お経の中に書いてあるのは、お釈迦様のお心のほんの一部に過ぎないという事を。お釈迦様のお心はもっとずっと大きくて、決して言葉なんかで表せるものなんかじゃないっていう事をね」

 武芸者はニヤニヤしながら、ちびちびと酒を飲んでいた。観音様は一息に酒を飲むと、また、武芸者の方に差し出した。武芸者は酒を注いでやった。

「ところが、人間は馬鹿でございます。そのうちに、お経がお釈迦様のお教え、すべてなんだと思い込んでしまうのでございます。大きな立派なお寺を建てて、その中で朝から晩まで、お経を読んで、成程、成程って勝手にお釈迦様の事を理解したような気になってしまって‥‥‥冗談ではございません。お経なんて、ただの道しるべに過ぎないのでございます。それも一番の初歩なのでございます。山でたとえたら入口みたいなものなのでございます。入口の辺りをウロウロしていて山の頂上に登った気でいるのだから、もうどうしようもございません。お釈迦様のお考えが台なしになってしまったのでございます。お経を残したばかりに、みんながお経にとらわれてしまったのでございます。かと言って、何も残さなかったら馬鹿な人間たちは信じません。それで今、お釈迦様は悩んでいるのでございます。大変でございますよ、お釈迦様も‥‥‥人間が馬鹿だから休む暇もございません」

 観音様は自分の話に熱中し、着物がずり落ちたのも気づかない。右肩から着物が落ち、今度は右の乳房が顔を出し、立てた左膝は太ももまで、すっかり丸出しとなっていた。

「おい。あまり人間を馬鹿、馬鹿言うな」と武芸者は怒ったが、そんな事は今の武芸者にとって、どうでもいい事だった。このまま話に熱中し、観音様が益々、肌をあらわにする事を願っていた。

「そうでございますね。人間の中にも、やはり偉い人もいらっしゃいます。ちゃんと、お釈迦様のお教えをわかってくれる人もいらっしゃいます。でも、やはり、それは仕方のない事なのでございます。人間、全部がわかってくれるなんて、所詮、無理なのでございます。わかる人にはお経なんてなくてもわかるし、わからない人には、お経があってもわからないものなのでございます。それを、わからない人にもわからせようとするのだから大変なのでございますよ、お釈迦様は」

 観音様は話し続け、酒も飲み続けた。武芸者の期待通り、観音様の着物はますます乱れ、両肩からずり落ちて、二つの乳房が仲良く顔を出していた。

「そなたも似たような事をしてるんじゃろ」と武芸者はわざとつまらなそうな顔をして聞いた。

「そうでございます。でも、わたくしは物ぐさでございますから、わたくしの名前を呼んでくれなければ助けには行きません」

 観音様は立てていた膝を倒すとあぐらをかいた。着物の裾はさらに乱れて、両もももあらわとなった。観音様の薄い着物は腰に巻いた細い帯の回りと、両肘の所にたるんでいるだけで、ほとんど裸同然だった。観音様はその事に気づいているのか、頬をほんのりと染めて酒盃を差し出した。

 武芸者は酒を注いでやりながら、「わしは別に呼んじゃおらんぞ」と言った。

「嘘でございます。毎晩、わたくしを呼んでおりました」

「わしがか」と武芸者は首をかしげた。

「その像を彫っていらしたでしょ」と観音様は転がっている木像を指さした。

 武芸者が木像を見ると、不思議な事に、その木像には顔がなかった。

「そんな、馬鹿な」と手に取ってよく見たが、やはり、木像の顔はのっぺりとしていて何もなかった。

「抜けがらでございますよ」と観音様は笑った。

「一々、観音経なんて唱えなくても、観音像を彫れば、それだけでも縁ができるのでございます」

「そうか」と武芸者は木像を置き、瓶子を手にした。

 もう、かなりの量を飲んだはずなのに、瓶子の中の酒は少しも減っていなかった。観音様は武芸者から瓶子を奪い取ると、武芸者にお酌をしようとした。武芸者は酒盃の中の酒を飲み干し、観音様の乳房の前に差し出した。

「そういえば観音様を彫ったのは初めてじゃ」

「そうでございましょう」と観音様は武芸者の顔を覗くと、武芸者にもたれ掛かって来た。

 観音様の背中が武芸者の肩に触れ、観音様の後光が武芸者を包んだ。武芸者は左手で観音様の腰を抱き、なみなみと注がれた酒盃を口へと持って行った。武芸者の左の手のひらの下に丁度、細い帯があった。観音様は武芸者に持たれながら、左膝を立てて酒を飲んでいた。

「ところで観音様というのは女じゃったのか」と武芸者は帯の結び目を探りながら聞いた。

「いいえ。観音様は男でも女でもないのでございます」と観音様は武芸者の左手をさわった。

 たくらみがばれたかと武芸者は思ったが、観音様の左手はすぐに離れ、武芸者の膝へと移った。

「しかし、どう見ても、そなたは女じゃ」と武芸者は帯の結び目をつかんだ。

「わたくしはあなたが彫った観音様のまま出て来たのでございます。あなたが女のように彫ったのでございましょ」

 観音様は体を動かし武芸者の方に向いた。が、ゆったりと結んである帯の結び目は武芸者の手の中にそのままあった。帯の結び目が背中の方に回ってしまったのを観音様は気づかなかった。

「意識したわけじゃないがの。女子(おなご)のようになってしまったわ」

「もしかしたら、今のわたくしの姿は、あなたが理想に思っていらっしゃる女の姿ではございませんか」と観音様は自分の姿を眺めた。

 乱れた着物に気づいても、あえて直そうとはしなかった。

「かもしれん。そなたはいい女子じゃからの」

「女子ではございません。観音様なのでございます」と観音様は武芸者の髭面を撫でた。

「勿体ないのう」と武芸者は観音様の乳房にさわった。張りのある滑らかな肌だった。

「あなた、女に飢えていらっしゃるのではございませんか」

 観音様は身を乗り出して、武芸者の首を両手で抱いた。

「うむ。ここに籠もって、もう十日以上経つからのう。目の前に、いい女子がいれば、当然の事じゃ」

「女子じゃないって言っているでしょ。わからない人ね」

 観音様は髭を引っ張った。

「そんな格好をしてれば、誰でも女子じゃと思うわ。しかも、裸同然でのう」

 武芸者は左手で帯の端を引っ張った。帯が解け、着物が二つに割れた。今まで隠れていた部分が丸見えとなった。

 観音様は武芸者の視線に気づき、ニヤッと笑うと、「わたくしを抱きたいのでございますね」と色っぽく聞いた。

 武芸者もニヤッと笑うとうなづき、観音様に抱き着いた。

「面白くないわね」と観音様は急に素面(しらふ)になって武芸者から身を離した。

「あなた、どうして、そう素直なの。ここで修行する人間は、わたくしが誘っても、修行中だと言って拒むものなのよ。こんな格好で誘いを掛けても、惑わされないで、じっと耐えるものなのよ。それをなによ、あなたは欲望剥き出しじゃないの」

「欲望剥き出しじゃ悪いのか」と武芸者は目をギラギラさせて観音様を抱き寄せた。

「修行がなってないわ」と観音様は両手を突っ張った。

「まだ、十二日じゃ。修行はこれからじゃ」

 武芸者は観音様を押し倒した。

「面白くない。もう、やめた」

 観音様がそう言うと、裸だったのが一瞬の内に、厚くて、やぼったい着物をまとってしまった。

「何じゃ、これは」と武芸者は観音様から身を離した。

 丸々と着膨れした観音様は正座すると、武芸者を睨んだ。

「わたくしは、あなたに目の保養をしてもらおうと思って出て来たんじゃないの。あなたにいい思いをさせるために出て来たんじゃないのよ。あなたを悩ませてやろうと思ったけど、もう、やめたわ。さあ、あなたが困ってる事を聞いてあげるから、さっさと言ってよ」

 観音様は自分で酒を注ぐと一息にあおった。

「わしは別に困っとりゃせん」

 武芸者はふて腐れて、落ちている酒盃を拾うと自分で注いで酒を飲んだ。

「嘘よ。わたくしを彫ったって事は、あなたはわたくしに救いを求めたの。あなたの心の中に何か大きな変化が起きて、知らず知らずのうちに、わたくしに救いを求めたのよ」

 武芸者は面白くなさそうに酒を飲んだ。

「確かに、わしの中で変化が起きた事は事実じゃ」

「でしょ」と観音様は笑った。

 武芸者はその笑顔を見ると、急に我に返った。観音様に抱き着いた自分が急に恥ずかしくなった。恐れ多い事をしてしまったと後悔した。姿勢を正し、真面目な顔付きになって話し始めた。

「わしは子供の頃から強くなりたいと思っていた。強くならなけりゃ駄目じゃと思って来た。わしは剣術を習った‥‥‥やっぱり、前の方が観音様らしいぞ。薄汚い飲み屋の女将と話してるようじゃ」

「いいのよ」と観音様は素っ気なく酒をあおった。

「別に変な意味で言ったわけじゃない」

「いいから、続きは?」

「今までのわしは剣一筋に生きて来たといってもいい。それこそ、朝から晩まで木剣を振っていた。夜、寝る時でさえ剣の工夫をしていたんじゃ。お陰で新陰流の奥義(おうぎ)を極めるまでになった。諸国に修行に出て他流試合を何度もやった。一度も負けはせん。すべて勝つ事ができた。時には相手を殺してしまう事もあった。しかし、それは試合じゃ、仕方のない事じゃと思っていた。お互いに剣に命を懸けて生きている。剣に命を懸けてる者が剣に敗れて死ぬのは当然の事じゃと思っていた‥‥‥つい、この間も、わしは試合をした。木剣でやった。勝負は紙一重で、わしの勝ちじゃった。しかし、相手にはわからなかった。今度は真剣でやると言い出した。わしは受けた。そして、相手は死んだ‥‥‥わしはあまり、いい気分にはなれなかった。なぜだか、わからん。今までにも同じような事は何度かあった。しかし、それは仕方のない事じゃと割り切って来た。ところが、今回はなぜか、後味が悪かった。わしがその場を去ろうとした時、どこからか、死んだ男の妻と子が出て来た。二人とも死体の上に重なって泣いていた。わしは早く、その場を去ろうとした。しかし、なぜか、気になって足が止まった。わしは引き返した。なぜ、引き返したのかわからん。何も考えていなかった。自分が何をしようとしてるのか、まったくわからなかったんじゃ。わしは妻と子に頭を下げ、仏に両手を合わせた‥‥‥その妻はできた女じゃった。わしの事を許してくれた。いつか、こうなる事がわかっていたという。子供はわしに向かって、『父上を返せ』と泣きながら叫んだ‥‥‥その子は、わしにそっくりじゃった。その子が父親の仇を討つために剣術の修行を積んで、わしの前に現れる姿が、はっきりとわしには見えたんじゃ‥‥‥わしにはわからなくなった。確かに、わしは強くなった。しかし、こんな事をするために、剣術の修行を積んで来たわけじゃない。剣術というのは、こんなもんじゃないはずじゃ‥‥‥わしにはわからん」

 観音様は足を崩して、あぐらをかいた。厚い着物の裾が割れ、足が見えたが、御丁寧に分厚い(はかま)をはいていた。

「わたくしにもわからないわ。でも、剣術っていうのは人殺しの術でしょ。人を殺すのがいやになったんなら、そんな刀なんて捨てればいいじゃない」

「刀を捨てるのは簡単じゃ。しかし、わしには本物の剣術っていうものが、何か、もっと深いもののような気がするんじゃ」

 観音様は空になった酒盃を見つめていた。武芸者は酒を注いでやった。観音様は顔を上げると聞いた。

「新陰流を作った人はどんな人だったの」

上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)殿か‥‥わしも師匠から何度か聞いた事はある。大した人物じゃったらしい」

「あなたもその位になればいいんじゃない」

「それがわからんのじゃ」

「やっぱり、それは自分で見つけるしかないわね。そういうものは人からああだ、こうだって言われてわかるものじゃないわ。自分で苦労して、つかみ取らなきゃ駄目ね」

 観音様は酒を飲み、舌を鳴らした。

「ただ言えるのはね、今のあなたの剣術は弱い者には勝てるけど、強い者には負けるわ。同じ位の者とやれば相打ちね。それじゃあ、畜生(ちくしょう)と一緒よ。そんなのは畜生兵法(ひょうほう)ね」

「畜生兵法じゃと‥‥」

 武芸者は観音様を睨んだ。たとえ、観音様だろうと許せん!

 観音様は武芸者の気持ちなど、お構いなしに話し続けた。

「そう。オオカミがウサギを殺す。鷹が小鳥を殺す。小鳥が虫を殺す。強い者が弱い者を殺す」

「そんな事は当然じゃろ」

 武芸者はカッカしていた。

「あなたの剣術もそれと同じ。でも、それ以下かもしれないわ。鷹は強いけど、それを自慢したりしないわ。どうしても必要な時だけしか小鳥を殺したりはしない。あなたはどう」

「わしだって自慢なんかせん。わしは好きで殺してるわけじゃない」

「そうかしら」と観音様は皮肉たっぷりに笑った。

「そうじゃ」

 武芸者は観音様を睨みながら酒をあおった。怒りで体が震えていた。観音様は武芸者が怒るのを面白そうに横目で眺めていた。

「まあ、いいわ。その辺の所を考えるために、ここにいるんでしょ。ゆっくり考えるといいわ」

「畜生! わしにはわからん」

「あせらず、のんびりやる事よ」

 観音様は馬鹿にしたように笑った。

 武芸者は突然、犬の遠吠えのような大声を挙げ、腰の刀を抜くと素早く、空を斬った。

 観音様は一瞬にして消えた。




 次の夜も観音様は分厚い着物のまま現れ、武芸者を怒らせては楽しんでいた。

 あの観音様は人を困らせるのが好きらしいと武芸者は気づいた。観音様に乗せられてカッカするのはやめ、自分の気持ちと反対の事を言えば、また、薄着に戻るかもしれないと三日めの夜、観音様が現れるのを楽しみに待っていたが、とうとう現れなかった。

 その後、観音様が現れる事はなかった。今度は弁天(べんてん)様が出て来るようにと、琵琶を持った裸の弁天像を彫ってみたが、弁天様が現れる事もなかった。





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