酔雲庵

無住心剣流・針ヶ谷夕雲

井野酔雲







十二




 お鶴は二日めの朝になっても目を覚まさなかった。

 焚き火がどんどん燃えている暖かい岩屋の中で、たっぷりと敷いた藁の上に、お鶴は寝ていた。落ちた時に打ち所が悪かったのか、体に熱を持っていた。五郎右衛門は座禅をしながら、小まめにお鶴の看病をしていた。

 なぜじゃ。

 なぜ、お鶴はあんな事をしたんじゃ。

 普通だったら、二人とも死んでいたはずじゃ。わしをそれ程までに憎んでいたのか。

 多分、憎んでいたんじゃろう。お鶴は亭主に惚れていた。長い間、苦労してきたお鶴にとって、亭主との暮らしは夢のように幸せだったに違いない。わしはその生活を壊した。亭主の命を奪った。憎むのは当然じゃ。

 わしを剣で殺す事は不可能とみて、わしと一緒に崖から飛び降りたのか。いや、違う。あの時のわしはお鶴に対して、まったく警戒していなかった。わしだけを突き落とす気じゃったら、それもできたじゃろう。

 いや、それはできん。もし、お鶴がわしを突き落とそうとすれば、その前に、お鶴の素振りにその事が絶対に現れる。わしがそれに気づかないはずはない。あの時のお鶴には、そんな素振りは全然なかった。普段と変わらず、陽気に酒を飲んでいた。うぐいすの鳴き声まで真似していた。まず、自分を殺して、無心になっていたのか。

 自分を殺してまで、わしを殺す‥‥‥

 仇を討ったからといって、自分まで死んでしまったのでは、どうしようもないじゃろうに‥‥‥

 わからん‥‥‥まったく、わからん女子(おなご)じゃ。

「ここはどこ」とお鶴が昼過ぎになって、ようやく目を覚ました。

「大丈夫か」と五郎右衛門はお鶴の額の上の手拭いをはずして額にさわった。

 まだ、熱があった。

「五右衛門さん‥‥‥」

 お鶴はやつれた顔で、五郎右衛門の方を見た。やっと開いている目で、五郎右衛門の姿を捜しているようだった。

 五郎右衛門は身を乗り出し、お鶴の顔の上から、「しっかりしろ!」と声を掛けた。

 お鶴は五郎右衛門を見つめると、「あたしたち、生きてるのね」と弱々しい声で言った。

 五郎右衛門はうなづいた。

「奇跡的に助かった」

「そう‥‥‥助かったの‥‥‥いいえ、これで川上新八郎の妻であった鶴は死にました‥‥‥そして‥‥‥」

「どうして、あんな事をしたんじゃ」

「御免なさい‥‥‥あたし、あなたに嘘をついてたの」

「嘘?」

 嘘と言われても五郎右衛門にはすぐにわからなかった。が、愛洲移香斎の洞穴の事じゃなと気づいた。熱にうなされながらも、そんな事を気にしているなんて、いじらしい女だと思った。

「いいんじゃ」と五郎右衛門は優しく言った。「話は後でいい。今はゆっくり休む事じゃ」

 お鶴は小さくうなづいて五郎右衛門の方に右手を差し出した。五郎右衛門はお鶴の手を両手で優しく包んでやった。

 お鶴は軽く笑って、眠りについた。

 五郎右衛門はしばらく、お鶴の手を握ったまま、彼女の顔を見つめていた。

 自分のために自分を殺す‥‥‥夫のために自分を殺す‥‥‥果たして、今のわしにできるか。お鶴がやった事ができるか。

 自分を殺す‥‥‥自分を殺して、相手を殺す‥‥‥待てよ、それを剣にたとえると‥‥‥敵と向かい合って剣を構える‥‥‥誰もが勝ちを願う‥‥‥敵がこう来ればこう‥‥‥ああ来ればこう‥‥‥それでは畜生兵法(ちくしょうひょうほう)じゃ。強い者には負け、弱い者には勝ち、同格なら相打ち‥‥‥待てよ、相打ち‥‥‥

 自分を殺し、相手も殺す‥‥‥

 自分を殺す事ができれば、自分以上の相手とやっても相打ちに持って行く事はできる。

 自分を殺し‥‥‥相打ちに‥‥‥

 それじゃ。相打ちになって、両方が死ねば仇討ちなどというものはなくなる。しかし、自分を殺すとなると、一生に一度しか剣を使えなくなる‥‥‥

 うむ、それでいいんじゃ‥‥‥それでいいんじゃ。本物の剣は一生に一度の大事な時に使えばいい。無益な殺傷はすべきではない。

 わしにできるか‥‥‥自分を殺す‥‥‥

 五郎右衛門はお鶴を見守りながら、相打ちについて真剣に考えていた。




 お鶴が深い眠りから覚めたのは、崖から落ちてから五日めの朝だった。

 熱も下がったようだった。

 五郎右衛門はお鶴のためにお(かゆ)を作ってやり、ほんの少しだったがお鶴は口にした。

「五右衛門さん。ありがとう」とお鶴は目に涙を溜めて言った。

「何をしおらしい事を」と五郎右衛門はお鶴の手を握った。

「あたし、あなたに嘘をついてたの。御免なさいね」

「そんな事はいいんじゃ。移香斎殿の洞穴の事じゃろ」

 お鶴は寝ながら首を振った。

「違うの、違うのよ。あなたは夫の仇じゃないの」

 五郎右衛門は自分の耳を疑った。

「なんじゃと」

「御免なさい。ほんとに御免なさい。あなたじゃないのよ。あなたじゃないの」

 お鶴は潤んだ目で、じっと五郎右衛門を見つめていた。

「ほんとに、わしじゃないのか」

 お鶴はうなづいた。涙を拭くと、「みんな話すわ」と言った。

「あたしの夫を殺したのは松林左馬助(さまのすけ)という人なの」

「松林左馬助?」

「あなたと同じ武芸者よ」

「聞いた事もない。何流の使い手じゃ」

夢想願流(むそうがんりゅう)

「夢想願流? そんな流派があったのか‥‥‥」

 五郎右衛門は江戸にある武術道場を思い出してみた。江戸には様々な流派が道場を出して門弟を集めていたが、夢想願流などという流派は聞いた事もなかった。

「左馬助が自分で開いた流派よ」

「自己流か‥‥‥その左馬助とやらは、かなりの年配なのか」

「いいえ、あなたと同じ位よ」

「わしと同じ位で流派を開くとはのう。余程の自信家じゃな」

「信州の浅間山に三年間、籠もって、修行を積んだんですって」

「ほう、浅間山にか‥‥‥」

 上州と信州の国境にある浅間山は五郎右衛門も知っていた。駿河の富士山を小さくしたような形のいい山だった。この赤城山よりも雪が多く、冬は真っ白に化粧していた。

 お鶴は水が飲みたいと言った。五郎右衛門は水瓶(みずがめ)から汲んだ水を飲ませてやった。

「早く、酒が飲めるようになれよ」

 お鶴は笑いながら、うなづいた。

「あたしが初めて左馬助に会ったのは、あたしが十五の時だったわ。左馬助は武者修行の旅をしてたの。あたしは旅芸人の娘に生まれて、両親に連れられて旅から旅への毎日だった‥‥‥十三の時、初舞台に立って踊ったわ。その頃、出雲(いずも)のお国の歌舞妓(かぶき)踊りが流行っていて、あたしたちの一座も歌舞妓踊りをやってたの。男の格好をして舞台で踊ってたのよ。十五の時、左馬助はあたしの舞台を見て、あたしの事をとても褒めてくれたわ。お国よりもずっと素晴らしいって言ってくれたの。お世辞だったんだろうけど、あたしは本気にしちゃって大喜びしたわ。左馬助はその後、半年位、あたしたちと一緒に旅をしたの。左馬助は強かったわ。一座の者たちも左馬助を用心棒のように頼りにしてたの。左馬助は面白い話を色々としてくれたわ。若い割りには色々な事を知っていた。あたしは夢中になって左馬助の話を聞いてたわ。

 左馬助のお父さんは会津の上杉家に仕えてたの。でも、関ヶ原の合戦の時、お父さんは怪我をしてしまって、二度と戦のできない体になってしまったらしいわ。西軍だった上杉家も合戦の後、百二十万石から三十万石に減らされてしまい、左馬助のお父さんは上杉家を離れて信州に帰って来たの。まだ八つだった左馬助を連れてね。左馬助は小さい頃からお父さんより武芸を習い、さらに自分で修行を積んで夢想願流を編み出したの。十八の時だったそうよ。あたしは左馬助の事が好きになってしまったわ。このまま、ずっと、左馬助が一緒にいたらいいと願ったけど、左馬助は半年経ったら旅に出てしまった。戦をしに大坂に行ってしまったの。あたしは悲しくて悲しくて、毎日、泣いてたわ。そのまま、二度と左馬助に会わなければ、あたしは左馬助の事は忘れていたかもしれない。でも、一年後に旅先で、ばったりと再会しちゃったの。また、あたしは左馬助にのぼせちゃって、左馬助もまた、一緒に旅をしてくれたわ。そして、半年後にまた別れて、一年位したら、また再会して‥‥‥そんな事の繰り返しだった。

 十九の時、京都で夫と出会ったの。その時は話をしただけだったけど、あたしは夫に惚れてしまったわ。でも、あたしはしがない旅芸人、相手は立派なお侍、身分違いだと諦めて、また、旅に出たの。そして、また、左馬助と会って、半年近く、共に旅をするという生活に戻ったの。左馬助はあたしと一緒になろうとは言わなかった。あたしたちの一座は、いつも旅をしてたけど、毎年、同じ所を回っていたの。だから、今頃はこの辺りにいるって左馬助は知ってたのよ。左馬助はあたしに会いたくなると、そこに行って、あたしと会い、別れたくなると一人で旅に出ちゃうの。二十歳前は、あたしもそれでよかったの。でも、二十歳を過ぎると若い娘に舞台は取られちゃうし、いつまでも踊ってはいられないのよ。あたしも、これからの事を考えると不安になったわ。でも、左馬助が現れると、そんな事はどうでもいい。今がよければいいじゃないと開き直ってしまうの。そして、左馬助と別れてから、もう二度と左馬助とは会わないって誓うのよ。でも、やっぱり、会うと駄目だったわ。でも、二十歳の秋、左馬助と別れた後、夫が突然、現れて、あたしと一緒になりたいと言い出したの。夢のようだった。あたしは一座をやめ、川上新八郎の妻になったの。幸せだったわ‥‥‥ほんとにあの頃は夢のようだったわ‥‥‥

 夢のような生活は長くは続かなかった。一年後に、また、左馬助が現れたのよ。左馬助は二人の事を夫にばらすと言って、あたしを脅したわ。あたしは左馬助を何とか説得して、旅に出させたの。でも、また、一年後、やって来たわ。その時、左馬助は自分の弟子にあたしの様子を探らせるために先によこしたの。あたしがその弟子と会っている所を夫に見つかってしまって、あたしは仕方なく、昔の男がゆすりに来たんだって言ってしまったの。夫は左馬助の弟子に会いに行ったわ。話をつけて来ると出掛けて行ったけど、夫はその弟子を斬っちゃったの。私闘は禁止されてるのに、夫は人を斬っちゃったの。あたしは夫を助けるために武者修行の旅に出したわ。そして、あたしも左馬助が現れる前に、その場から消えたの。ほとぼりがさめて、夫が旅から戻って来るまで、あたしはまた、一座に戻って旅に出たわ。左馬助は弟子を殺された恨みを晴らそうと夫を追って行って、武蔵の国で殺してしまったのよ。左馬助は夫を殺してから、あたしの前に現れて、得意気に話して聞かせたわ。あたしは左馬助を殺そうとしたけど駄目だった。左馬助が旅に出ると、あたしも左馬助を追って旅に出たの。でも、途中で見失ってしまって、この山に和尚さんがいる事を思い出して、ここにやって来たの。そして、あなたと会ったっていうわけ。あたしが五日間、ここに来なかった時があったでしょ。あの時、お寺に来た人から左馬助の噂を聞いて、あたし、山を下りたの。左馬助と一緒に死ぬ覚悟で山を下りたんだけど、左馬助には会えなかったわ」

「そうじゃったのか‥‥‥」

 お鶴は武家娘じゃなかった。旅芸人の娘だという。という事は、お鶴が身に付けている剣術は武士のものではなく、旅芸人のものという事になる。

 旅芸人は年中、旅を続けているため、身を守るために武術を身に付けているとは聞いていた。お鶴の腕からすると旅芸人の武術も、なかなか(あなど)れないものがあると思った。

 五郎右衛門にとって、お鶴が武家娘であろうと旅芸人の娘であろうと、そんな事はどっちでもよかった。ただ、お鶴の仇が自分ではないという事は、ほんとに嬉しい事だった。

 お鶴の仇は松林左馬助という男だった。しかし、その仇はお鶴の情夫でもあった。十五の時に出会い、お鶴が初めて愛した男だった。関ヶ原の時、八歳だったという左馬助は五郎右衛門と同い年という事になる。十八歳の時、夢想願流を編み出し諸国修行の旅に出たという。

 左馬助はお鶴をもてあそんでいたのか。抱きたくなったら現れ、飽きたら、また旅に出る。自分勝手な事をしておきながら、お鶴が他の男と一緒になって幸せになると、平気で、その男を殺してしまった。五郎右衛門はお鶴をもてあそんだ左馬助を許せないと思った。殺してやりたいと思った。

 五郎右衛門はお鶴を見た。やつれた顔で五郎右衛門を見つめていた。

「どうして、わしが仇じゃと嘘をついたんじゃ」

「あなたが強そうだったから、あなたを左馬助だと思って、仇討ちのお稽古をしようと思ったのよ。あなたを殺す事ができたら、左馬助も殺せると思ってたんだけど駄目だったわ。あたし、だんだんとあなたの事が好きになっちゃったみたい」

「わしは稽古台じゃったのか‥‥‥」

「御免なさい」

 お鶴は手を伸ばして五郎右衛門の手をつかみ、五郎右衛門を見つめた。

「わしと一緒に崖から飛び降りたのはどうしてじゃ。あれも稽古じゃったのか」

 お鶴は首を振った。

「あたし、あの手を使って左馬助と一緒に死のうと思ってたの。でも、左馬助には会えなかった。でも、あたしには左馬助が近くにいる事がわかるの。もうすぐ、左馬助がここに来るに違いないと思ったの。左馬助がここに来れば、きっと、あなたと左馬助は斬り合いを始めるわ。あたし、あなたを失いたくはなかった。あなたとずっと一緒にいたかったの‥‥‥それで、あなたと一緒に死のうと‥‥‥」

「わしが左馬助に負けると思ったんじゃな」

「わからない‥‥‥でも、今のあなたは自分の剣術に疑問を持ってるんでしょ。疑問を持ったまま戦ったら、きっと負けてしまうと思ったの。御免なさい‥‥‥」

「いや」と五郎右衛門は力なく言った。

「確かに、お前の言う通りかもしれん。今のわしは、その左馬助とやらに負けてしまうかもしれん‥‥‥」

 お鶴は首を振った。

「そんな事はないわ」

 お鶴は五郎右衛門の手を握りしめた。五郎右衛門も握り返した。

「話し過ぎじゃ」と五郎右衛門は言った。

 お鶴は五郎右衛門を見つめたまま、うなづいた。

「ずっと、側にいてね」

 五郎右衛門はうなづいた。






浅間山




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