酔雲庵

無住心剣流・針ヶ谷夕雲

井野酔雲







十五




 新たに、二人の生活が始まった。

 五郎右衛門は剣を振ったり、座禅をしたり、お鶴と一緒に酒を飲んだりしながら考え続けていた。

 活人剣(かつにんけん)とは‥‥‥

 無心とは‥‥‥

 お鶴は、いつも何かをやっていた。五郎右衛門は一々、お鶴の事を気にしていたわけではないが、くだらない事を真剣になってやっているので、何となく気になっていた。

 背を丸めて座り込んだまま、じっと動かないでいるので、何をしてるのかと行ってみれば、お鶴は(あり)と遊んでいた。

 五郎右衛門が顔を出すと、「ねえ、見て。この蟻さんねえ、こんな大きな荷物をしょっちゃって、自分のおうちがわかんないのよ。あっち行ったり、こっち行ったりしてんの」と、一々、この蟻さんはね‥‥‥この蟻さんはね‥‥‥と説明する。

「でもね、あたし、思うんだけどさ、この蟻さんたちから見たら、あたしはどう見えるんだろ。まるで、化け物みたいに見えるんでしょうね。やあね、きっと、醜いお化けに見えるのよ。あたし、どうしよう」

「蟻から見れば、確かに、お前はお化けじゃな」と五郎右衛門が言うと、お鶴は本気になって心配して、うなだれている。

 五郎右衛門は仕方なく、「そんな事はあるまい。蟻だって、お前の事を綺麗だと思っているじゃろう」と言う。

「そうかしら」とお鶴は機嫌を直して、蟻を応援する。

 小川に打ち上げられて死んでいる魚を見つけると、可哀想だと涙を流して泣いている。

 今、泣いていたかと思うと、今度は川の中に入って、キャーキャー言いながら魚を捕まえようとしている。

 五郎右衛門は木剣を構えながらお鶴の姿を見ていたが、思わず、吹き出してしまった。

 着物の裾をはしょって、へっぴり腰になりながら魚を捕まえようとしている。本人は真剣なのだが、それがまた余計におかしい。とうとうバランスを崩して、川の中に尻餅をついてしまった。

「畜生!」と悪態をついて、もう、着物が濡れるのもお構いなしに川の中を走り回っている。そのうちに諦めたのか、川の中を上流の方に向かって歩き始めた。

 どこに行くのだろう、と五郎右衛門は後を追ってみた。滝の側まで行くと急に走り出して、滝の下に行って滝に打たれた。五郎右衛門の真似をしているつもりか、両手で(いん)を結び、大きな声で真言(しんごん)を唱えていた。滝から出て、長い髪をかき上げると、川の中をさらに上流へと歩いて行った。

 いつも、水浴びをする深い淵まで行くと、着物を脱いで木の枝に引っかけ、水の中に飛び込んだ。いつまで経っても浮き上がって来ないので、五郎右衛門は心配になって側まで行き、川の中を覗いた。お鶴の白い体が水中を泳いでいるのが見えた。かなり、深くまで潜っているらしい。やがて、お鶴は両手で魚をつかんで浮き上がって来た。

 五郎右衛門が見ているのに気づくと、「ねえ、見て。とうとう捕まえてやったわ」とはしゃいだ。が、魚はお鶴の手の中から、するりと逃げてしまった。

「畜生! ねえ、あなたもおいでよ。気持ちいいわ」と言って、また川の中に潜った。

 五郎右衛門は元の場所に戻り、剣の工夫を考えた。

 行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも。

 行こうと思って行くな‥‥‥

 戻ろうと思って戻るな‥‥‥

 たたずもうと思ってたたずむな‥‥‥

 立とうと思って立つな‥‥‥

 座ろうと思って座るな‥‥‥

 すべて、無意識のうちにやれという事か。

 おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。

 月も無心‥‥‥

 水も無心‥‥‥

 無心になれという事か。

 無心‥‥‥

 無心になれ‥‥‥待てよ、無心になろうと思えば、そこに無心になろうとする意識が生まれる。意識があるうちは無心になれない‥‥‥いや、ちょっと、待て。無心という、そのものも一つの意識じゃないのか。

 それさえも忘れるという事か。

 お鶴が濡れた着物を着て帰って来た。手には何も持っていない。

「魚はどうした」と五郎右衛門は聞いた。

「こんな大きいの捕まえたのよ」とお鶴は両手を思い切り広げた。

「捕まえたんだけどさ、顔をみたら情けない顔してんのよ。こんな顔よ」

 お鶴は魚の情けない顔というのをして見せた。確かに、情けない顔だった。

「なんだか、可哀想になったから逃がしてやっちゃった。そしたらね、喜んで泳いで行くのよ。面白そうだから、あたし、後をついて行ったの。どんどん深く潜って行くのよ。あなた、そこに何がいたと思う」

「人魚でもいたか」

「そう。凄く大きなお魚がいたわ。あたしよりずっと大きいのよ。きっと、あたしが捕まえたお魚のお母さんよ。あたしが、『こんにちわ』って言ったら、ちゃんと挨拶したのよ」

「魚が『こんにちわ』って言ったのか」

「あんた、馬鹿ね。お魚がそんな事、言うわけないじゃない。ニコッて笑ったのよ。きっと、あれ、あの川の主よ。もう、ずっと昔から住んでるのよ。あたし、彼女とお友達になっちゃった」

「そりゃ、よかったのう」

「うん。今度、一緒に会いに行きましょ。そうだわ、お酒、持ってって、みんなで飲みましょう」

「酒を持って行くのはいいがの、水の中で、どうやって飲むんじゃ」

「あっ、そうか、駄目だわ。いいわ。彼女の方をこっちに呼べばいいのよ、ね」

「そうじゃな。お前の好きにしろよ」

「うん、ハックション」

「風邪ひくぞ」

「うん」と言って、お鶴は岩屋の方に行った。

 無心か‥‥‥

 融通(ゆうづう)無碍(むげ)‥‥‥

 まるで、お鶴そのものじゃな‥‥‥お鶴は無心になろうなんて思った事もないじゃろう。




 今日もお鶴は遊んでいる。

 お鶴は退屈という事を知らない。いつでも何かと遊んでいる。

 食事の支度をしている時は野菜や鍋と遊んでいる。飯を食べている時は箸で食べ物と遊んでいる。掃除をしている時はほうきと遊んでいる。洗濯をしている時は洗濯物と遊んでいる。酒を飲んでいる時は酒と遊び、寝ている時でさえ、夢の中で遊んでいるようだ。お鶴は常に、今という時を一生懸命、遊んでいるようだった。

 今も、お寺に行ってお酒を貰って来ると出掛けたが、すぐ、そこに座り込んで動こうともしない。また、蟻さんと遊んでいるようだ。

「ねえ、あなた。ちょっと来て、凄いわよ」

「どうした。蟻が蝶々でも運んでるのか」

「そうじゃないの、凄いのよ」

 五郎右衛門が行ってみると、お鶴はムカデが歩いているのを真剣に見ていた。

「ねえ、凄いでしょ」

「どこが。ムカデが歩いてるだけじゃねえか」

「そこが凄いのよ。あんなにいっぱい足があるのに、まごつかないで、ちゃんと歩いてるわ」

「当たり前じゃろ」

「でもね、もし、あたしだったら、ああは歩けないわ。あたしって、おっちょこちょいでしょ。足と足がからまっちゃってさ、その足をほどこうとして、また、次の足がからまるでしょ。次から次へと足がからまっちゃって、しまいには、ほどけなくなっちゃうわ。そしたら、あたし、どうしたらいいの」

「そしたら、わしがほどいてやる」

「あなた、優しいのね。これで安心したわ。よかった」

 お鶴は空のとっくりをぶら下げて、小川の方に行ったが、また、立ち止まり、振り返ると五郎右衛門の方に戻って来た。

「あたし、今、とても幸せよ」とお鶴は踊るように言った。

「あなたの側にいると、なぜか、とても安心するのね。こんな事でいいのかしら。あなた、ほんとに人間なの」

「何を言ってるんじゃ」

「もしかしたら、仁王様か何かが化けてるんじゃないの」

「そうじゃな。わしは仁王様の化身じゃ」

 五郎右衛門は仁王の格好をして見せた。

「そうでしょ。やっぱり、優しすぎるもん」

 お鶴はとっくりを抱いて踊っていた。

「仁王様ってのは優しくはないじゃろう」と五郎右衛門は首をかしげた。

「優しいわよ。だって、苦しんでる人や悲しんでる人をみんな、救ってくれるんだもの」

「それは観音様じゃろ」

「いいえ。仁王様も観音様も一心同体なのよ。表と裏よ。だから、あなたも苦しんでる人たちを助けてやってね」

「わしにはそんな力はないわ」

「あるわ。あなたには、その剣があるでしょ。仁王様も持ってるわ。仁王様の剣は人を斬る剣じゃないのよ。人の心の中にある悪を斬る剣なのよ。人を斬らずに、心の中にある悪だけを斬るの。あなたの剣もそうすればいいんじゃない」

「どうやって」

「それは、あなたの問題でしょ。あたしは観音様だもん。ただ、優しく笑っていればいいの。男の人って大変なのよ。頑張ってね」

 お鶴は空のとっくりを抱いたまま、踊るように出掛けて行った。

 ♪空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり〜

 陽気に歌いながら、丸木橋を渡って行った。

 仁王様の剣か‥‥‥

 五郎右衛門は仁王様のように木剣を構えてみようとした。が、思い出せなかった。二人の仁王様の姿を思い浮かべてみたが、仁王様が剣を持っていたようには思えなかった。

「まあ、いいか」と五郎右衛門はつぶやいた。

 剣を持っているとお鶴が言ったんだから、そういう事にしておこう。

 山はすっかり緑におおわれていた。草もかなり伸びて来ている。花から花へと蝶々が飛び交い、小鳥たちがさえずりながら枝から枝へと飛び回っている。小川の方ではカエルが鳴き始めていた。

 五郎右衛門は、いつもの場所で木剣を振っていた。笛を吹いているお鶴の姿を仮想して、それを相手に剣を構えていた。

 どうしても、打ち込む事はできない。それ以前に、剣を向ける事さえできなかった。

 たとえば、花を相手に剣を構えているようなものか。

 花は無心じゃ。花はわしが剣を構えていようと、殺そうとしていようと、お構いなしに、ただ咲いているだけじゃ。

 わしにいくら闘う気があっても、相手にその気がまったくなかったら、わしの一人芝居になる。幽霊を相手に剣を振り回しているようなもんじゃ。

 相手がいるから、剣を構えたわしがいる。

 相手がいないのに、剣を構えるわしがいる必要もない。

 相手がいなければ、わしもいないわけじゃ。

 逆もまた言える。わしがいなくなれば、相手もいなくなる。

 自分を消すという事か。

 わしの殺気を消す‥‥‥

 剣を構えても、剣の先から殺気を出さずに‥‥‥花でも出すか‥‥‥

 剣の先から、パッと花が咲く。これじゃ、まるで、お鶴の世界じゃねえか。

 殺気も出さず、花も出さず、何も出さない。

 無‥‥‥いや、(くう)か‥‥‥

 空の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ。

 これか‥‥‥

 そうじゃ、空になればいいんじゃ。

 いや、空になろうと思ってはいかん。

 空‥‥‥

 空‥‥‥

 空‥‥‥




 お鶴は小鳥と話をしていた。

 小鳥がピーピーと鳴くと、横笛でピーピーと答える。小鳥がピヨピヨピーと鳴くと、横笛でピヨピヨピーと答えた。

「鳥と何の話をしてるんじゃ」と五郎右衛門が聞くと、お鶴は、「シー」と自分の口に人差し指を当てた。

「彼、今、悩んでるのよ。好きな女の子がいるんだけどね。その女の子がお頭の所に連れて行かれちゃったんだって」と小声でささやいた。

「へえ‥‥‥それで、お前は何て言ってやったんじゃ」と五郎右衛門も小声で聞いた。

「お頭と決闘しなさいって言ってやったのよ。そんな奴、やっつけちゃって可愛い彼女を奪い返せってね」

「お前、いつも、わしに何と言ってる。喧嘩なんか絶対にするなって言ってるじゃろう」

「好きな女のためだったら、いいのよ。女のためだったら男は決闘くらいしなくちゃ駄目なのよ。あなたの剣の極意、教えてやったわ。死を覚悟して、お頭目がけて突っ込めって」

「あいつはやるって言ったのか」

「今、考えてるみたい」

 小鳥はピーピヨピーと鳴いた。お鶴はピッピーと笛を吹いた。小鳥は飛んで行った。

「行って来るって。死んでらっしゃいって言ってやったわ」

「あの鳥、生きて帰って来るのかのう」

「死んで帰って来るでしょ。女の子と一緒にね‥‥‥」

 お鶴は鳥の飛んで行った方を見ながら、笛を吹き始めた。お鶴の笛に合わせて、小鳥たちが一緒に歌っているように感じられた。




 お鶴は夕焼けを見ていた。

 夕飯の支度もしないで、洗濯物も取り込まないで、石の上に座ったまま、ぼうっと夕焼けを眺めている。

「どうしたんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろに立って聞いた。

「綺麗ね」とお鶴は夕焼けを見つめたまま言った。

「ねえ、見て。あの雲、鶴に似てるのよ」

 五郎右衛門はお鶴の隣に腰掛け、お鶴の指さした夕雲を見た。確かに、鶴が翼を広げて飛んでいるように見えた。真っ赤に燃えている空を、真っ赤な鶴が気持ちよさそうに飛んでいた。

「あたしだわ。さっきまで、もう一羽の鶴がいたの。でも、風に飛ばされて行っちゃった」

「そうか‥‥‥」

 五郎右衛門とお鶴は時を忘れ、いつまでも、夕焼けを見ていた。山の中に沈む夕日と真っ赤に染まった夕雲をいつまでも見つめていた。

「ねえ、あなた」と夕日が山に沈むとお鶴は五郎右衛門の方を見て言った。

「あなたは後、何年生きるの」

「どうしたんじゃ、急に」

「ねえ、あなたは何年生きられるの」

 お鶴の顔は真剣だった。

「そんな事、わかるわけないじゃろ。いつ斬られて死ぬか、わからん」

「もし、誰にも斬られなかったとしたら」

「人生五十年て言うからのう。あと二十年位かのう」

 五郎右衛門は夕日の隠れた山を眺めた。山の向こう側はまだ明るかった。

「あと二十年‥‥‥たった、それだけ」

 お鶴は悲しそうな顔をして五郎右衛門を見つめた。

「二十年といえば、まだ大分あるさ」

「でも、二十年したら、あたしたち、別れなくちゃならないのね。別れたくないわ」

「別れたくないったってしょうがないじゃろ。人間はいつか死ぬんじゃ」

「あなたは死なないで」

「何を言ってるんじゃ」

「どうして、人間はたった五十年しか生きられないの」

「そんな事は知らん」

「短すぎるわ。短すぎるわよ。一体、誰が決めたの」

「それが自然の法則っていうもんじゃろ」

「いやよ、そんなの。あなたを死なせたくない」

「どうしたんじゃ。今日のお前はおかしいぞ」

「何でもないわ‥‥‥何でもないのよ‥‥‥ねえ、あたしを抱いて、お願い」

「おかしな奴じゃな」と言いながらも、五郎右衛門はお鶴の背中を抱いた。

「もっと強く‥‥‥」とお鶴は五郎右衛門を見つめた。

「お前、泣いているのか」

 お鶴は首を振ったが目に涙が溜まっていた。

「あたし、怖いわ」とお鶴は五郎右衛門にしがみついた。

「一体、どうしたんじゃ」

「夕日を見てたら、左馬助の事を思い出したの。何となく、左馬助が近くにいるような気がするわ」

「大丈夫じゃ。こんな山奥まで来やせん」

「左馬助が来ても決闘しないでね。あたしと一緒に逃げて、お願い」

 五郎右衛門はお鶴を抱き締めた。

「お願いよ」とお鶴は言った。

 五郎右衛門はうなづいたが、もし、左馬助が現れたら闘う事になるかもしれないと思っていた。





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