酔雲庵

時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲





鴬燕軒




 遊女屋の豪遊の後、孫一は度々、我落多屋にやって来た。いつも、新堂の小太郎が一緒だったが、夢遊が石川五右衛門だという事は隠してくれた。

 小太郎の話によると、孫一は天主の黄金の事はすっかり諦めたようだった。うまくすれば、黄金一万枚を盗み取る事ができるかもしれないが、その後が恐ろしいという。小太郎から悲惨な伊賀の有り様を聞き、黄金を手に入れるよりも信長を敵に回すほうが恐ろしい。敵に回すよりも信長の力を利用したいと考えているようだった。

 孫一が帰る時、小太郎も雑賀に向かった。孫一が一緒に来いというので、安土も飽きたし、雑賀に行くという。ジュリアが見つかったら、必ず、呼んでくれと念を押して船に乗って行った。

 夢遊も二人が去った後、天王寺屋了雲とお澪を連れて堺に向かった。堺では夢遊もお澪も仕事があったので、昼は別々だったが、夜はいつも一緒にいた。ここでも、遊び人として夢遊の名は有名だった。しかし、妻子のいる長浜からは遠く、夢遊は安心して、大っぴらに付き合っていた。小太郎ではないが、遅い春を充分に楽しんでいた。

 一月近く、堺に滞在した二人は十二月の半ばに安土に帰り、夢遊は我落多屋にも顔を出さずに、久し振りに妻子の待つ長浜に帰った。

 妻と子の機嫌を取りながら、留守を守る羽柴藤吉郎秀吉の家臣たちとお茶会や連歌会などをして過ごしていた。

 夢遊の妻はおれんといい京都の商人の娘だった。一緒になって十七年になるが、夢遊の正体を知らなかった。十六歳になるおなつという娘と十三歳になるおふゆという娘、九つの五助と五つの六助と四人の子供がいた。以前は京都に住んでいたが、藤吉郎が長浜に城を築いた六年前より、こちらに移っていた。

 母子は立派な屋敷に住んでいた。しかし、主人の夢遊がいる事は少なく、おれんは子育てをしながら、夢遊の愚痴ばかりこぼしていた。愚痴を言う相手は近所に住んでいる藤吉郎の家臣、浅野弥兵衛の妻、おややだった。おややの姉は藤吉郎の妻、お()だったので、三人はよく集まっては亭主の悪口を言っているらしかった。

 夢遊はお澪の事をしばらく忘れて、子供たちと一緒に遊び、おれんに何を言われても怒らないで、ジッと我慢の日々を送っていた。

 十二月の二十日、藤吉郎が姫路より帰り、安土で信長に因幡(いなば)と淡路島を平定した事を報告した。藤吉郎は信長のために驚く程の土産を持って帰って来たと長浜でも噂になった。

 信長から褒美(ほうび)として八種類の名物のお茶道具を貰った藤吉郎は、二十二日に長浜に帰って来た。城下に夢遊がいる事を知ると、さっそく、夢遊を城内に呼んで、信長から貰ったお茶道具を披露した。

「どうじゃ、凄いじゃろう。おぬしらのお陰じゃ」

 藤吉郎は機嫌がよかった。菊花模様の派手な羽織を着て、目の前に並べた名物茶道具を眺めながら、猿のような顔をクシャクシャにしていた。

「おぬしらが因幡の米を買い占めてくれたお陰で、鳥取城は以外にも早く落ちたわ」

「ナニ、米の取り引きのお陰であくでえ商人が分かり、獲物を捜す手間が省けたわ」

 夢遊もお茶道具を眺めながら、ニヤリと笑った。

「米を買い取った銭はそっくり頂いたのか?」

「いや、それ以上じゃ」

「そうか、よかったの。次の目標は備中(びっちゅう)(岡山県)の高松城じゃ。米はもう刈り入れの時期に買い取ってある」

「抜け目がねえのう」

「だが、まだ、隠し持ってる奴がいる。そいつらの米を処分してくれ」

「城攻めはいつじゃ?」

「そうじゃのう。三月頃となろう」

 藤吉郎は木箱の中から天目(てんもく)茶碗を出して、手に取って眺めた。

「三月か‥‥‥忙しいのう」

「北陸勢には負けられんからのう」

権六(ごんろく)(柴田勝家)の奴か?」

「そうじゃ、奴には絶対に負けんぞ。忙しいかもしれんが、正月の半ばには備中に飛んでくれ」

「ああ、そいつは構わんがの‥‥‥」

 藤吉郎は夢遊の顔を見ながら、「なんじゃ?」と聞いた。

「上様の事じゃ。最近、おかしいと思わねえか?」

「伊賀攻めの事じゃな?」

「伊賀攻めもそうじゃが、おぬし、安土城内に建てたハ見寺を見たか?」

「上様もとうとうデウス(神)になったらしいの」

 藤吉郎は天目茶碗を夢遊に手渡した。

「狂って来たんじゃねえのか?」

 夢遊は茶碗の中を覗いてから、逆さにして底を眺めた。

「おいおい、いくら、わしとおぬしの仲でも、それは言い過ぎじゃ‥‥‥しかし、確かにおぬしの言う通り、安土の城内は不気味な雰囲気が漂っておった。皆が上様を恐れ、ビクビクしておる。わしが馬鹿話をしても、顔を引きつらせてるばかりで笑う者などおらん。いかんぞ、あれでは」

「このまま行けば、わしは信長に逆らうようになるかもしれんぞ」

「気持ちは分かるがの、やめろ。上様に逆らえば皆殺しにされるぞ」

 藤吉郎は肩衝(かたつき)のお茶入れを手に取った。

「分かっておる。分かっておるが信長のお陰で伊賀の国は全滅したんじゃぞ。何万もの罪もねえ者たちが抵抗もしねえのに殺された。わしは許せんのじゃ。絶対に許せんのじゃよ。おぬし、わしが盗っ人になった理由を覚えておるか? もう二十年以上も昔の事じゃが」

「ああ、覚えておるとも。『世直し』をするためじゃろう」

「そうじゃ。信長のお陰で、この辺りは平和になった。わしはおぬしの陰として働き、信長を支援して来た。しかし、もう、信長には付いてはいけん。おぬしがこのまま、信長に従うというのなら、おぬしとも敵味方になるかもしれんな」

 夢遊は藤吉郎の顔を見ながら、天目茶碗をソッと置いた。

「おいおい、急に何を言う。おぬしはそう簡単に言うがの、わしは上様の部将として、ようやく、ここまで来たんじゃ。今更、上様を裏切る事などできんわ。摂津守(せっつのかみ)(荒木村重)のようにはなりたくねえからの」

「おぬしが上様に変わればいい」と夢遊は竹の茶杓(ちゃしゃく)を眺めながら言った。

「馬鹿言うな。そんな話、聞いてられるか」

 藤吉郎はお茶入れを置くと、夢遊から茶杓を奪い取った。

「いいか、五右衛門、おぬしがそれ以上言うなら、わしらの仲もこれまでじゃと思え。今すぐ、ここから出て行ってくれ」

「分かったよ。わしも今、迷ってるんじゃ。昔とは違う。家族もいるし大勢の手下もいる。世直しのためとはいえ、奴らを道連れにする事はできん。だがの、やらなければならん時が来たら、わしは奴らを犠牲にしてでもやってしまうじゃろう。その事は分かってくれ」

 藤吉郎は夢遊の顔をジーッと見つめてから、うなづき、ニコッと笑った。

「さて、ややこしい話は終わりじゃ。このお茶道具を目利き(鑑定)してくれ。どんなイワレがあるんじゃ?」

 夢遊は新しい道具を目利きした後、それを使って藤吉郎が点てたお茶を御馳走になった。

「さてと、お()の機嫌でも取りに行くかの」

 藤吉郎は苦笑して、夢遊に手を振ると去って行った。

 藤吉郎も偉くなり、妻の機嫌を取りながらも、毎日、忙しく走り回っていた。正月を長浜で迎える事なく、四日後の二十六日には姫路に戻って行った。

 夢遊も半月余り家族と共に過ごした長浜を後にして、安土に帰った。

 我落多屋に行くとマリアがいた。山の砦も年末年始は休みとなった。正月の十四日までは皆、家族のもとに帰る事が許されていた。マリアは行く所もないので、勘八に連れられて我落多屋に来たのだった。

「ジュリアはどこに行ったの?」とマリアは夢遊を迎えると聞いて来た。

「どこのセニョリータかと思ったら、マリアか。やけに女っぽくなったのう」

「アラ、ほんと?」

 マリアは無邪気に喜んだ。暖かそうな綿入れを着ていたが、相変わらず、足は丸出しだった。

「ほんとさ。今度、わしと遊ぼう」

「ダメ。天主の黄金を取って来てくれたら、いっぱい遊んであげる」

「まだ、諦めんのか?」

「諦めないよ。あたし、オスピタルを建てなければならないんだモン」

 夢遊はマリアを二階に誘った。

 マリアは縁側に出て、天主を見つめた。

 夢遊も天主を見ながら、「あそこから黄金を盗み、オスピタルを建てるという考えは立派じゃが、実際問題として、そんな事ができると思うか?」とマリアに聞いた。

「できるよ」とマリアは力強くうなづいた。「ジュリアが見つかれば抜け穴は抜けられるモン。夢遊様が手伝ってくれれば絶対にうまく行く」

「よし、うまく行ったとしよう。黄金を盗まれて、あそこの主は黙ってると思うか?」

「いいえ」とマリアは首を振った。そして、その顔はだんだんと蒼ざめていった。

「お殿様は絶対に許さないのネ」

「そうじゃ。抜け穴を利用して黄金が盗まれたとなれば、信長はまず、抜け穴に関係した者たちを皆殺しにするじゃろう。家族も含めてな。当然、善次郎の娘であるお前とジュリアは狙われる。黄金を盗んだとしても、オスピタルを建てる前に、首と胴は離れる事になろう」

「そんな‥‥‥」

「勿論、わしらだって皆殺しになる」

「それじゃア、抜け穴を通る事ができたとしても、黄金は盗めないの?」

「それなりの覚悟をすればできる」

 夢遊は部屋に入ると火鉢(ひばち)の側に座り込んだ。

「覚悟?」とマリアも夢遊を追って、火鉢にあたった。

「黄金を盗んだらな、信長の領内から全員が引き上げるんじゃ。勿論、我落多屋も全部閉めるし、山の砦も引き払う」

「そこまでしなくちゃなんないの?」

「そうじゃ。信長の前から完全に消えなければならんのじゃ」

「どこ、行くの?」

「分からん。わしらは年中、旅をしてるからいいが、家族の者たちは大変じゃ。見も知らぬ土地に行き、新しい暮らしを始めなければならん。黄金一万枚は確かに大金じゃ。しかしな、それだけの犠牲を払ってまで、やるべきかどうか分からんな」

「いいよ。この安土じゃなくてもいい。どこか遠い所でもいい。あたし、やっぱりオスピタルを建てる、絶対に」

「頑固な奴じゃのう」

「あたしはやる。ジュリアと二人でやるよ。ネエ、ジュリアはどこ行ったのよ?」

「銀次が捜しておる。今、お前の親父が住んでた家で暮らしてるわ。行って、自分で聞く事じゃな」

 マリアは懐かしい家に飛んで行った。後を追うように勘八も善次郎の家に向かった。

「あの二人、大丈夫かしら?」とおさやが二階に来て心配した。

「おめえら、足が寒くねえのか?」

「寒いけど平気ですよ」

 おさやは自分の足を眺めた。

「観音様がクシャミをするぞ」

「アラ、どうしよう?」とおさやは火鉢の側に来て笑った。

「火鉢をまたいでも構わんぞ」

「いやですわ、大旦那様ったら」

「おめえは好きな男はおらんのか?」

「いるけど、あたしはダメなんです」

 おさやは座ると火鉢に手をかざしながら、うつむいた。

「どうして?」

「その人、おかみさんがいるんですよ」

「ほう。おめえも大変なようじゃな」

「お澪様の気持ちがよく分かります。でも、お澪様の相手は大旦那様でしょ。あたしの相手は大旦那様とは違って真面目すぎるんです」

「そいつは大変じゃ。正月を一緒に過ごす事もできんというわけか?」

「無理です、絶対」

「そうか‥‥‥来年になったら、すぐに忙しくなるぞ。好きな男に会えんのなら、親の所に顔を出してやれ」

「いえ。今年は両親を安土に呼ぶ事にしたんです。ここの賑わいと天主を一度、見たいと言ってるものですから」

「藤兵衛に頼んで、いい旅籠屋に泊めてやれ」

「はい。もう、頼んでいただきました」

「今年の正月も賑やかな事じゃろう。信長の事じゃ、また派手な催しをするに違えねえ。いい思いをさせてやれよ」

「はい。ありがとうございます」

「すまんが新五の奴を呼んでくれ」

 おさやがいなくなってから、すぐに新五は現れた。

「お帰りなさいませ。長浜のおかみさんは大丈夫でしたか?」

「まいったわ。誰が知らせるのか、細けえ事まで、すっかり知っておったぞ」

「それは、それは大変な事で‥‥‥」

「殺されそうになったわ‥‥‥ところで、見つかったか?」

「はい、裏通りに手頃なのが」

「どの辺じゃ?」

「八幡社の近くです」

「八幡社か、少し遠いのう」

「しかし、あの辺りまで行かないと大旦那様は有名ですから、また、すぐに噂が立ちますよ」

「うむ、そうじゃな。あの辺りなら、わしを知ってる者もいるめえ。よし、見に行くか」

 夢遊は長浜に家族の住む自宅を持っていたが、他には家を持っていなかった。安土、京都、堺、姫路と我落多屋の店はあるが、家はなく、いつも、それぞれの我落多屋の主人の屋敷に居候(いそうろう)していた。安土の我落多屋の裏にある屋敷は藤兵衛の家族が暮らし、二階は夢遊が使っていたが居候には違いなかった。

 お澪と会うのに二階は使いづらく、ちょくちょく、お澪の屋敷に行くわけにもいかなかった。お澪の屋敷は中庭にあり、そこに行くには与兵衛の屋敷の横を通らなくてはならない。与兵衛も藤兵衛と同じように、夢遊とお澪が噂になっている事を快く思ってはいなかった。夢遊は考えた末に離れた所に家を買って、お澪と会う事に決め、新五に捜せと命じていた。

 夢遊はその家が気に入った。以前、住んでいたのは京都にある酒屋の隠居で、若い娘と一緒に暮らしていたという。茶の湯を(たしな)み、信長の家臣たちに指導していたが、贋物(にせもの)のお茶道具を売ったかどで、信長に睨まれて夜逃げしたらしかった。

 大通りから引っ込んだ裏通りにあり、まだ新しく、作りも凝っていた。門の上に『鴬燕軒(おうえんけん)』と書かれた額が掲げてあって、門の脇には(うまや)があり、奥の方には蔵もある。

 母屋(おもや)は土間の台所と囲炉裏のある板の間があり、その奥に畳を敷いた八畳間が二部屋あった。

 中庭には井戸と(かわや)があり、板塀の向こうに、()びた四畳半の茶室のある庭園があった。庭園には見事な枝振りの梅の木が植えられ、鯉が泳いでいる池もあった。お茶会の前に風呂を御馳走したとみえて、立派な湯殿(ゆどの)も建っていた。湯殿を覗いてみると(ひのき)作りの大きな湯舟があった。四人は楽に入れそうな大きさだった。

「こいつはいい」と夢遊は思わず、ニンマリした。

 敷地はそれ程広くはないが、住み心地のよさそうな家だった。年末年始をお澪と二人だけで、コッソリと暮らすのに最適な家だった。

 夢遊は新五に必要な家具と食料を揃えるように命じると我落多屋に戻り、山のような土産を持って小野屋に向かった。




 年が明けると、各地から大勢の者たちが信長に新年の挨拶を告げるため、安土の城下に押しかけて来た。百々(どど)橋を渡ってハ見寺から天主へと続く道は人の列で溢れ、石垣が崩れて死者や怪我人まで出るという賑わいだった。

 挨拶に訪れたのは武士は勿論の事、京都から公家衆や僧侶までもが大勢の供を引き連れてやって来た。城下の宿屋はすべて埋まり、寺院も宿所(しゅくしょ)に宛てがわれたが、それでも足らず、民家も解放しなければならなかった。我落多屋の二階もお澪の屋敷も遠くからやって来た武士に利用された。

 城下の賑わいをよそに、夢遊とお澪の二人は静かな別宅『鴬燕軒』で、二人だけの新年を祝っていた。

 赤々と燃える囲炉裏の端で、南蛮渡りの絨毯(じゅうたん)の上に座り込んで、お澪の手料理をつまみながら夢遊は御機嫌だった。二人とも暖かそうで豪華な綿入れを着込んでいた。

 お澪は夢遊に甘えながら、夢遊が今まで、どんな事をして来たのか、しきりに聞きたがった。すでに、お澪は夢遊の正体を知っているので、思い出話を聞かせてやった。

「わしはのう、伊賀の石川村で生まれたんじゃ。今はもう村はなくなってしまったがな」

 夢遊はお澪の顔を眺めながら、少し顔を歪めて酒を飲んだ。

「御両親は無事だったの?」

 お澪は夢遊に寄り添いながら、(しゃく)をした。

「もう、ずっと前に死んでるわ。わしの親父は貧しい百姓じゃった。わしは五男でのう。幼い頃から宮大工のもとに奉公に出されたんじゃ。知っての通り、伊賀は忍びで有名じゃ。いや、有名じゃったと言うべきか‥‥‥わしも一流の忍びになりたかったんじゃ。あちこちに武術道場があっての、忍びの術を教えていた。わしも習いたかったが道場に通う銭がなかったんじゃよ。わしは十五の時、国を飛び出した。偉くなって帰って来てやると決心してのう。わしはまず、京都に行ったんじゃ。何とか、京都にたどり着いたが、銭はねえし腹は減るしで最悪じゃった。わしが初めて、盗っ人の真似をしたのは京都じゃ。相手が誰だったか思い出せんが、わしは荷物を引ったくると必死になって逃げた。山の中で荷物を開けると一貫文(いっかんもん)近くの銭が入っていた。わしは京都を後にして東へと向かったんじゃ。別に当てがあったわけじゃねえが、足の向くまま、気の向くままに駿河の国まで行ってのう、駿府(すんぷ)(静岡市)の場末の木賃宿で、妙な奴と出会ったんじゃ。奴との出会いが、その後のわしの生き方を変えたとも言える」

「へえ、誰なの、その人?」お澪は興味深そうに聞いて来た。

 夢遊はお澪の顔を覗き込みながら、「誰じゃと思う?」と笑った。

「さあ、誰かしら? 駿河と言えば、今川氏でしょ。でも、場末の木賃宿で会ったんじゃ関係ないわよね。大泥棒にでも会ったの?」

「大泥棒かもしれんのう。国を盗んでおるからの」

「その人、武将なのね?」

「木下藤吉郎じゃ。今の羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)じゃよ」

 夢遊はそう言うと、お澪の口を吸った。

「まあ、そんな古いお付き合いだったの。驚いたわ」

 お澪は夢遊の(ふところ)に手を差し入れた。

 夢遊はお澪を膝の上に抱き上げると、「湯に入るか?」と言った。

 お澪は恥ずかしそうにうなづいた。

 夢遊はお澪を抱きかかえたまま、中庭を通り抜けて湯殿に向かった。下人や下女がいるわけではないので、夢遊が井戸の水を汲んで沸かして運んだ湯だった。

 夢遊はお澪を下ろすと帯を解いて綿入れを脱がせた。綿入れの下は裸だった。

 お澪は長い髪を頭の上でまとめると手拭いで落ちないように縛った。夢遊はその仕草を珍しい物でも見るかのように眺めていた。

「寒いわ」と言いながら、お澪は夢遊の綿入れを脱がせると抱き着いて来た。

 二人は広い湯舟に飛び込むと、ホッと溜め息をついて、お互いを見ながら笑った。

「いい気持ち」とお澪は窓を開けて、寒々とした庭園を眺めた。

「まさしく、パライソ(天国)じゃな」と夢遊はお澪を抱き寄せた。

「ネエ、お話の続き、聞かせて。羽柴様と出会ってどうなったの?」

「あの頃の藤吉郎はの、針売りをやりながら、今川家に仕官する事を夢見ていたんじゃ」と夢遊は話し始めた。

「えっ、羽柴様が針売りをしてたの?」

 お澪は目を丸くして驚いた。

「そうじゃ。『針はいらんかね? 丈夫な針はいらんかね?』って叫びながら、売り歩いていたんじゃ」

「信じられない。針売りから、織田家の重臣になったなんて、まるで、夢物語じゃない」

「奴は夢を実現させて行ったんじゃ」

「凄い人なのネ‥‥‥それで?」

「わしも今川家の武士になるのも悪くねえと思ってな、奴と一緒に仕官口を捜したんじゃが、なかなか見つからなかった。仕方なく、駿府を離れて遠江(とおとうみ)に行った。引馬(ひくま)(浜松市)の近くで松下佐右衛門(すけうえもん)という侍と出会ってのう、わしらは共に仕える事になったんじゃ。佐右衛門は陰流(かげりゅう)という武術を教えている兵法指南(ひょうほうしなん)役じゃった」

「陰流?」とお澪はまた、驚いた顔をして夢遊を見た。

「そなた、陰流を知っておるのか?」と夢遊も驚いた。

「ええ。北条家のお侍もみんな、陰流をやってるわよ。陰流の流祖の愛洲移香斎(あいすいこうさい)様は北条家とは深いつながりがあるのよ」

 お澪は夢遊の厚い胸を撫でながら言った。

「へえ、そうなのか。十年程前、京都で新陰流を教えていた上泉武蔵守(かみいずみむさしのかみ)殿も愛洲移香斎殿の弟子だそうじゃの」

「そうよ。武蔵守様のお子さんたちは北条家に仕えているわ」

「武蔵守殿は今、どうしておるんじゃ?」

「もう七十を過ぎてらっしゃるし、小田原でのんびりしてらっしゃいます」

「そうか、まだ、健在じゃったか。わしも武蔵守殿の技を見た事あるが、まるで、華麗な舞でも見てるような素晴らしいものじゃった。武芸もあそこまで行くと、まるで、神業のようじゃと思ったわ」

「今でも、その技は衰えてはいないそうよ。風摩の小太郎様でも武蔵守様の前に出ると子供扱いされるって言ってたわ」

「ほう、凄いもんじゃな」

 お澪は急に立ち上がると、窓から顔を出して外を眺めた。

「もうすぐ、梅の花が咲くわ。満開になったら見事でしょうネ」

 夢遊も立ち上がるとお澪を後ろから抱いて、外を見た。

「そうじゃな。満開の頃、また、来よう」

「一緒にお風呂に入りましょ」

 お澪は振り返ると夢遊の首に両手を回して、抱き着いた。

「あなたも陰流を習ってたのネ。それから、どうしたの?」

「一年間、わしは佐右衛門のもとで陰流の修行に励み、藤吉郎と別れて伊賀に帰ったんじゃ。一年間の修行で腕にも自身があった。わしは忍びの術を習おうと甲賀の飯道山(はんどうさん)に向かったんじゃ」

 夢遊はお澪を抱いたまま、湯の中に沈んだ。

「へえ。あなた、飯道山で修行したの?」

「飯道山も知ってるのか?」

「知ってるわ」

「アッ、そうか。移香斎殿を知ってれば、飯道山も知ってるな。移香斎殿は忍びの術の流祖でもあったんじゃ。飯道山では移香斎殿は神様になっておったわ」

「それだけじゃないの。あなた、門前町に花養院(かよういん)ていう尼寺があるのを知ってる?」

「花養院? 孤児院をやってる所か?」

「そう。あそこが小野屋の原点なの。小野屋の初代の御主人だった松恵尼(しょうけいに)様は花養院の尼さんだったの」

「それでか。それで、小野屋の主人は尼さんにならなければならねえのか?」

「そういう事」

「勿体ねえのう」

 夢遊はお澪を立たせると、お澪の裸を眺めた。お澪は(しな)を作って一回りすると夢遊の顔にお湯をかけた。

「でも、どうして甲賀の尼さんが北条家の御用商人になったんじゃ?」

「もう、ずうっと昔のお話よ」

 お澪は夢遊の膝の上に腰を下ろした。

「北条家の初代早雲寺(そううんじ)様は伊勢新九郎様といって、関東に出て行く前、飯道山で修行していたの。その頃、一緒だったのが、初代の風摩小太郎様よ。二人は関東に旅立ち、今川家の内訌を治めて、早雲寺様は今川家の武将になって、小太郎様は早雲寺様を陰で支えるようになったの。その後、二人は伊豆の国を乗っ取って、関東へと、だんだんと勢力を広げて行ったのよ。松恵尼様は二人をよく知っていて、二人を助けるために小田原に移ったの。松恵尼様の後を継いだ夢恵尼(むけいに)様は愛洲移香斎様の娘さんよ。三代目の葉恵尼(ようけいに)様は移香斎様のお孫さん。四代目の善恵尼(ぜんけいに)様もお孫さん。そして、五代目があたし。あたしは移香斎様のひ孫にあたるのよ」

「そなたが、あの移香斎殿のひ孫か‥‥‥こいつは驚きじゃ」

「そこまで言う気はなかったんだけど、言っちゃった。あたし、ほんとにあなたに惚れちゃったみたい。この事は内緒よ。武芸者が訪ねて来たら困るわ」

「分かっておる。わしが五右衛門であるのと同じじゃな。二人だけの秘密じゃ」

「それで、飯道山で修行したのネ?」

「それがダメだったんじゃ。あそこは正月にならねえと修行者は取らねえと断られたわ。それに銭もかかると言うしな。わしは諦めて、他を当たったんじゃ。あちこち当たって、わしの腕を認めて、銭はいらんと言ってくれたのが百地三太夫(ももちさんだゆう)じゃった。百地丹波の叔父じゃ。三太夫のもとで、わしは一年半、みっちりと忍びの術をたたき込まれた。一年半経ったある日、三太夫はわしに忍びの者の(おきて)を読んで聞かせ、仕事を命じたんじゃ。わしは掟なんかに縛られたくはなかった。一年半、世話になった三太夫には悪いと思ったが、わしは逃げる事にした。そして、遠江に向かったんじゃ。藤吉郎の猿面が見たくなってのう。もう、いねえかもしれんと思ったが、奴はいた。少し偉くなっていたが、みんなから仲間外れになっていたんじゃ」

「どうして?」

「松下家は武芸を看板にした家柄じゃ。強え者の天下なんじゃよ。藤吉郎も稽古に励んで修行を続けていたが師範になれる程の腕じゃねえ。ただ、奴には他の才能があってな、お納戸(なんど)役とか普請(ふしん)役とかをうまくこなし、佐右衛門には可愛がられていた。それに対する(ねた)みと尾張者じゃとよそ者扱いされていたんじゃよ」

「へえ。羽柴様にもそんな時代があったんだ。今の出世からは、とても考えられないわネ」

「わしはの、松下家なんか小さすぎると言ってな、やめさせたんじゃ。それから、奴は尾張に戻って来て、信長に仕えたというわけじゃ。最初は小者(こもの)じゃったが、今ではご覧の通りじゃ。わしの方は京都で盗賊稼業を始めた。しかし、失敗してのう。幕府に追われるはめになっちまった。わしはもっと、修行を積まなけりゃダメじゃと思って、再び、飯道山に行き、一年間、修行を積んだんじゃ。そして、三人の仲間を引き連れて京都に舞い戻り、幕府を相手に盗賊稼業を再開したんじゃ。だがな、勘違いしねえでほしいのは、ただの盗っ人じゃねえという事じゃ。わしは『世直し』をするために盗賊になった。あくでえ者たちから財産を奪い取り、貧しい者たちを助けるというのが、わしの仕事じゃ。盗んだ銭で贅沢をしてる事も確かじゃが、世直しをするというのが、わしの信念なんじゃ」

「それで、我落多屋をやってるのネ?」

「そうじゃ。我落多屋を始める前は、貧しい者たちに銭をバラまいてもみたが、そんな事をしてたら切りがねえしのう。ああいう方法しか思い付かなかったんじゃ」

「最近、あなたの噂を聞かないけど、どこで、お仕事してるの?」

「わしはな、藤吉郎と約束したんじゃ。奴が城の(あるじ)になったら、おぬしの陰になろうとな。北条氏と風摩小太郎の事を飯道山で聞いていたしな」

「それじゃア、今は羽柴様の力になってるのネ?」

「そういう事じゃ。奴がぶつかる敵の所に行っては暴れてるんじゃよ」

「中国地方ってわけネ?」

「そういう事。今月も半ばになったら、備中まで行かなくてはならん」

「そう。また、お別れなのネ」

「辛えが仕方ねえ」

 夢遊はお澪を抱き上げると湯舟から出た。体を拭いて綿入れを着ると、二人は囲炉裏の間の奥にある部屋に入った。大きな火鉢があり、部屋の中は暖かかった。布団も敷いてあり、枕元には酒の用意もしてあった。

 布団の上に座ると夢遊はお椀をお澪に渡して、酒をたっぷりと注いでやった。

 お澪はグイと一口飲むと、「おいしい」と笑って、お椀を夢遊に返した。

「あなたが羽柴様の事を話してくれたので、あたし、惟任(これとう)様の事を話してあげるわ」

「惟任様? ああ、坂本の明智十兵衛(光秀)か」

 夢遊はグイグイと酒を飲み干した。

「うまいのう。そなた、十兵衛と親しいのか?」

「親しいってわけじゃないけど、縁はあるの」

 お澪は夢遊の持つお椀に酒を注ぐと、お椀を取って、うまそうに酒を飲んだ。

「どんな?」と夢遊は聞いた。

「十兵衛様が美濃の斎藤道三様の(おい)御さんだって事は知ってるわネ?」

「ああ、聞いた事はある」

「斎藤道三様が愛洲移香斎様のお弟子さんだったって事は?」

「初耳じゃ」

「道三様は若い頃、移香斎様と一緒に武者修行の旅に出た事があるの。その時、一緒だったのが、北条家の長老である幻庵(げんあん)様だったのよ。二人がまだ十五、六の時だったらしいわ。一年間、旅をしながら、移香斎様から武芸を習ったの。その後、二人が会う事はなかったけど、十兵衛様は道三様から幻庵様の事を聞かされて小田原にやって来たのよ。アッ、そうそう、十兵衛様も飯道山で修行なさったらしいわ。同期に高槻城主だった和田伊賀守様がいたって言ってたわ」

「へえ。あの十兵衛が飯道山で修行したとはのう。確かに武芸の腕はなかなかなもんじゃと感じてはいたが、あそこにいたとは驚きじゃわ」

「飯道山の修行の後、小田原に来たのよ。幻庵様に歓迎されてネ、風摩の砦に入ったの」

「ナニ、十兵衛は風摩の一味じゃったのか?」

「違うわよ。風摩の砦と言っても、箱根の山中にある武術道場なの。勿論、風摩党に入る者たちもいるけど、北条家に仕えるお侍も修行してるのよ。十兵衛様はネ、今の小太郎様と同い年だったの。二人は一緒に修行を積んだらしいわ」

「風摩小太郎と十兵衛がか?」

「そうらしいわ。十兵衛様は二年間、小田原にいて武芸の修行に励んだだけじゃなく、色々な事を学んだのよ。北条家は初代の早雲寺様の頃から『民衆のための国』を作るというのが、あなたじゃないけど、信念だったの。お侍のためじゃなく、民衆のための新しい国を作ろうとして来たの。十兵衛様もその事を学んで美濃に帰ったのよ。道三様を助けて、新しい国作りをしようと思ったのかもしれない。でも、道三様は子の新九郎(義龍)様に敗れて、十兵衛様も浪人の身になってしまったわ。越前の朝倉氏に仕えたり、流浪していた将軍(義昭)様にお仕えしたりして、ようやく、信長様と出会って、今のように出世できたのよ。十兵衛様の領内は、十兵衛様のお陰で他所よりは年貢が安いはずよ。十兵衛様も民衆から慕われているわ。十兵衛様は小田原の事をまだ忘れてはいないのよ」

「北条氏というのは新しい国作りをしていたのか‥‥‥」

 夢遊は酒を飲むと火鉢の火をジッと見つめた。

 お澪は空になったお椀に酒を注いだ。

「あなたは盗賊になったけど、百年前に生まれていたら羽柴様と一緒に、早雲寺様と初代の小太郎様のように、新しい国を作ろうとしたかもしれないわネ」

「新しい国か‥‥‥」

「信長様も新しい国を作ろうとしていらっしゃる。でも、民衆のための国ではないわネ。最初は皆、民衆のために新しい国を作ろうとしていたのかもしれない。本願寺もそうだった。加賀(石川県)に百姓の持ちたる国を作ったけど、権力を持った者が威張り出すと、理想からだんだんと離れて行っちゃった。北条家もそうかもしれない。領地を広げて行くに従って、敵とぶつかり会い、戦を続けなくてはならなくなって、民衆を犠牲にしている」

「そなた、色々な事を知ってるのう」と夢遊は感心した。

「小野屋の出店があっちこっちにあってネ、色んな情報が入って来るのよ。今、どこどこで戦が始まったと聞けば、戦に必要な物を用意してそこに運ぶのよ」

「武器か?」

「武器も扱ってるし、お米やお塩、馬だって扱ってるの」

「可愛い顔をして、考える事は大きいのう」

「あたしの代で小野屋をつぶすわけには行かないでしょ。情報を分析して稼がなけりゃならないのよ」

「大した女子(おなご)じゃ」

「やるべき事はちゃんとやらないとネ。あなたと会ってるから、仕事に身が入らないって言われたくないもの」

「そうじゃな。わしもやるべき事はちゃんとやるつもりじゃ」

「今、やるべき事はなんなの?」

「今か、今はそなたをたっぷりと可愛がる事じゃ」

 夢遊はお澪を抱き寄せた。

「そなたのやるべき事は何じゃ?」

「あたし? あたしはネ、今日はお酒をいっぱい飲んで、夢ん中で遊ぶの」

 お澪は一息に酒を飲み干すと、フーと吐息を漏らして、ウフフと笑った。

「そうか、ジャンジャン飲め。しかし、この酒はうまいのう。江川酒とか言ったのう」

「そうよ。信長様もおいしいって褒めてくれたわ」

「ほう、信長もこいつを飲んでおるのか?」

「今、北条家は信長様と同盟してるでしょ。度々、贈り物をするのよ。それを用意するのもあたしたち小野屋の仕事なの」

「北条家は信長と同盟しておったのか?」

「知らなかったの?」

「ああ、初耳じゃ」

「甲斐(山梨県)の武田様が越後(新潟県)の上杉様と同盟したので、北条家は三河(愛知県)の徳川様と同盟したの。徳川様と信長様は古くから同盟してるでしょ。徳川様の斡旋で北条家も信長様と同盟したのよ。でも、甲斐の武田が滅んだら、どうなるか分からないわ。信長様の仕置き次第では、北条家と信長様は敵味方になるかもしれない」

「そうなったら、どうなるんじゃ? 信長の事じゃ、北条の息の掛かった小野屋を皆殺しにするかもしれんぞ」

「その可能性はあるわネ。だから、信長様の動きを見守ってるのよ」

「そうか‥‥‥そうなったら、わしがお澪殿を絶対に守ってやる」

「信長様を敵に回しても、あたしを守ってくれるの?」

「当然じゃ。最近の信長は許せんと思っておるんじゃ。しかし、藤吉郎は信長の家臣じゃ。奴は信長に恩を感じている。奴を裏切る事はできんが、そなたのためなら仕方あるめえ」

「嬉しいわ。ネエ、五右衛門様って呼んでもいい?」

「二人だけじゃ。遠慮はいらん」

「五右衛門様、お澪と呼んで」

 お澪は綿入れを脱ぐと布団の中に潜り込んだ。

 夢遊も脱ぎ捨てると、「お澪、お澪」と布団の中に潜って行った。





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