酔雲庵

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉

井野酔雲





11.松下屋敷




 掛川でもうまく行かなかった。

 戦の経験もなく、知り合いもいないのでは誰も相手にしてくれなかった。藤吉郎と五助は仕方なく、さらに西へと向かった。

 目指すは引馬(ひくま)(浜松市)の城下だった。引馬の城主、飯尾豊前守(いいおぶぜんのかみ)は名将との評判が高く、去年の三河攻めの時の活躍は藤吉郎も噂に聞いている。仕官口がある事を願って二人は天竜川を越えた。

「引馬でも見つかんなかったら、三河に行くのか」と五助が聞いた。

 五助は掛川城下で手に入れた瓢箪(ひょうたん)を長い太刀に縛り付け、それをかついでいた。

「三河か‥‥‥できれば、三河には行きたくねえ」と藤吉郎は答えた。

 藤吉郎も瓢箪を腰にぶら下げている。お互いに自分の瓢箪の方が形がいいと自慢しているが、どちらもひねくれた形をしていた。

「有名な武将はいねえからな。引馬が駄目だったら、いっその事、戻って関東まで行くか」

「いや、関東には行かん。絶対に今川家に仕えるんだ」

「ふん。親父が今川家の家臣だったからって、そんな事にこだわる事はねえじゃねえか。どこに仕えたって親父より偉くなりゃいんだろ」

「いや、今川家じゃなきゃ駄目なんだ」

「頑固な野郎だ。引馬が駄目なら俺は小田原に行くぜ」

「勝手にしろ」

 二人の顔を木枯らしが吹き付けた。

「なあ、早えとこ見つけねえと年が明けちまうぜ。宿無しのまま年を越したくはねえな」

「ああ」と藤吉郎も同意する。「今年中には何とかしなくちゃな」

「おい、向こうから来るのは引馬の侍じゃねえのか」と五助が顎で示した。

 二人の前方に、砂埃(すなぼこり)の中、供を連れて馬に乗った侍がこっちに向かって来るのが見えた。

「かもしれねえな」

「聞いてみるか」

「こんな道端で聞くのか」

「屋敷に訪ねてったって門前払いを食らうだけだろ。道端の方がいいかもしれねえ」

「しかしな‥‥‥」

「駄目で元々だぜ」

「うん‥‥‥」

 馬に乗った侍は供の侍と何やら話をしながら近づいて来た。二人は道の端に寄って、侍が来るのを待った。

 藤吉郎は馬上の侍を見て、なかなか貫録のある侍だと思った。もしかしたら偉い武将なのかもしれない。思い切って聞いてみようと覚悟を決めて待っていたが、侍が話を続けていたので話しかける機会を失ってしまい、侍を乗せた馬はさっさと横を通り過ぎてしまった。

「何で聞かねんだよ」と五助が小声で言った。「早く、言って来いよ」

「やめよう。縁がなかったんだ」と藤吉郎は歩き始めた。

「ふん」と五助も藤吉郎の後を追ったが、「おい」と呼び止められた。

 五助が振り返ると馬上の侍が馬を止めて、五助を見ていた。

「お前ら、どこに行くんじゃ」と侍は聞いて来た。

「ええと、引馬の城下ですが」と五助は答えて藤吉郎の方を見た。

 藤吉郎も立ち止まって馬上の侍を見ていた。

「引馬に何しに行く」

「仕官の口を捜しております」と藤吉郎が答えた。

「ほう。侍奉公したいのか。当てはあるのか」

「ありません」

「当てもないのに行っても無駄じゃぞ」

「どうしても今川家にお仕えしたいのです」

「武芸の心得はあるのか」

「はい、弓を少々」

「お前は」と侍は五助に聞いた。

「剣術を少々」と五助は答えた。

「よし、ついて来い。お前らの腕を見てやる。腕前次第では仕官口を捜してやってもいい」

「本当ですか」と藤吉郎は目を丸くして侍を見上げた。

 侍はうなづいた。

 藤吉郎と五助は夢見るような気持ちで侍の後について行った。

 着いた所は頭陀寺(ずたじ)城と呼ばれる引馬城の支城の一つだった。かつては頭陀寺という真言宗の大きな寺があったらしいが、藤吉郎が行った頃には寺はなく、小高い丘の上に小さな城があり、その裾に堀と土塁に囲まれた武家屋敷があった。

 (あるじ)の名は松下佐右衛門(すけうえもん)と言った。屋敷の規模は蜂須賀小六の屋敷を一回り大きくしたくらいで、屋敷内には母屋(おもや)を中心に蔵が一つ、侍長屋と(うまや)があり、庭には築山と池、そして、茶室も建っていたが、それは藤吉郎が想像していた屋敷よりもずっと小さかった。せめて、生駒屋敷くらいの屋敷を想像していたのに、これでは郷士に毛が生えたようなものだと、がっかりした。五助も屋敷内を眺めていたが、あまり喜んではいないようだった。

 馬から降りると佐右衛門は、「ついて来い」と行って門から出て行った。

 どこに行くのだろうと二人は首を傾げながら従った。屋敷を出て左に曲がると堀を隔てて広場があり、そこでは侍たちが武芸の稽古に励んでいた。見た所、三十人余りの侍が剣術、槍術、棒術、薙刀(なぎなた)術、弓術の稽古をやっている。ここは武術道場なのかと藤吉郎と五助は顔を見合わせた。

「腕を試してやる」と佐右衛門は言うと、五助に木剣を渡し、自分も木剣を持った。

 五助と佐右衛門は木剣を構えて対峙した。

 藤吉郎は二人を見守った。

 五助が気合と共に打ち込んだが、佐右衛門に簡単にかわされた。何度、掛かって行っても佐右衛門には当たらず、最後には佐右衛門の木剣が勢いよく五助の頭上に落ちて来た。

 五助がやられると藤吉郎は目をつぶった。恐る恐る目を開けると佐右衛門の木剣は五助の首に当たる寸前に止まっていた。

「参りました」と五助は崩れた。

 佐右衛門は木剣を下ろすと、「思った通り、素質はある。修行次第では仕官口を捜してやろう」と言った。

 藤吉郎は弓矢の腕を佐右衛門に見せた。蜂須賀小六の所で真剣に稽古したので、多少の自信はあったが、あまりうまくはいかなかった。それでも、佐右衛門は唸って、「以外じゃな。はっきり言って、お前の腕前がこれ程とは思ってもいなかった。鍛えれば、ものになる」と言ってくれた。

 よくわからなかったが、やはり、父親の血が流れている事が嬉しかった。

「いいか。今の世は戦が絶えん。誰もが強い侍を求めている。腕があれば仕官口はいくらでもある。しかし、つてもないのに突然、訪ねて行っても誰も相手にしてはくれん。ここで修行に励めば、わしが仕官口を捜してやる」

 藤吉郎と五助は侍長屋に住み込み、松下屋敷での修行の日々が始まった。二人と同じように長屋に住み込んで武芸の修行をしている者は八人いた。他にも通いで修行している者もいる。さらに、佐右衛門は兵法(ひょうほう)指南役として引馬城にも武芸を教えに行っていた。一流の兵法家として佐右衛門はこの辺りでは有名だった。

 藤吉郎と五助は小者(こもの)として佐右衛門に仕える事となり、長屋の一部屋を与えられたが、そこに住み込んでいる修行者とは待遇が違った。彼らは自分の食いぶちを持って、遠くから修行に来ているため、雑用をする事はなく、交替で門番を勤めるが、午前中は兵法に関する学問をやり、午後は武術の修行に励んでいた。藤吉郎と五助は朝早くから水汲み、屋敷内の掃除、馬の世話、主人の使い走りなど様々な雑用をやり、午後からは皆と一緒に武術の修行をする事ができた。

 屋敷の隣にある武術道場には昼過ぎになると、あちこちから若者がやって来て修行に励んでいた。侍だけでなく近在の百姓たちも一緒になって木剣を振っていた。

 武術の師範(しはん)は八人いて、彼らは佐右衛門の正式な家来だった。戦に行く時は(よろい)を着て佐右衛門に従い、その時の活躍によっては、引馬の飯尾豊前守の家臣になったり、掛川の朝比奈備中守の家臣になったり出世する事ができた。藤吉郎と五助は早く師範になって戦で活躍する事を夢見ながら修行に励んだ。

 日暮れ近くに稽古は終わり、集まって来た者は家に帰り、住み込みの修行者は長屋に帰って、夕飯を食べた後は好き勝手な事をしていた。藤吉郎と五助は夕飯の前に風呂の支度をしなければならなかった。

 朝から晩まで休む間もなく働き続け、毎日、疲れ果てていた。それでも、二人はやめようとは言い出さなかった。五助は剣術に熱中し、藤吉郎は弓術に熱中していた。負けず嫌いの二人は一緒に稽古している修行者たちに負けるものかと張り切っていた。

「やっぱり、何をするにも強くなんなきゃ駄目だ。俺は奴らには絶対負けねえぞ」と五助は目を輝かして言った。「伊賀の国にも武術道場は結構あるんだ。でも、文無しの俺には縁がなかった。こんな所で武術が習えるなんて、ほんとについてるわ」

陰流(かげりゅう)という流派らしい」と藤吉郎は言った。

「陰流?」

「ああ。惣次郎から聞いたんだ。奴は掛川の城下から来たそうだ」

「へえ。奴の親父は朝比奈備中守の家臣なのか」

「らしいな」

「偉えのか」

「下っ端じゃ、伜を修行には出せねえだろ」

「だろうな。おめえ、惣次の奴と仲良くなって掛川に行くつもりなのか」

「そんな事まで考えてねえ。ただ、知り合いになっておけば後で役に立つだろうと思っただけだ」

「ふーん。俺はそんな事には興味ねえ。ただ、強くなれりゃそれでいい」

「仕官口はどうでもいいのか」

「俺は武術が習いたかったんだ。仕官すれば武術が習えると思ったから仕官口を捜していたんだ。強くなれりゃ、それだけでいいんだ」

「強くなっても仕官しねんじゃ、戦で活躍できねえじゃねえか」

「戦なんか興味ねえよ」

「おめえは一体、何を考えてんだ」

「今は強くなる事だけだ。後の事は後でいい。それより、おめえ、陰流と言ったな」

「ああ、言ったが」

「そいつはどんな流派なんだ」

「師範の山崎様が言うには、愛洲移香斎(あいすいこうさい)という人が編み出して、関東の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)という人に伝わったらしい。ここの殿様は若い頃、武者修行の旅に出て関東まで行き、その上泉伊勢守という人から習ったそうだ」

「へえ、陰流か‥‥‥なかなか、いい名じゃねえか。よし、やるぞ」

 五助は強くなるのに夢中だった。武術の稽古は他人以上に励んでいたが、午前中の仕事はさぼりがちになり藤吉郎が尻拭いをするはめになった。

 藤吉郎が文句を言っても、「すまん、すまん」と言うだけで、五助のさぼり癖は治らなかった。藤吉郎は五助のいい加減さにうんざりしながらも真面目に仕事をこなして行った。

 ある日、馬の世話をしている時、「おめえ、読み書きできるのか」と五助が真顔で聞いて来た。

「少しはな」と藤吉郎は答えた。寺に入れられた時、平仮名の書き方と読み方は覚えた。しかし、漢字を覚える前に寺を追い出されてしまっていた。

「いいなあ。俺はまったく駄目だ。やっぱり、読み書きくれえできなきゃ馬鹿にされるな。おめえ、俺に教えてくんねえか」

「俺の字なんか恥ずかしくって見せられるか。おハマがうめえ字を書いてたぞ」

「おハマがか」

「ああ」と藤吉郎はうなづいた。

 五助はニヤニヤしながら、「おハマはいいおっぱいしてるぜ」と言った。「しゃぶりつきてえくれえだ」

「おめえ、見たのか」

「この前、風呂へってる所をちらっとな」

「おめえ、(かわや)に行って、なかなか帰って来ねえと思ったら、風呂を覗いてたのか」

「馬鹿言え、この間、たまたま覗いたら、おハマがいたんだ」

「すけべ野郎が」

「おハマは年増だが、色っぺえぞ。でも、俺はやっぱり、おタマの方がいいな。可愛いよ」

「おタマの裸も見たのか」

「見ちゃいねえよ。おめえ、おタマと杢次(もくじ)の奴ができてるの知ってるか」

「杢次郎がおタマとか」

「この寒空に、毎晩、しっぽり濡れてるとよ」

「あのおタマが毎晩か‥‥‥信じられん」

「可愛いおタマが杢次なんかとやってると思うと俺は非常につらいぜ。ああ、せつねえ。だがな、今のうちだけだ。今はまだ、俺は奴にかなわねえが、そのうちやっつけて、おタマもいただきさ」

「おめえは女子(おなご)のために武術をやってんのか」

「何だって強えもんの勝ちよ。おめえ、知ってるか。おイネの奴は引馬から通ってる善七とできてるらしいぞ。でも、彦太の奴がちょっかいを出してるそうだ」

「へえ、彦太郎もおイネを狙ってたのか。おイネはちっと色っぺえからな」

「色っぺえかも知れねえが、おイネは痩せぎすだ。俺はあんなの好かねえ」

「おトラは誰なんだ」と藤吉郎は何げなく聞いた。

「おトラは今の所、誰もいねえらしい。けど、狙ってる奴は多いぞ。おトラはおとなしくて可愛いからな。おめえも狙ってんじゃねえのか。おめえの好みだからな」

「うん。おトラはいい娘だ」

「まあ、頑張れ。それとな、おハマの奴も誰もいねえらしいぞ。年増だけどな」

「そうだ、思い出した。そのおハマから読み書きを習えって言おうとしたんだ」

「おハマからか‥‥‥」

「俺が聞いてやるよ」

 おハマ、おイネ、おタマ、おトラの四人は松下家に住み込んでいる女中だった。おハマが一番年上で、噂では二十一歳、おイネが十七歳でおタマとおトラが十五歳だった。おハマは侍の娘で一度、嫁に行ったが一年もしないで別れ、ここにやって来たという。器量も悪くないし、五助の言う通り、いい体をしている。台所の仕事もてきぱきとこなし、読み書きもできるのに、どうして嫁に行って失敗したのか藤吉郎には不思議だった。

 その日、藤吉郎がおハマに相談すると、おハマは喜んで引き受けてくれた。

「今、おタマとおトラに読み書きを教えています。一緒にやったらいいですよ」

 さっそく、その日の晩、仕事が終わった後、藤吉郎と五助は女中部屋に行き、おタマ、おトラと一緒に読み書きを習った。漢字も教えてくれるというので、藤吉郎も五助と一緒に女中部屋に通って読み書きを学ぶ事にした。

 五助も藤吉郎と二人だけだったら、すぐに飽きてしまっただろうが、おタマとおトラが一緒だったので、根気よく毎晩かかさず手習いに励み、上達するのも速かった。時々、修行者たちがからかいにやって来るが、五助は平気な顔をして下手くそな字を書いていた。

 五助は面白い性格だった。自分がやりたいと思った事は回りの事など一切、気にせずに熱中するのに、やりたくない事は回りの迷惑も考えず、まったくいい加減だった。

「侍奉公は俺には向いてねえようだ」と五助は時々こぼしていた。

「とにかく、一年は辛抱しようぜ」と藤吉郎は励ましていた。

 その年の暮れ、稽古仕舞いになると住み込んでいた修行者は皆、故郷へ帰って行った。長屋は藤吉郎と五助の二人だけが残り、急に静かになった。

 年末年始は武術の稽古はなく、正月を祝う準備で忙しかった。二人は朝から晩まで雑用に走り回っていた。それとは別に、長屋が空いている今こそ、女を連れ込むいい機会だと女を口説き回るのにも忙しかった。藤吉郎はおトラ、五助はおタマをものにしようと必死だった。

 藤吉郎は何とか、おトラを部屋まで誘い込む事に成功した。しかし、うまくは行かなかった。どうも、誰か好きな男がいるらしい。何とかして聞き出そうと思ったが、おトラの口は固かった。

 五助の方はうまく行っていた。ところが、相手はおタマではなく、おイネだった。

「おめえ、おイネは嫌えじゃなかったのか」と藤吉郎は問い詰めた。

「おタマを狙ってたんだがな。おイネが俺に色目を使いやがるんだよ。俺に気があるんに違えねえと切り替えたんだ。男がいるから無理かもしれねえとは思ったんだけどな、思ったより簡単だったぜ。それに、裸になると以外にある所はあるんだ。うん、結構、いい女子だよ。普段はツンとしてるがな、あの時はまるで別人のように情熱的っていう奴だぜ」

「ふん。相変わらず、いい加減な野郎だな」

夫婦(めおと)になるわけでもねえし、楽しめりゃ、それでいいのよ。これでいい正月が迎えられるってもんだ」

 忙しかった正月も半ばになると各地から修行者がやって来て長屋は埋まってしまった。

 五助はおイネとうまく行っていた。寒さも忘れて夜中に長屋を抜け出して、星空の下でしっぽり濡れていると自慢気に話した。五助の話を聞くたびに、「うるせえ」と藤吉郎は耳をふさいでいた。

 藤吉郎とおトラは相変わらずうまく行かず、おトラの好きな男が主人、佐右衛門の長男、嘉兵衛(かへえ)だとわかると嘉兵衛に負けるものかと武術の修行に熱中した。嘉兵衛は槍術が得意だったので、藤吉郎も槍術の稽古を始めたが、幼い頃から槍を持っている嘉兵衛には到底かなわなかった。

 五助も剣術の修行だけは真剣にやり、その腕は驚く程上達していた。年上の修行者でも五助にかなう者はなく、師範を倒す事を目標に修行していた。

 月日は風のように過ぎて行った。

 今川家の領内は尾張とは違って平和だった。何度か、佐右衛門は鎧を身に着け、師範たちを引き連れて三河に出掛けて行ったが、激しい戦にはならなかったようだった。

 その年の十月半ば、五助が突然、消えてしまった。藤吉郎は夜中に五助が部屋から出て行くのを知っていた。また、おイネと逢い引きをするのだろうと思った。しかし、朝になっても帰って来なかった。外で寝てしまったのかと五助を捜しに行き、裏門を出ようとした時、女中部屋から出て来るおイネとばったり出会った。おかしいと思い、おイネに五助の事を聞いたら知らないと言う。

「失礼しちゃうわね。一月も前から五助なんかと会ってないわよ」とおイネは言った。「おトラと一緒なんじゃないの」

「えっ、おトラと」藤吉郎は驚いて、おイネを見つめた。

「あたしが振った後、五助はおトラとうまくやってたんじゃないの」

「まさか‥‥‥」

「あんた、知らなかったの。おトラは嘉兵衛様が好きだったけど、おハマ姉さんと嘉兵衛様が一緒にいる所を見ちゃったのよ。それで、嘉兵衛様の事を諦めて五助に抱かれたのよ。あの娘、生娘(きむすめ)だったから五助に夢中になっちゃって、もう、毎晩、やりまくってたんじゃないの」

 藤吉郎は呆然となった。五助からそんな事を聞いた事もなかった。いつも、おイネと一緒だったと話していた。おトラの部屋に行き、いない事を確かめると二人を捜し回った。すでに、どこにもいなかった。五助に裏切られたと臓腑(はらわた)が煮えくり返ったが、その後、五助とおトラの消息はまったくわからなかった。

 おトラを五助に奪われて怒っていたのは藤吉郎だけではなかった。佐右衛門の長男、嘉兵衛も怒り、修行者たちに五助を捜し出せと命じたが、見つける事はできなかった。

「藤吉郎、お前がおトラを好きだった事は知っていた」と嘉兵衛は槍の稽古中、話しかけて来た。「あともう少しという所で五助の奴に奪われちまったわ」

「嘉兵衛様もおトラの事が好きだったんですか」と藤吉郎は聞いた。

 嘉兵衛はうなづいた。

「おトラも嘉兵衛様の事が好きでした」

「知っていた。しかし、俺は怖かったんだ。おトラは真剣だった。遊ぶ気持ちで抱く事はできなかった」

「そうでしたか‥‥‥」

「お互いにおトラに振られたわけだな。五助の奴に奪われたと思うと勿体ない事をしたと思うわ」

 おトラの代わりにおタケという十五の娘が入って来た。おトラと比べたら雲泥の差があり、おトラの可愛さが改めて感じられた。

 おイネも善七郎のもとへ嫁いでしまい、代わりにおミノという十九の女が入って来た。年齢から行って出戻りか後家だろうという噂が流れ、男好きとの評判がすぐに立った。おミノと関係を持った修行者が何人かいたが、藤吉郎は興味を示さなかった。

 五助がいなくなっても小者の代わりは来なかった。藤吉郎が一人で黙々と、二人分の雑用をこなしていた。文句も言わずに励んで来た甲斐があり、翌年の正月より、小者からお納戸(なんど)役に格上げとなった。新たに二人の小者が入って来て藤吉郎は雑用から解放され、長屋から出て、松下屋敷の門前に並ぶ一軒家を与えられた。

 異例の出世と言えた。弱冠十七歳にして、藤吉郎はお納戸役として松下家の財産を管理する立場となった。午前中は台所の片隅で出納(すいとう)帳を睨み、午後になると道場に行って槍術の稽古をする毎日が続いた。藤吉郎はお納戸役になって喜んでいたが、師範たちは皆、お納戸役を馬鹿にしていた。

「いつも、ちょろちょろしている猿にはお納戸がよく似合うの」

「猿に武芸など似合わんわ。稽古などいいから女子と一緒に台所で米粒でも数えていろ」

 さらに、藤吉郎が銭の出し入れ、炭や(たきぎ)から紙一枚に至るまで細かく管理するようになると文句を言う者も多くなって来た。藤吉郎としてはなるべく無駄をなくすようにと思ってするのだが、細かすぎると苦情が多く出た。主人の佐右衛門はいつも赤字だった家計が黒字になったので喜んでくれたのに、藤吉郎は一人孤立してしまった。道場に行っても嘉兵衛以外の者は相手をしてくれず、嘉兵衛がいないと一人で槍の素振りをやるしかなかった。仕方なく、一人で稽古できる弓術に戻り、また、馬術の稽古にも励んだ。

 真面目に仕事をやっているのに、どうして、皆に嫌われるのかわからなかった。主人の財産を預かっている手前、いい加減にする事はできない。何を言われても藤吉郎は我慢した。佐右衛門が自分の事を認めてくれたのだから回りの者たちの反感を買おうとも、この役目をやり遂げるしかないと頑張った。このくらいの事に負けたら、これ以上の出世はできない。吉乃のために、もっともっと出世しなければならなかった。

 別れてから一年半が経っていた。吉乃ももう十六歳になっている。そろそろ嫁に行く年頃だった。後一年、待っていてくれと藤吉郎は西に沈む夕日に願った。

「藤吉郎さん、います」と誰かの声がした。

 藤吉郎が縁側に顔を出すとおハマがいた。

「何か御用ですか」

「違うんですよ。あなたの事が心配になって、ちょっと顔を見に来たんです。道場でみんなにやられたんですって」

「大丈夫です。何でもないんです」

「そう‥‥‥上がってもいいかしら。わたしがこんな所にいるのを見られたら、また、あなた、いじめられますわ」

 おハマは火鉢の側に座ると、「わたし、悪い事をしちゃったみたいですね」と言った。

「はっ」と藤吉郎はおハマを見つめた。何の事を言っているのかわからなかった。

「わたしがあなたの事、お納戸役にどうかって、お殿様に勧めたんですよ。あなた、真面目によく働くし、お勘定も得意ですものね。嘉兵衛様も賛成してくれましてね、あなたに決まったんですよ」

「そうだったんですか‥‥‥」

「いつまでも、小者のままじゃ可哀想だと思ってやったんですけど、逆に、みんなから嫌われちゃったようですわね」

「いいんです。こんな家に住めるんですから、小者よりはずっと増しですよ」

「でも‥‥‥ここのお納戸役はいつも長く続かないんですのよ。真面目にやれば、みんなから嫌われますし、かと言って、みんなの顔色を窺いながら、いい加減にやれば、お殿様に怒られます。難しいお仕事なんです。それにお納戸役をやるような人って、頭はいいけど武芸はからっきし駄目という人が多いんですの。いつも、難しい書物を読んでるような人ですね。ここにいる男の人たちは、どこかで、そういう人を馬鹿にしてますの。ある程度、年配の人なら陰口をきいても、仕方なく言う事を聞きますけど、あなたみたいに若い人がうるさい事を言いますと、どうしても反発しちゃうんですよ」

「前のお納戸役だった岡田さんもよく書物を読んでましたね」

「そうですね。あの人はうまくやってましたわ。難しい書物を読んでましたけど、剣術の腕も凄かったですものね。ああいう人は滅多にいませんわ。ずっと、いてくれたらよかったんですけど、ああいう人はどこでも欲しがりますもの」

 去年の末、岡田十郎は二俣(ふたまた)(天竜市)に帰って行った。兄が急死したため、家を継いで二俣城の松井山城守(やましろのかみ)に仕えるためだった。十郎には藤吉郎も随分とお世話になっていた。武芸は強いし、色々な事を知っているし、尊敬できる男だった。

「それにね、あなたが尾張から来たよそ者という事もあるみたいです。お殿様がお仕えしていらっしゃる今川家は、尾張の織田様を相手に何度も合戦してますでしょ。お殿様が教えた人の中にも何人か戦死した人がいますのよ。あなたとは関係ないけど尾張の者を嫌ってる人は多いですわ」

「俺はよそ者ですか‥‥‥」

「ここではね。わたしはそんな事、全然、気にしてませんけど‥‥‥どうします。いやでしたらやめてもいいんですのよ。わたしがお殿様に誰か新しい人を捜すように頼んであげましょうか」

「いいえ。もう少し、やってみます」

「そう‥‥‥頑張って下さいね」

 おハマはそう言うと帰って行ったが、その後、ちょくちょく藤吉郎の家にやって来た。おハマのような賢い女でも、長年、仕えていると色々と不満があり、藤吉郎相手に愚痴をこぼしていた。

 二人の事はすぐに噂となった。師範たちは親切におハマの過去をあれこれと藤吉郎に聞かせては面白がっていた。

「おハマは嘉兵衛様の女子じゃ。嘉兵衛様の女子に手を付けたら、おめえはお(はら)い箱じゃ」

 その事は藤吉郎も知っていた。噂では嘉兵衛に女を教えたのがおハマで、嘉兵衛が十三歳でおハマが十九歳だったという。それ以後、嘉兵衛とおハマの事は公然の秘密とされ、男たちはおハマを誘いたかったができなかった。二人の関係が今でも続いているように皆、思っているが、藤吉郎だけは嘉兵衛から聞いて真実を知っていた。

 嘉兵衛はおトラの気持ちを知ってから、だんだんとおハマを敬遠するようになり、おトラがいなくなってからはおハマとの関係を断っていた。そして今、嘉兵衛は隣村に好きな女ができて、こっそりと隠れて通っているらしい。おハマは嘉兵衛に相手にされなくなって藤吉郎に近づいて来たようだったが、藤吉郎もおハマの事は読み書きを習っていた頃から姉のように慕っていたので、仲間外れになった今、唯一、心の許せる相手として付き合っていた。

 師範たちは藤吉郎が嘉兵衛にたたきのめされて追い出される事を期待していた。ところが、嘉兵衛は藤吉郎とおハマの事を知っても怒る事もなく、かえって二人の事を喜んだため、皆の期待ははずれてしまった。

「おハマはな、おめえを哀れんでるだけだ。本気にすると後で泣きをみるぞ」

「おハマはいい女子だ。しかし、頭はちょっとおかしいようだな。この間、夜中に素っ裸で走り回っていたぜ。キツネか何か取り憑いてるに違えねえ」

「嘉兵衛様のお古はどんな味じゃ。おめえにはお古がお似合いじゃな」

「おハマは結構、好き者だぜ。嘉兵衛様に振られた腹いせに、毎晩、修行者の長屋に行っては、よがり声を上げてるとよ」

 おハマが嘉兵衛と別れたと知ると師範たちはおハマの悪口を言っては藤吉郎をからかい、その裏ではおハマを口説いていた。

 おハマはしたたかだった。そんな噂や悪口なんか軽く笑い飛ばして、堂々と藤吉郎のもとに通って来た。藤吉郎は自分をかばってくれるおハマを姉のように慕っていたが、ある夜、おハマが急に泣き出し、慰めているうちに妙な関係になってしまった。

 その後、藤吉郎とおハマの妙な関係は続いた。おハマは時には姉のように、時には女として藤吉郎に接して来た。姉に成り切っている時に言い寄っても、「ふざけるんじゃありません」と相手にされず、女に成り切っている時に相談事を持ちかけても聞いてはもらえなかった。目を潤ませて藤吉郎を見つめ、「そんな事どうでもいいじゃありませんか」と抱き着いて来る。まるで、二重の人格を持っているかのようだった。

 その年の五月、塚原卜伝(ぼくでん)という武芸者が供を引き連れて松下屋敷にやって来た。藤吉郎は知らなかったが、武芸を志す者なら知らない方がおかしいと言われる程、有名な武芸者だという。

 常陸(ひたち)の国(茨城県)の鹿島神宮と下総(しもうさ)の国(千葉県)の香取神宮は共に神道(しんとう)流という武芸が盛んだった。卜伝は幼い頃から両神宮で学び、一千日にも及ぶ参籠(さんろう)の末、極意を体得し、『(ひとつ)の太刀』と称していた。三十数回の合戦に参加しては数多くの(かぶと)首を取り、二度の廻国修行では二十度の真剣勝負をやったが敗れた事はなかった。各国に大勢の弟子がいて、特に将軍足利義晴と伊勢の国司(こくし)北畠具教(とものり)は有名だった。今回の旅は亡き将軍義晴の嫡子(ちゃくし)義藤(後の義輝)に請われての上洛の途中だった。

 藤吉郎は嘉兵衛より卜伝の事を教わったが、実感として卜伝の偉さはわからなかった。将軍様に武芸を教えるのだから偉い人に違いないが、そんなに偉い人が、この松下屋敷に来る事が理解できなかった。

「親父が昔、鹿島に行った時、卜伝殿にお世話になったらしい。卜伝殿は親父の師匠、上泉伊勢守殿の兄弟子にあたるお方でな、師匠の紹介でしばらく鹿島で修行したそうだ」

「へえ、そうだったんですか」

 藤吉郎は嘉兵衛の話を聞いて、松下佐右衛門の武芸の腕を改めて見直した。今まで、佐右衛門くらいの腕の者なら尾張にだっていくらでもいると思っていた。しかし、一流の武芸者がわさわざ立ち寄る所を見ると、佐右衛門の腕も一流なのに違いなかった。いい人に巡り会ったと改めて藤吉郎は天に感謝をした。

 佐右衛門は卜伝のために母屋を空け、自らは家族と共に藤吉郎の家に移って来た。佐右衛門は藤吉郎にそのまま家にいろと言ったが、主人と一緒に休むわけにも行かないので、道場内にある小屋の中で寝る事にした。

 卜伝一行は五日程、滞在して、修行者たちに武芸を教える予定だったが、次の日、引馬城の飯尾豊前守からの使いがやって来て、是非、卜伝殿をお連れしろと伝えた。佐右衛門は断るわけにもいかず、卜伝を引馬に案内した。卜伝は飯尾豊前守の歓迎を受け、引馬城に十日も滞在して武芸の指導に当たった。松下屋敷の修行者たちも引馬に行って卜伝より教わった。藤吉郎は留守を命じられ連れて行ってはもらえなかった。

 松下屋敷の剣術師範だった山崎新三郎が卜伝から筋がいいと褒められ、その場にいた豊前守より直々に、「わしに仕えんか」と言われて喜んでうなづいたという。

 新三郎はニコニコしながら、みんなに見送られて引馬の城下に移って行った。藤吉郎も羨ましそうに新三郎を見送った。

「他の者たちも新三郎のように、いつか、認められる日が必ず来る。一層、努力して修行に励む事じゃ」と佐右衛門は言った。

 藤吉郎は佐右衛門の言う通り、一層、弓術の修行に励んだ。しかし、回りの者たちに比べたら少しも上達しなかった。体が小さいため、力が弱く、強い弓を引く事ができず、「そんな弱い弓では戦では役に立たん」とけなされた。

 鉄砲ならば力は関係ないので、鉄砲の稽古をしたかったが、佐右衛門は鉄砲など持ってはいなかった。佐右衛門も鉄砲には興味を持っていた。それでも、ここでは手に入れるのは難しいという。尾張では野武士でも鉄砲を持っていると言うと目を丸くして驚いていた。

 回りの者に馬鹿にされながらも弓術と馬術の修行に励み、文句を言われながらもお納戸役の仕事を務め、二重人格のおハマとの妙な関係を続けながら月日はどんどんと過ぎて行った。

 藤吉郎が松下屋敷に来て二年半が過ぎた。藤吉郎は十八歳になっていた。一年間のお納戸役の後、普請(ふしん)役に出世していた。

 普請役というのは屋敷を建てたり城を築く時の現場責任者で、普段の役目は城や屋敷を管理する事だった。常に屋敷や丘の上に建つ城を見回り、土塁や堀が崩れていたら直ちに修繕し、いつ、敵が攻めて来ても万全の守りができるように維持するのが役目だった。今まで普請役というのは名目的な役目に過ぎず、台風や地震などの災害のあった時だけ、復旧作業の中心となって活躍する役目だった。ところが藤吉郎はお納戸役の時と同じように真面目に働いた。毎日欠かさず見回りをして、自分で直せると思ったものは自分一人で直し、一人では無理なものは佐右衛門に言って修行者たちの力を借りた。

 水をたたえた堀の底に溜まった泥やゴミもすべてさらい、見違えるように綺麗になった。修行者たちは文句を言いながらゴミさらいをしていたが、綺麗になった堀を見て満足そうに喜んでいた。

 師範たちも驚き、「そういえば、わしが初めて、ここに来た時、こんな具合に綺麗じゃった。いつの間にか、汚れてしまったが、その事に気づかなかった。やはり、堀は綺麗な方が気持ちいいのう」と、うなづき合った。

 お納戸役には戦で負傷して片足のない大島孫兵衛という男が新たに入って来た。杖を突きながら歩いていても、その不敵な面構えは何度も修羅場(しゅらば)をくぐって来た事を物語り、何となく近寄り難い不気味な男だった。この男なら皆からいびられる事はないだろうと藤吉郎は安心した。

 お納戸役から解放され、肩の荷を下ろした藤吉郎だったが、今まで、武術師範の中から選ばれていた普請役という役目に就いた藤吉郎を(ねた)む者は多く、相変わらず孤立していた。

 梅雨入り前の五月の暑い日、藤吉郎は一人、丘の上の城から道場を眺め、吉乃の事を思っていた。

 今年中に迎えに行かなければ、吉乃は嫁に行ってしまうに違いなかった。しかし、今のままでは帰れない。松下家の普請役に就いたとはいえ、嫁を養える程の食い扶持(ぶち)は得られなかった。

 現実は厳しいと思った。二年半で小者から、お納戸役になり普請役に出世したが、まだまだだった。早くここを出て、山崎新三郎のように引馬城の家臣にならなくてはならない。清須で職人の修行をしていた時、祖父から辛抱が足らんと言われた。一人前の職人になるには十年間は辛抱しろと言われた。

 何事も辛抱か‥‥‥藤吉郎は寝そべり、空を見上げた。雲の形が吉乃の裸を連想させた。恥ずかしそうに水浴びをしている吉乃の姿だった。大声で吉乃の名を叫びたい心境だった。

「こんな所にいたのか」と突然、佐右衛門の声がした。

 藤吉郎は振り返り、慌てて畏まった。

「暑いのう」と佐右衛門は木陰に腰を下ろした。「まあ、楽にしろ。お前のお陰で屋敷は綺麗になり、この城の雑草はすっかり消えた。お前なら、どこに行っても立派に勤まるじゃろう。こんな所に置いておくのは勿体ないと思ってるんじゃが、仕官口は中々見つからん。武芸の腕なら、すぐにわかるが、お前の才能は外見を見ただけではわからんからの。それに、お前が尾張から来たというのも仕官をするのに邪魔になってるんじゃ。尾張と聞けば、今川家の者は皆、織田を思う。織田の間者(かんじゃ)じゃないのかと疑うんじゃよ。わしがそんな事はないと言っても話には乗って来んのじゃ」

「そうだったんですか‥‥‥」

「お前、おハマといい仲だそうじゃな」

「いえ、そんな」

「隠さんでもいい。二人の仲を知らん者はいない。お前よりは年上だが、どうじゃ、おハマと一緒にならんか」

「えっ」藤吉郎は思ってもいない事を突然言われてまごついた。

「おハマの親父は戦死してしまったが、引馬の豊前守殿の家臣じゃった。お前がおハマの家に養子に入れば、豊前守殿の家臣になる事もできるかもしれん」

「それは、ちょっと‥‥‥」

「おハマはいいかみさんになるぞ」

「でも‥‥‥」

「考えてみてくれ。お前がおハマと一緒になってくれれば仕官口の事は約束しよう」

 藤吉郎が屋敷に帰ると、おハマが待っていた。最近、おハマの二重人格はコロコロと目まぐるしく代わり、藤吉郎にも今のおハマがどっちなのかわからなかった。もし、夫婦になっても、おハマの二重人格は続くのだろうかと一瞬、思ったが、藤吉郎は首を振って、その考えを振り切った。吉乃の事を忘れて、おハマと一緒になるなんて考えられなかった。

「浮かない顔してどうしました」とおハマは洗濯物をたたみながら聞いた。

 今のおハマは姉の方だなと思い、「何でもない。少し疲れたんだ」と答えた。

「そう‥‥‥最近、暑いですからね。お水でも浴びてらしたら」

「そうだな」

 藤吉郎が水を浴びて帰って来ると、おハマは変身していた。蚊帳(かや)の中で裸になって手招きしている。こうなったら、もう、おハマに逆らう事はできなかった。逆らえば何をするかわからない。裸のまま屋敷内をうろつき回り、藤吉郎の悪口を言い触らす事も充分に考えられた。

 夜中にふと、藤吉郎は目を覚ました。何となく、ただならぬ重苦しい雰囲気が漂っていた。耳を澄ましてもシーンと静まり返っている。隣を見るとおハマは着物をはねのけ、気持ち良さそうに眠っていた。

 藤吉郎は気のせいかと横になった。

「トーキチロー」と低い声が聞こえて来た。

 キャキャキャという女の笑い声もした。

 物の怪か、と藤吉郎は跳ね起き、布団の脇にある刀を手にした。

「俺だ」と天井から人影が落ちて来た。続いて、もう一人が蚊帳の上に落ちて来た。蚊帳が潰れて、おハマが悲鳴をあげた。

 蚊帳の上に落ちて来た人影が素早く、おハマの口をふさいだ。なんと、その人影は若い女だった。そして、蚊帳の外で藤吉郎を見ていたのは行方不明になった五助だった。

「しばらくじゃな。おめえがまだ、ここにいたとは驚きだ。しかも、おハマと一緒にな」

 藤吉郎はおハマの口をふさいでいる女を見た。おトラかと思ったが、まったく違う女だった。

「俺だよ、おハマさん」と五助はおハマに言っていた。

 女がおハマの口から手を放すと、おハマは慌てて着物を羽織って、「まったく、脅かさないで下さいな。あなた、おトラをどこに連れて行ったんです」といつもの口調で言った。

「おトラは帰りたがっていたんだ。俺はおトラを家まで送って別れたよ」

「本当ですね。おトラを売り飛ばしたりしたんじゃないでしょうね」

「そんなワルじゃねえ。おイネだったら売り飛ばしたかもしれねえが、おトラにはそんな事はできねえよ」

「そうね。あの娘は純粋ですからね」

「おめえ、今まで何をしてたんだ」と藤吉郎が五助に聞いた。

「伊賀に帰って、忍びの修行をしてたんだ」

「忍び?」

「ああ。伊賀は忍びで有名なんだ。俺も忍びを習いたかったが、忍びを習うにも銭が掛かるんだ。俺にはそんな銭はねえ。一度は諦めたんだが、ここで武芸を習ったお陰で、忍びの術を習う事ができたんだ」

「どうして」

「武芸が強ければ銭がなくても教えてくれる所があるんだ」

「へえ、そいつはよかったな。しかし、忍びなんか身につけてどうするんだ」

「忍びを身につければ仕官口もすぐに見つかるんだ」

「仕官した所で、忍びは忍びだ。所詮、陰の存在だ」

「陰だっていいさ。陰は陰なりに面白え」

「人のうちに忍び込んで、こっそり覗き見をするのが、そんなに面白いんですの」とおハマが言った。

「覗き見すると意外な物が見られるからな。まさか、藤吉郎とおハマさんが一緒にいるなんて想像もしなかった事だ」

「わたしたちのあれ、見ましたね」

「ああ、見たとも。おハマさんがあんな大胆な事をするとは知らなかった」

 おハマは顔を赤くして、「許しませんわ」と言ったが、

「うそよ」と若い女は首を振った。「あたしたちが忍び込んだのは、ついさっき。二人ともぐっすり眠りこけてたよ」

「誰だ」と藤吉郎は聞いた。

「ナツ」と若い女は言った。

「女の忍びだ。師匠の女だったが盗んで来た」

「ふーん。で、これから、どうするんだ」

「関東に行く」

「また、関東か」

「小田原に風摩(ふうま)小太郎という凄え忍びがいるらしい。そいつと勝負しに行くんだ」

「へえ‥‥‥まあ、今夜は泊まって行け」

「そのつもりだ。おめえも出世したな。こんな一軒家に住んでるとはな。遠慮なく泊まって行くよ」

 五助とおナツの二人はそのまま居着いてしまった。ぬけぬけと佐右衛門の所に挨拶に行き、道場にも顔を出して修行者たちと一緒に稽古をしている。

 おナツは袖のない(たけ)の短い着物を着て、長い髪を無造作に束ね、腰に刀を差し、五助の後をくっついている。この手の女は尾張には藤吉郎の姉も含めてあちこちにいたが、この辺りでは見かけないので珍しがられ、また、おナツが可愛いので男どもは鼻の下を伸ばしてちやほやしていた。忍びだけあって身が軽く、剣術の腕も立つので佐右衛門の十五になる娘、小松に小太刀(こだち)を教える事になった。

 孤立している藤吉郎に比べ、五助とおナツはすぐに人気者となった。修行者たちと一緒に笑っている五助を見ながら、あんないい加減な奴がどうして人気者になれるのかわからなかった。

「いつ、小田原に行くんだ」と藤吉郎は二人だけになった時、おナツに聞いてみた。

「さあ、行かないんじゃない」とおナツは首を傾げた。

「行かない?」

「うん。小田原の話なんて、あたし、あの時、初めて聞いたもの」

「何だって」

「あの人、最初から、あんたに会いに来たのよ。もしかしたら、もう、いないかもしれないって心配してたけど、あんたがここにいたので、あの人、ほんとに喜んでたよ」

「あいつは俺に会いに来たのか」

「そうよ。変わった奴だけど、奴は今にきっと偉くなるって、いつも、言ってたよ」

「この俺がか」

「そう」

 藤吉郎は五助の本心を知って、何だか嬉しく思った。みんなから仲間はずれにされていたのに、五助が自分の事をそれ程までに認めてくれていたと知って、涙が出て来る程、嬉しかった。

「あたしもあんたは人とは違うと思うよ。何となく変わってる。うまく説明できないけど、あの人が言う事もわかるような気がするよ」

「そうか‥‥‥」と藤吉郎は縁側に腰を下ろしているおナツを眺めた。

 自分よりもずっと、おナツの方が変わっていると思った。娘らしい花柄の着物を着てはいるが、恥ずかしいという感覚がないのか、暑い、暑いと言いながら胸をはだけて、乳房が顔を出しても平気な顔でいた。

「どうして、五助なんかと一緒にいるんだ」

「わかんない。でも、あの人と一緒にいると面白いの。とんでもない事を平気な顔して言うんだもん。ただ言うだけじゃなくて実行もするしね。退屈しないよ」

「確かに、退屈はしねえだろうな。時々、うっとおしくなる事もあるがな」

「あの人もあんたの事、そんな風に言ってたよ。どっか、似たとこがあるんじゃないの」

「俺と五助がか」

「うん」とおナツは笑った。

 五助が木剣をかついで帰って来た。

「おい、おめえ、評判悪いぞ」と帰って来るなり言った。

「わかってる」

「殿様には評判いいが、師範や修行者たちはみんな、おめえの事を悪く言ってる。そろそろ、ここを出た方がいいんじゃねえのか」

「今更、出られるか。やっと普請役になったんだ。よそに行ったら、また、小者からやり直しだ」

「それはそうかもしれねえが、ここにいた二年半は無駄にはなんねえだろ。ここは強え者の天下だ。強けりゃ仕官口もすぐに見つかるが、お納戸役や普請役をうまくやっても仕官口など見つからねえ。おめえも大分、弓矢の腕を上げたらしいが、人並みよりちょっと上だけじゃ仕官口はねえ。そろそろ潮時じゃねえのか」

「確かに、おめえの言う通り、難しいかもしれねえが、今更、やめてもな、行く所がねえ」

「関東に行く」

「関東か‥‥‥関東に行ってもここと同じだ。どうせ、よそ者として扱われる。ここにいてわかったんだ。よそ者は出世できん」

「それじゃあ尾張に帰りゃいいだろ」

「尾張か‥‥‥尾張に帰ってもな‥‥‥」

「おめえ、いつか、尾張に惚れた女子がいるとか言ってたろ。まず、そいつをものにしてから考えたらいいんじゃねえのか」

「しかし‥‥‥」

「出世してから迎えに行くのもいいが、一緒になってから出世したっていいんじゃねえのか。なあ」と五助はおナツの乳房をつかんだ。

「暑いから、やだってば」とおナツはいやがったが、五助はニヤニヤしながら、おナツを抱き上げた。

「可愛い奴だ」五助はもがいているおナツを抱いて部屋の中に入って行った。

「くそったれが」と藤吉郎は縁側に横になり、吉乃の事を思った。五助に言われて急に吉乃に会いたくなった。思い切って吉乃の両親と掛け合おうかとも思ったが、やはり、踏ん切りはつかなかった。

 五助とおナツが藤吉郎の家に居候してから一月が経った。梅雨に入り雨降りが続き、二人は毎日、ゴロゴロしていた。藤吉郎はくそ真面目に雨降る中も見回りを欠かさなかった。普段の手入れがよかったので堀や土塁が雨で崩れる事はなかった。

 梅雨の最中(さなか)、屋敷内で盗難騒ぎが続出していた。師範たちの家から金目の物が盗まれ、藤吉郎が疑いの目で見られた。藤吉郎は五助の仕業に違いないと五助を問い詰めたが、五助もおナツも知らないと言い、泥棒の奴は俺がきっと捕まえてやると言い切った。

 藤吉郎は佐右衛門に呼ばれた。

「みんながお前の事を泥棒呼ばわりしてるようじゃな」

「はい」と藤吉郎はうつむいた。

「孫兵衛から聞いた話だが、師範たちがお前を袋だたきにして追い出そうと計画しているそうじゃ。わしとしては、このまま放って置くわけにはいかん。お前には悪いが、ここから出て行ってくれんか」

 佐右衛門からそんな事を言われるなんて思ってもいなかった。自分を信じてくれるに違いないと思っていた。

 藤吉郎は顔を上げて佐右衛門を見た。佐右衛門は庭の松の木を眺めていた。

「今の世の中はどこか狂っている。お前のように真面目に生きている者がなかなか認められん。しかし、お前を認めてくれる者が必ず現れるはずじゃ。ここで、じっと我慢したように、どこに行っても辛抱する事じゃ。わしはお前の役に立つ事はできなかった。だが、いつの日か、お前が出世する事を願っている。頑張れよ」

 佐右衛門は懐から袋を出すと藤吉郎に渡した。袋の中を覗くと銀貨が入っていた。

「鉄砲を買って来てくれ。ただし、急ぐ事はない。十年掛かっても二十年掛かってもかまわん。お前が鉄砲を持って来る日を、わしは楽しみに待っている」

 藤吉郎は佐右衛門に頭を下げた。何と返事をしたらいいのかわからなかった。目頭が熱くなり、知らずに涙が流れて来た。

「鉄砲を買うにはちょっと足らんかもしれんのう。しかし、お前の才覚で何とかなるじゃろう。達者でな」

「ありがとうございました」

 藤吉郎は深く頭を下げた。

 藤吉郎が家に帰るとおハマとおナツが仲良く話をしていた。五助は縁側で昼寝をしている。藤吉郎は五助を起こし、「ここを出るぞ」と言った。

 五助は寝ぼけた顔で、「なに、覚悟を決めたのか」と聞いた。

 藤吉郎はうなづいた。

「おい。おナツ、旅に出るぞ」と五助は起き上がった。

「あいよ」とおナツは言い、「おハマさんも行くんでしょ」と聞いた。

 藤吉郎はおハマの顔を見つめた。おハマが今、姉である事を願った。

 おハマは首を振った。

「わたしは行きませんわ。ここに残ります。あなた、立派なお侍になって下さいね」とおハマは言った。その目はまさしく姉が弟を見る目だった。

 藤吉郎はおハマの気が変わらないうちに、おハマにお礼を言って、五助、おナツと共に松下屋敷を後にした。

 五助は相変わらず長い太刀を腰に差し、得意になって先頭を歩いていた。

 藤吉郎は五助に内緒で、「泥棒騒ぎは五助の仕業だったんだろ」とおナツに聞いてみた。

「内緒よ」と言って、おナツはうなづいた。「やっぱりな、あの野郎め」

「でも、あんたの事を思ってやったのよ」

「わかってるが、やり方がきたねえ。盗んだ物はどうしたんだ」

「あたしがこっそり、元に戻しといたよ」

「戻したのか」

「うん。あんたに泥棒の濡れ衣を着せられないもの」

「そうか、すまんな」

「いいのよ。気にしないで」

 おナツは笑った。

 今まで気づかなかったが、おナツは萩乃に似ていると思った。今頃、みんな、どうしているだろうと河原で遊んでいた楽しい日々を思い出した。

「おーい、どっちに行くんだ」と五助が街道の真ん中に立って叫んだ。

「西だ」と藤吉郎は答えた。

「尾張に帰るのか」

「惚れた女子に会いに行くんだ」

「そう来なくっちゃな」と五助は笑った。「やっと、おめえらしくなったじゃねえか。松下屋敷なんぞ小せえ、小せえ。あんな所にいつまでもいると人間が小さくならあ。どうせ、短けえ一生だ。好き好んで我慢する事あねえわ」

「そうよ。楽しくやりましょ」

 五助とおナツは嬉しそうに笑っていた。藤吉郎も笑った。久し振りに心の底から笑ったような気がした。

 梅雨も終わり、空は青く晴れ渡っていた。






松下屋敷跡



目次に戻る      次の章に進む