酔雲庵

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉

井野酔雲





15.桔梗の花




 尾張に帰って来た藤吉郎はまず、蜂須賀小六の屋敷に向かった。

 清須の城下に行って上総介の家来になろうと決めてはいたが、小六の意見を聞いてみようと思った。それに、自分を安く売りたくはない。鉄砲好きな上総介の家来になるには、小六から鉄砲を習ってからの方がいいかもしれないとも思った。

 四年振りだった。屋敷は以前と変わっていなかった。ここは藤吉郎が初めて侍奉公した所だった。あの時、小六から鉄砲を習おうとして必死になって働いた。しかし、仇である備後守の突然の死によって、結局は鉄砲を習う事はできなかった。今、また、こうして鉄砲を習うためにやって来た。今度こそは絶対に習わなければならないと強く心に決め、門へと向かった。

 生駒屋敷からの使いだと言うと門番は入れてくれたが、藤吉郎の顔を見ながら首を傾げ、「おめえ、猿じゃねえのか」と聞いて来た。

 藤吉郎は、「はい」とうなづき、「もしかして彦八殿ですか」と聞いてみた。

 門番はうなづいて笑った。「やはり、猿か。おめえ、今までどこに行ってたんじゃ」

「はい、あちこちに」

「その格好からすると、昔とあまり変わってねえようだな」

「はい。あの小六殿はいますか」

「お頭か、いると思うがの。多分、裏の馬場の方じゃ」

「そうですか、どうも‥‥‥」と藤吉郎が頭を下げて母屋の方に行こうとすると、彦八が後ろから声を掛けて来た。

「おしまの奴だがな、わしの嫁になって、今はもう二人のガキがいるわ」

 藤吉郎は振り返ると、「おめでとうございます」と笑った。

「おう。後で、ガキでも見に来う」

 藤吉郎はうなづいたが、今更、おしまに会おうとは思わなかった。

 屋敷の外観は変わっていなかったのに中に入ると随分と変わっていた。母屋の南側に新しく建てた長屋が並んでいる。以前より多くの者が屋敷内に住んでいるようだった。

 母屋に小六はいなかった。大きなおなかをした女が顔を出した。小六の妻だという。四年前はいなかったが、その後、小六も嫁を貰ったらしい。なかなか綺麗な人だった。

「あら、猿じゃない?」と突然、声を掛けられ、声のした方を見ると新しい長屋の縁側から、またもや見た事もない女が笑っていた。小六の奥さんよりも、もっと綺麗な女だった。一体、誰だろうと首を傾げていると、

「あたしよ、あたし。すわよ」と言って、長い髪を後ろで束ねて見せた。

 藤吉郎は思い出した。男の格好をして勇ましく馬を乗り回していた小六の妹、おすわだった。

「懐かしいわね。あんた、どこ行ってたのよ」

「東に行ったり、西に行ったりと‥‥‥でも、びっくりしました。おすわ様が女の格好をした所を見た事なかったものですから」

「そうだったわね。あの頃のあたしはじゃじゃ馬だったものね。今じゃ、もう子持ちよ」

「へえ、すると青山様の?」

 おすわは嬉しそうにうなづいた。

「おゆうももうお嫁に行ったのよ。すぐそこの柏森にね」

「柏森というと兼松様の所ですか」

「そうよ。みんな所帯を持っちゃって、あの頃のように馬鹿な事はしなくなったわ。そう言えば、あんた、おかみさんを生駒様の所に預けてたの」

「えっ?」と言ってから、藤吉郎はおきた観音の事を思い出した。「あれは俺のかみさんじゃないですよ。ただの幼なじみです」

「そう‥‥‥その人、二月位前だったかな、亡くなったらしいわよ」

「えっ、おきたが亡くなった?」予想もしていなかった事を言われて、藤吉郎は呆然となった。

「何で、どうして、おきたが‥‥‥」

「詳しい事は知らないけど、兄がそんなような事を言ってたわ」

 おきた観音が亡くなった‥‥‥信じられなかった。藤吉郎は嘘である事を願った。

 おすわから小六の居場所を聞くとすっ飛んで行き、挨拶もそこそこに、おきたの事を聞き、真実だと知ると、馬を借りて、そのまま生駒屋敷へと向かった。

 おきた観音の墓は水浴びをした河原のほとりにあった。藤吉郎は野に咲いていた桔梗の花を墓前に供え、両手を合わせた。

 板切れに『さるのおかみさんのはか』と女文字で書かれてあった。それは萩乃の字だった。その字を眺めながら涙が止めどなく流れて来た。今思えば、おきた観音は藤吉郎にとって故郷そのものだった。中村の家族を思う時、必ず、おきた観音の事も思い出していた。

 萩乃の話によるとおきた観音は妊娠していて、出産に失敗して亡くなったという。大きなおなかをして嬉しそうに藤吉郎の名を呼び、おなかが大きくなるにつれて、だんだんと正気に戻って来たようだった。死ぬ前、萩乃の手を強く握って、藤吉郎にお礼を言ってくれと言って亡くなったという。

 あの時の子供だったのだろうか、と一瞬、疑ったが、もう、そんな事はどうでもよかった。おきた観音が藤吉郎の子供だと信じ、その子を産もうとしていた事は事実だった。そして、藤吉郎のかみさんとして、おきた観音は亡くなった。

 藤吉郎は板切れに書かれた文字を見つめながら、「おめえは俺のかみさんだ。あの世に行ったら子供と一緒に幸せに暮らせよ」とつぶやいた。

「トーキチ」と呼ぶおきた観音の声が聞こえた。おきた観音が藤吉郎を見て笑っている。しかし、その笑いはいつもと違って、初めて見る正気に戻ったおきた観音の笑顔だった。

 墓参りを済ませた藤吉郎は小六の屋敷に戻り、小六に頭を下げて鉄砲を教えてくれと頼んだ。小六は以前と同じく、弓の稽古から始めろと言った。藤吉郎はまず腕を見てくれと言って、小六に腕前を披露した。松下屋敷で修行したお陰で、皆がたまげる程、藤吉郎の腕は上達していた。蜂須賀党の中で弓矢の名人と言われている三輪弥助でさえ、これが、あの時の猿かと腰を抜かす程、驚いていた。

 さっそく小六から許しが出て、藤吉郎は初めて本物の鉄砲を手にした。火繩に火を点け、火薬を詰め、鉛の玉を込め、的に向かって鉄砲を構えると背中がゾクッとする程の感動を覚えた。

 初めて鉄砲を見たのは元服して間もない頃だった。那古野城下の馬場で上総介が得意気に撃っていた。あれから四年、ようやく念願がかなったのだった。

 藤吉郎は四年間に起こった様々な事を思い出しながら的を見つめた。

 筑阿弥の顔が浮かんだ。

 実際には知らないが、本当の父親が戦っている姿も浮かんで来た。

 吉乃の笑顔とおきた観音の笑顔‥‥‥

 剣を構えた松下佐右衛門と二重人格のおハマ‥‥‥

 喧嘩をしている五右衛門とおナツ‥‥‥

 舞台上で華麗に舞う玉風‥‥‥

 様々な思いを込めて藤吉郎は引き金を引いた。雷のような音が響き渡り、思っていた以上の衝撃を感じた。

 耳がキーンとなっていたが、回りの者たちがワイワイ騒いでいるのがわかった。

 弥助が真っ先に的の方に飛んで行き、「やったぞ、猿」と叫んだ。

 藤吉郎も的の方に行ってみると、ど真ん中とは言えないが、中央近くに穴が空いていた。

「初めて撃ったにしちゃ大したもんだ。おめえも今日から、わしらの仲間だ。お頭、そうですね」

 小六はうないたが、「弓も鉄砲も的に当てるためにやるんじゃねえ。実戦において敵を倒すのが目的じゃ。敵はじっとしてはいねえからな。それに、わしらのやり方は馬に乗ったまま敵を倒す事じゃ。いいな、その事を前提として稽古に励め」と厳しい顔で言った。そして、急に笑うと、「今晩はお前の復帰祝いでもするか。お前の旅の話を(さかな)にしてな」と藤吉郎の背中をたたいた。

 回りの者たちも藤吉郎を囲んで、猿、猿と言って騒いでいた。皆が自分の事を仲間と認めてくれていた。藤吉郎は嬉しくなり、久し振りに猿真似をしてお道化てみせた。

 藤吉郎は真剣に鉄砲の稽古に励んだ。弥助がいつも一緒に稽古に付き合ってくれた。以前、弓矢の稽古をしていた時とは違って、対等の仲間として弥助は付き合ってくれた。

 ある時、弥助が寂しそうにおすわを眺めているのを見て、「おすわ様はいい女になりましたね」と藤吉郎は声を掛けた。

 弥助は藤吉郎を睨むと、「昔からいい女子(おなご)だったわい」と怒った。

「まだ、好きなんですね」

「馬鹿言え、おすわ様は新七の嫁じゃ。人の女子に惚れてどうする」

「嫁に行っても好きなものは好きなはずです」

「生意気言うんじゃねえ。おすわ様の事はきっぱりと諦めたわ」

「そうですか。俺は未だに未練があります」

「おめえのかみさんは死んだんじゃろ。嫁に行ったのとは違うわ」

「確かに死にましたが、あれと一緒になる前に好きだった人は嫁に行ってしまいました」

「へえ。おめえにもそんな女子がいたんか」

「はい。生駒様の娘、吉乃様です」

「何じゃと」と弥助は口を開けたまま藤吉郎を見つめていた。「おめえ、吉乃様に惚れてたのか」

 藤吉郎がうなづくと急に大笑いをして、その笑いはいつまでたっても止まらなかった。

「おめえが吉乃様をか」

「おかしいですか」

「いや、いや。あまりにも突飛な事だったんでな。そうか、おめえが吉乃様をのう。そういえば、おめえ、生駒様の所にいたっけな。そうか、吉乃様に惚れて、あそこにいたのか」

 弥助は笑いやむと急に真顔になって、「吉乃様が好きじゃったのか」と改めて聞いた。

「はい、死ぬ程」と藤吉郎はうなづいた。

「うむ。あれは確かにいい女子じゃった。おめえが生駒様の所にいた頃は、ほとんど、お屋敷から出なかったんで誰も騒がなかったが、あの後、吉乃様の噂はあっと言う間に広まって、男どもが吉乃様見たさに生駒様の屋敷に押しかけたもんじゃった。わしらには高嶺の花で、到底、吉乃様を嫁にする事はできねえと諦めてたんじゃが、小太郎様は本気で惚れていた。小太郎様は前野家の次男じゃ。生駒様とも釣り合いが取れる。わしらは吉乃様は小太郎様のもんじゃなと羨んでいたんだが、小太郎様も振られてしまったんじゃ。小太郎様なら申し分ねえと思うんじゃがのう、女子の心ってもんはわかんねえ。どうして、美濃になんか行っちまったんかな」

「はい。会った事もない男だそうです」

「勿体ねえ事じゃ」

「話は違うんですけど、俺に姉がいるんですよ。以前のおすわ様みたいに男の格好をしていて、まったく男っ気がないんです。もう、二十二にもなるんですけど」

「ほう、おめえに姉ちゃんがいたんか」

「はい」

 弥助は藤吉郎の顔を見つめながら、「おめえに似てんのか」と聞いた。

 藤吉郎は笑いながら、「あまり似てませんよ」と答えた。

「そいつはよかった。いい女子か」

「俺が言うのも変ですけど、器量はそれほど悪くないと思いますが。ただ、少々、気は荒いかもしれません」

「なに、気なんか荒えたっていいさ」

「一度、会ってみませんか」

「中村にいんのか」

「はい」

「まあ、おめえの姉ちゃんじゃ、あまり期待はできねえが、会うくれえなら会ってやってもいいが」と弥助は気のない返事をしたが、「そうじゃ、わしは明日、用があって清須まで行くんじゃ。おめえも一緒に来い。そして、中村まで行ってみようぜ」とすっかり乗り気になっていた。

 次の日、藤吉郎と弥助は馬にまたがり清須へと向かった。

 清須の城下はすっかり変わっていた。戦でかなりの家が焼け落ちたらしく、新しい町作りのため、大勢の人足たちが汗びっしょりになって働いていた。城の堀までも新しく掘り直し、新しい(やぐら)まで建てている。かなり大規模な工事で町は活気に満ちていた。噂によると上総介は夫役(ぶやく)の百姓一人につき六合の米を宛てがうとの事で、近在の百姓たちは競って集まり、普請に精を出しているという。

 ふと、祖父の家は大丈夫だろうかと心配になって、近くまで行ってみたが大丈夫そうなので安心した。

 わざわざ清須まで来たのだから、余程、重要な用があるのだろうと藤吉郎は従って来たのに、弥助の用は薬を買うだけだった。それも、大して高価な薬ではなく、わざわざ清須まで来る必要もないと思われたが、この薬はここにしか売ってねえんだと弥助は言い張った。

「おめえのうちは確か、中村じゃったな。ここまで来たついでだから、ちょっと、うちにでも寄って行くか」と弥助はとぼけた顔をして聞いた。どうやら、薬を買うのは口実で、初めから姉に会うのが目的のようだった。

「ついでだから、ちょっと寄りますか」と藤吉郎はニヤニヤしながら答えた。

「飽くまでもついでじゃからな」と弥助は照れていた。

 姉は畑にいた。すぐに藤吉郎に気づいて、槍をかつぐとニコニコしながら近寄って来た。

「あれがおめえの姉ちゃんか」と弥助が馬に乗ったまま藤吉郎の袖を引っ張った。

 藤吉郎は弥助の顔色を眺めながら、うなづいた。

 姉が近づいて来ると弥助は慌てて馬から下りて棒のように突っ立った。

 藤吉郎も馬から下りると姉を迎えた。

「おっ、おめえも一人前のかぶき者だな。カッコええじゃねえか。それに立派な馬っこに乗って‥‥‥また偉くなったようだな」

 姉は馬と藤吉郎の姿を交互に眺めながら満足そうにうなづいた。弟の小一郎と妹のあさも寄って来て、嬉しそうに藤吉郎を眺めていた。

「おっ母はどうしたんだい」

「ちょっと用があってな、烏森まで行ったわ。もうそろそろ帰って来るんじゃねえか」

「そうか‥‥‥ああ、そうだ、この人、三輪弥助殿と言って俺がえらくお世話になってる人なんだ」

 藤吉郎が弥助を紹介すると姉は、「これはどうも」と弥助に頭を下げ、藤吉郎に向かって、「何で、こんな所にお連れするんだ。うちの方にお通しすればいいに」と慣れない言葉を言った。慌てて持っていた槍を小一郎に渡すと、髪を撫でて、襟元を直した。

「あたし、藤吉郎の姉のともと申します。弟がいつもお世話になりまして、どうも」

「いえいえ、たまたま清須まで来たものですから、ちょっと挨拶によっただけで‥‥‥」

 姉も弥助も何となく変だった。

 姉が家の方に案内しろというので、藤吉郎は弥助を家に連れて行った。しばらくして姉が一人で戻って来て、お茶を入れるから待ってろと言う。うちにお茶なんてものがあったのかと不思議に思って待っていると、何と、姉が女の格好をして現れた。長い髪を綺麗にとかし、うっすらと化粧までしている。

 藤吉郎は言葉を失う程、驚いた。着ている着物は旅に出る前に藤吉郎が置いて行った物で、それを仕立て直したようだった。決して上等な着物ではないが、初めて見る姉の女姿は藤吉郎が見ても眩しいと感じる程、女らしかった。狐にでも化かされているのかと思った位だった。

 女姿の姉は桔梗の花を一輪、竹の花入れに立てて飾ると、しおらしく、お茶を()てて弥助に差し出した。

「結構なお点前(てまえ)でございますな」と言って、弥助は優雅にお茶を飲んだ。

 姉にしろ、弥助にしろ、藤吉郎が知っている二人とはまるで別人だった。

 垣根から小一郎とあさがきょとんとした顔で覗いていた。

「失礼」と藤吉郎は言うと立ち上がり、二人を残して部屋を出た。小一郎とあさの所に行くと二人を連れて家から離れた。

「あの人、誰」と小一郎が聞いた。

「うん。俺が世話になってる人だ」

「偉い人なの」

「今に偉くなるかもしれない」

「姉ちゃん、どうして、あんな格好してるの」

「さあ、俺にもわからん。姉ちゃんがあんな格好した所、見た事あるか」

 小一郎もあさも首を振った。

「お茶を点ててる所は?」

「お父が生きていた頃、姉ちゃんに教えてたよ。姉ちゃん、そんなもの習ったってしょうがねえって言ってたけど」

「そうか、お父が教えたのか‥‥‥」

「姉ちゃん、綺麗だった」とあさが言った。

「そうだな、綺麗だったな」

「ずっと、あの格好でいればいいのに」

「そうだな、もしかしたら、そうなるかもしれない」

「どうして」

「どうしてかな‥‥‥」

 四半時(しはんとき)後、家に戻ると姉と弥助は藤吉郎の事を話題にして楽しそうに笑っていた。

「どうでした」と帰り道、藤吉郎が聞くと、「信じられん。あれがおめえの姉ちゃんだとはな。最初の男の格好もよかったが、その後の女の格好は最高じゃ。いい女子じゃ。今まで男どもが放って置いたとは信じられん」

「惚れましたか」

 弥助は真面目な顔で藤吉郎を見つめ、大きくうなづいた。「頼む、猿、いや、藤吉郎殿、姉上殿をこのわしに‥‥‥そう、話を進めてくれ」

「はい。弥助殿なら喜んで進めます」

「そうか、頼むぞ」

「俺がフラフラしてるから、姉ちゃんには苦労の掛け通しだったんです。俺がいい婿さんを捜してやらなければと思ってたんです」

「いい婿だかどうかはわからんが、おとも殿のためなら、わしは何でもするわい」

 そう言うと弥助は嬉しそうに高い声で吠えると馬を飛ばした。






宮後村の蜂須賀屋敷



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