酔雲庵

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記

井野酔雲

創作ノート







稲垣武著『平賀源内 江戸の夢』より




平賀源内の略歴




享保 13 1728 高松藩の蔵番白石茂左衛門の子として讃岐志度浦に生まれる。 1歳
元文 4年 1739 おみき天神のからくりを考案、天狗小僧の異名を取る。 12
5年 1740 本草学、医学を学び始める。 13
延享 2年 1745 俳句に親しみ季山の号で句作を始める。 18
陶器製作にも興味を持ち技術を習得。
寛延 2年 1749 1月 父没し、蔵番を継ぐ。この頃平賀姓を名乗る。この前後、藩主松平頼恭が今の栗林公園内に移した薬草園の世話係を命じられる。 22
宝暦 2年 1752 長崎へ第一回留学。 25
3年 1753 長崎からの帰途、備後鞆之津で陶土を発見、溝川家に製陶を勧め、三宝神として地神、荒神とともに自分を源内神として祀れと託宣。 26
4年 1754 7月

藩に蔵番辞職願いを出し、8月に許される。従兄弟の磯五郎を妹里与の婿養子とし家督を譲って権太夫と名乗らせる。江戸へ出る決意を固める。

27
5年 1755 量程器、磁針器を模作。 28
6年 1756 3月

江戸へ行くため故郷を去り、渡辺桃源らと有馬温泉に長期滞在、別れを惜しむ。大坂を経て6月、江戸に到着。直ちに本草学者田村藍水の門に入る。

29
7年 1757 7月 藍水に勧めて日本初の物産会(薬品会)を湯島で開催。 30

幕府の儒者、林大学頭に入門、湯島の聖堂に寄宿。

8年 1758 4月 神田で第二回物産会。源内も5種を出品。 31
9年 1759 8月 自らが主催者となり、湯島で第三回物産会を開く。50種を出品。 32
9月

本草学者としての名が高まり、高松藩に三人扶持で再び登用される。

10 1760

藩主松平頼恭、将軍の名代として京都の朝廷に伺候、源内も随行を命じられる。

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4月

頼恭の命により相模の海岸で貝類を採集。

5月

御薬坊主格に登用され、四人扶持銀十枚に加俸。

7月

頼恭の帰国に随行、途中、紀州海岸で貝類採集を命じられる。

9月

頼恭の命で領内の薬草採取。この頃、将軍御側衆、田沼意次と接触。

11 1761 2月 藩へ到仕願いを出す。 34
3月 処女随筆『木に餅の生る弁』を発表。江戸長崎屋でオランダの医官バウエルと竜骨について問答。
5月

オランダの植物図鑑『紅毛花譜』を入手。

9月

藩から辞職の許可が出たが『仕官御構』の条件を付けられる。

12

幕府から伊豆芒消御用を命じられる。この年、神田白壁町に居を構える。

12 1762 4月 湯島で第五回物産会。全国に取次所を設ける画期的手法で出品数は一挙に千三百種を越える。 35
9月

初めて博物書『紀州物産志』を出版。

13 1763 7月 『物産品隲』全6巻を出版。 36
9月 国学者賀茂真淵の門に入る。
11 『根南志具佐』前編と『風流志道軒伝』を相次ぎ出版。
測量器具の平線儀を製作。
明和 元年 1764 1月 秩父中津川村の山中で石綿の鉱石を発見。 37
2月

中島利兵衛と協力して火浣布の試織に成功。

3月

『火浣布説』を刊行。意次を通じて将軍にも献上。

8月 意次の命で、長崎に火浣布で作った小さな香敷5枚を送り、商品サンプルとして中国商人に見せる。
11

中国商人から軍馬の覆い布用の特大石綿布の注文来る。

2年 1765 3月 ドドネウスの『紅毛本草』を大金はたいて買い入れる。 38
4月

秩父で金銀銅鉱石や磁鉄鉱を発見。『火浣布略説』を発表。

平秩東作の『水の往方』に序文を寄せる。

この年、江戸でブームとなった絵暦の交換会に頻繁に出席、近くに住む美人画家、鈴木春信と共に浮世絵の多色刷技術を開発。『東錦絵』と名付ける。

・この年、『俳風柳多留』第一集が刊行される。
3年 1766 3月 『紅毛介譜』を入手。 39

大田南畝を知る。この年、秩父で金山開発に着手。

4年 1767 3月 『紅毛虫譜』を入手。 40
9月

南畝の処女作『寝惚先生文集』に序文を贈る。

ポルノ浄瑠璃『長枕褥合戦』を書くが出版は見合わせる。

5年 1768 1月 寒暖計を製作。 41
2月 『日本創製寒熱昇降記』を発表。
3月

『紅毛魚譜』『紅毛禽獣魚介虫譜』『世界図』を入手。

『痿陰隠逸伝』を書く。資金調達のため建築請負を手広く営業。

6年 1769 1月 『根南志具佐』後編を出版。 42
3月 『百工秘術』入手。
11 『嗽石香』の宣伝文を書く。中津川金山休山。鉱山開発失敗で金策に苦しみ『貧家銭内』と名乗る。
年末

浄瑠璃脚本『神霊矢口渡』完成。

7年 1770 1月 神霊矢口渡』を外記座で初演。 43
8月

幕府から御蘭陀翻訳御用を命じられる。

10

長崎に出発。

8年 1771 御蘭陀翻訳は頓挫。無聊を慰めるため、西洋画法を学び、油絵『西洋婦人図』を描く。かたわら天草で良質の陶土を発見。 44
3月 ・杉田玄白ら小塚原で刑死人解剖。
4月

・諸国に伊勢お蔭参り大流行。

5月

『陶器工夫書』を天草代官に建白。
長崎からの帰途、摂津の多田銀山・銅山の排水工事を指導、大和金峰山の鉱脈調査。郷里志度浦に天草の陶土を送り、スポンサーの桃源に勧めて陶器を試焼させる。
この頃、旅費に窮して、大坂に長期滞在、御蘭陀渡りの品を売って金策に奔走。

安永 元年 1772 2月 目黒行人坂の大火で神田白壁町の留守宅焼失。 45
志度浦で飼育させていた羊の毛を原料に堺の業者に委嘱していた羅紗の試織に成功。自分の諱を取って『国倫織』と命名。
大坂から江戸に帰る。
2年 1773 秩父鉱山開発に着手。 46
6月

鉱山師吉田理兵衛と共に秋田藩の招きで鉱山開発に秋田へ出発。

7月

秋田院内銅山に到着。下旬、角館で小田野直武に出会い、西洋画の技法を伝授。

8月

阿仁銅山へ赴き、吉田と共に粗銅から銀を抽出する技術を教える。

11

江戸へ帰着。

3年 1774 7月 『放屁論』出版。この頃、長崎から持ち帰った摩擦起電器『エレキテル』の復原に熱中。また模造金唐革の試作に着手。 47

中津川鉄山、精錬に失敗し休山。

8月

・杉田玄白らの『解体新書』完成、刊行。

4年 1775 鉄精錬用の木炭を鉄山開発用に整備した荒川の舟運を利用して江戸に運ぶ事を思いつき、年末から本格的な炭焼事業を始め、江戸に売り出す。 48
5年 1776 模造金唐革を発売。この頃、菅原櫛も売り出す。 49
11

エレキテルの復原製作に成功する。『長枕褥合戦』刊行。

6年 1777 5月 『放屁論後編』出版。エレキテルの見物客多く、意次の側室にも見せる。 50
7年 1778 1月 前年の暮れ頃から憂鬱症にかかる。『冬籠の句』などを作る。 51
8月 『菩提樹の弁』出版。回向院の善光寺本尊出開帳に乗じて、烏亭焉馬に縁起物を作る秘策を授ける。
8年 1779 2月 最後の随筆『金の生木』を書く。 52

浄瑠璃『荒御霊新田神徳』上演。評判はぱっとせず。

8月 弟子の中島中良の『目黒比翼塚』の大当たりに癇癪を起こし、中良を面罵する。
この頃、神田久右衛門町の幽霊屋敷を買い入れ、転居。
1121

朝、思い違いから客を殺傷、入牢。事件の際の手傷から破傷風にかかる。

1218 獄死。





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