酔雲庵

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵

井野酔雲

創作ノート




『埼玉県史』より

北条氏関係年表





1486年 7月 26日 太田道灌、暗殺される。
扇谷上杉定正は古河公方、長尾伊玄と連合して、山内上杉顕定と対立。
1491年 9月 14日 伊勢貞親の弟、備中入道瑞松軒(貞藤)死す(75歳以下)。
1493年 10月 11日 伊勢早雲、扇谷上杉定正の手引で伊豆を平定し、韮山城に入る。
1494年 8月 15日 扇谷上杉方の武蔵関戸要害、山内上杉顕定に攻め落とされる。
8月 26日 扇谷上杉定正の重臣、小田原城主の大森氏頼死す。
9月 19日 扇谷上杉方の相模玉縄要害、山内顕定に攻め落とされ、小机城主矢野右衛門助戦死。
23日 扇谷上杉定正の重臣、新井城主の三浦時高、養子の義同に殺される。
28日 伊勢早雲、武蔵久米川(東村山市)に着陣し、扇谷上杉定正と対談する。
10月 3日 扇谷上杉定正、荒川を渡ろうとして落馬し、それが原因で死す。
扇谷上杉方は総崩れとなり、河越に敗走し、伊勢早雲は韮山に帰る。
定正の死後、古河公方は山内上杉方に寝返る。
1495年 9月 伊勢早雲、大森藤頼を追放して小田原城を乗っ取る。
1496年 7月 山内上杉顕定、政氏を奉じて相模西部に攻め入る。小田原城主、伊勢弥次郎戦死。
顕定、上戸(川越市)に陣を築き、扇谷上杉朝良の河越城に対する。
1502年 6月 連歌師の宗祇と宗長、武蔵上戸陣に滞在する。
9月 13日 古河公方足利成氏(64)死す。
1504年 8月 21日 顕定、越後の弟房能の救援を受けて上戸陣を出て仙波に進み、河越城を攻める。
9月 6日 河越城が容易に落ちないので、攻撃目標を江戸城に移し白子(和光市)に陣す。
15日 伊勢早雲、朝良救援のため、稲毛に着き稲田登戸の桝形山に陣する。
20日 今川氏親、桝形山に到着。
26日 早雲、氏親、桝形山を出て、翌日、顕定の軍勢に対する。
朝良方は江戸城攻撃を中止し、立川原に陣を敷く。
27日 立川原合戦。顕定、大敗する。
10月 23日 今川氏親、駿河に帰る。
11月 上旬 越後守護代長尾能景、越山して顕定に合力する。
12月 1日 朝良ら、顕定の上戸陣を攻め、長尾弥五郎以下100人討死いる。
顕定ら、武蔵椚田要害(八王子市)を攻め落とす。
5日 伊勢早雲、高野山の長連法印に書を送り、戦勝祈願を謝し黄金20両と山絹30疋を送る。
26日 顕定、相模実田要害(平塚市)を攻め、城主上田朝直討死する。
1505年 1月 顕定、朝良の河越城を囲む。
3月 朝良の長老曽我氏、顕定との和睦を図り、成立する。
朝良、家督を朝興(18)に譲り江戸城に引退する。
1506年 伊勢早雲、足柄下郡にて検地を実施する。
早雲、十七ケ条の家法を制定する。
1510年 6月 20日 山内上杉顕定(57)、越後長森原にて戦死。
伊勢早雲と長尾伊玄、越後の長尾為景と組み、両上杉氏に対抗する。
7月 11日〜19日、扇谷上杉朝良、早雲に寝返った権現山城(横浜市)の上田政盛を攻め勝利する。
12月 9日 朝良、鴨沢城(中井町)を攻めるが早雲方に敗れる。
1511年 12月 伊勢早雲、扇谷上杉朝良と和睦する。
1512年 8月 伊勢早雲、三浦義同の岡崎城を攻め落とす。13日、早雲、鎌倉に入る。
1513年 9月 25日 江戸城から三浦郡に進撃して来た太田資康、戦死する。
1514年 8月 24日 長尾伊玄死す。
1516年 7月 伊勢早雲、三浦義同と義意の新井城を攻め落とし、相模を平定する。
1518年 4月 21日 扇谷上杉朝良死す。
10月 8日 伊勢氏綱、初めて『虎印判状』を発給する。
1519年 4月 18日 早雲、菊寿丸(幻庵)に箱根別当堪忍分を給与する。
8月 15日 伊勢早雲(88)、韮山城にて死す。
1524年 1月 13日 伊勢氏綱、品川に出陣し、高縄原にて扇谷朝興にて戦う。
14日 氏綱、朝興の逃げた江戸城を奪い取る。
本丸に富永政直、二の丸に遠山直景を香月亭に太田資高(1498−1547)を配置。
4月 10日 氏綱は相模当麻宿(相模原市)に伝馬の法を定める。
8月 26日 氏綱、足立郡三室郷(三浦市)に禁制を発給し、軍勢を乱暴を停止する。
10月 9日 氏綱、太田道灌が建立した平河の本住坊に寺領を寄進する。
10日 山内上杉憲房は上州衆を率いて毛呂要害に取りかかる。
16日 氏綱は江戸を発し途中まで進んだ所、憲房の家老長尾憲長や藤田、小幡らが和談の斡旋を申し出る。
氏綱は勝沼(青梅市)に滞留していたが、遠山、秩父次郎の陣所まで憲長らが来て対談し、和議が成立する。
11月 28日 氏綱、伊東祐員を下平河村(千代田区)の代官職に補任する。
氏綱、この頃より『北条姓』を名乗る。
1525年 1月 14日 扇谷上杉朝興、河越城から松山城に移り、翌日、榛沢郡藤田に移り山内上杉憲房と合流する。
2月 4日 氏綱、江戸城を出陣し、雨のため途中で滞留しながらも、
6日、午前10時頃より太田資頼の岩付城攻めを開始し、午後4時頃攻め落とす。
資頼、石戸に逃げる。氏綱は岩付城を渋江に渡し、9日暮れには江戸に帰城。
3月 上旬 山内上杉憲寛、菖蒲城を攻める。
中旬 氏綱、葛西城を攻める。
25日 山内上杉憲房(59)死す。養子の憲寛(足利高基子)が管領職を継ぐ。
8月 22日 扇谷上杉朝興、白子原にて氏綱方と戦い勝利する。伊勢九郎他800余人戦死。
9月 25日 太田資高、父資康の13回忌にあたり、本住院の寺号を平河山法恩寺と改める。
1528年 6月 7日 朝興、北条方の蕨城を攻め落とす。
9月 9日 山内上杉憲寛、入間川(狭山市)に出陣し、小沢城(川崎市)を落とす。
11月 山内上杉憲寛と扇谷上杉朝興、玉縄を攻め、鵜沼(藤沢市)に至る。
この頃、氏綱の娘、太田資高(万好斎)に嫁ぐ。後、景資、康資、資行を産む。
1529年 2月 12日 遠山直景、秩父郡吾名蜆城に出張する。
1530年 1月 3日 扇谷上杉朝興、吾名蜆城を攻めて勝つ。
6日 朝興、小沢、瀬田谷(世田谷区)両城を攻める。
8日 朝興、江戸城根小屋を焼き、河越城に帰る。
6月 15日 朝興、府中に出陣し、小沢原にて氏康に敗れる。
1531年 7月 18日 足利政氏、久喜甘棠院にて死す。
8月 18日 玉縄城主、北条氏時死す。
9月 3日 憲寛、関東管領職を憲政に譲る。
9月 太田資頼、岩付城を奪回する。渋江三郎戦死。
1533年 2月 12日 河越衆、大磯、平塚等を焼く。
1535年 9月 下旬 朝興、相模に出兵し、大磯、平塚、一宮(寒川町)、小和田(茅ヶ崎)、知賀崎鵜沼などに放火する。
10月 13日 北条氏綱、河越城を攻める。
1537年 4月 27日 扇谷上杉朝興(50)、河越にて死す。朝定(13)が継ぐ。
7月 11〜15日、北条氏綱、河越城を攻める。朝定、松山城に逃げる。
18〜20日、氏綱、朝定の松山城を攻める。難波田隼人佐ら戦死。
1538年 2月 2日 北条氏綱、葛西城を攻略し、岩付城付近を放火する。
10月 4日 氏綱父子、小田原から江戸に着く。
7日 氏綱父子、国府台にて足利義明を戦死させ、里見義堯を安房へ走らす。
10日 葛西城主大石定重死す。定久(48)が継ぐ。
1539年 2月 3日 氏綱、今成郷(川越市)の代官に宇野定治を任命する。
5月 21日 河越在城の北条為昌の使者、鶴岡八幡宮に炎旱祈祷を依頼する。
8月 13日 氏綱、娘と足利晴氏の結婚について関宿城主梁田高助に依頼する。
この年、氏綱の娘(芳春院)、晴氏に嫁ぐ。
1540年 11月 28日 芳春院、鶴岡八幡宮に参詣する。
1541年 7月 19日 北条氏綱(55)死す。
9月 8日 氏綱の四十九日の法要。
10月 扇谷上杉朝定、河越城を攻めるが失敗する。
1542年 5月 3日 玉縄城主で河越城代の北条為昌(23)死す。
11月 6日 山内上杉憲政、鹿島大明神に願文を捧げて、北条討伐とその勝利を祈願する。
1545年 4月 憲政、古河公方晴氏に対し、河越攻めの合力を頼む。
5月 27日 憲政、小山下野守に書を送り、北条方となった成田長泰の忍城攻めに晴氏と共に参陣するように促す。
9月 26日 今川義元、憲政と朝定に味方して、駿河長久保を囲む。また、憲政と朝定、河越を攻め、砂窪(川越市)、柏原(川越市)に陣を敷く。
10月 27日 晴氏、憲政の要請により河越に着陣し河越攻めに参加する。
1546年 3月 7日 北条氏康、岩付太田資時(全鑑)の家臣上原出羽守に書を送り、資時の味方入魂のための走り回りの労を謝す。
4月 氏康、河越救援のため砂窪に8000余騎にて出陣する。
20日 河越夜戦。北条氏康、両上杉軍を敗走させる。
朝定(23)戦死し扇谷上杉氏滅亡。
太田資正、松山城に退く。ついで同城を焼き上野新田に退き、高林(太田市)に蟄居する。
大道寺盛昌、河越城主となり、北条綱成は玉縄城主となる。
氏康、松山城代として垪和氏を入れる。
10月 憲政、碓氷峠を越えて武田晴信と戦うが敗れる。
1548年 この頃、氏康、岩付城を攻撃。太田資正、氏康に降伏。
1551年 10月 中旬 憲政の家臣、越後に赴き、上条定春宅で四、五日密談する。
1552年 1月 管領上杉憲政、北条氏康に敗れ、平井城から越後に敗走する。
梁田晴助、北条氏康と盟約する。
7月 下旬 憲政、越山し、8月7日には春日山城下の上条宅に着き、以後、成悦と改名する。
12月 12日 古河公方晴氏、氏康の甥、義氏に家督を譲る。
1554年 11月 晴氏、藤氏父子、古河城に拠り北条氏に敵対するが敗れ、相模国波多野に幽閉される。
義氏は相模に移り、1556年以降、鎌倉葛西谷に居所を定め『葛西様』と呼ばれる。
この年、藤田康邦死す。氏邦、藤田氏を継ぐ。氏邦は天正年間に至るまで『藤田』と称す。
1558年 4月 義氏、鎌倉八幡宮に参詣し、梁田晴助が太刀持ちを、一色刑部少輔、吉良頼康が供奉の役を務め。玉縄城主北条綱成、江戸城代遠山綱景以下、北条氏の重臣たちが警固する。
4月 氏康、梁田晴助に圧力をかけ、梁田氏を古河城に移し、義氏を鎌倉より関宿に帰還させる。
1560年 6月 この頃、足利晴氏、流浪の末死す。
8月 長尾景虎、関東に出陣する。古河城主梁田晴助、忍城主成田長泰、岩付城主太田資正ら景虎に参陣する。
11月 忍城の成田長泰、景虎の先触れとして鎌倉に進攻する。
12月 太田資正、景虎の先触れとして品川に進攻する。
1561年 閏3月 長尾景虎、鶴岡八幡宮にて関東管領となり、上杉政虎と改名する。
成田長泰、政虎に辱めを受け帰国する。
政虎、義氏を追い出し、古河に藤氏を入れ、関宿に梁田を入れる。
古河公方のもう一人の宿老、栗橋城主野田氏は義氏、氏康方に属して梁田氏に対抗。
6月 上杉政虎が越後に帰ると、氏康は古河を攻め、藤氏を追い出し、支配下に入れる。
藤氏は里見を頼り安房に逃れ、義氏は当時、下総国小金(松戸市)に避難していた。
太田資正、松山城を北条氏から奪い取る。上杉憲勝を城主とする。
1562年 初め 北条氏康、三田綱秀の勝沼城を攻め落とす。
1563年 2月 4日 氏康、松山城を落とし、上田朝直を入れる。
1564年 1月 太田資正は江戸城の太田資康と謀り、房総の里見義弘と連合して下総国府台に出陣する。
国府台合戦、北条氏の勝利。
7月 23日 太田氏資、恒岡越後守、春日摂津守らと謀り、父資正を岩付城から追放する。
資正は次男の政景を溺愛し、氏資を廃嫡しようとしたため、両者の対立を北条氏が利用する。
資正は宇都宮広綱を頼り、後、佐竹義重に迎えられ、資正は片野城主に、政景は柿岡城主となる。
資正は岩付撤退後、三楽斎道誉と称す。
父を追放した氏資は氏康に臣属し、その娘と結婚する。
1565年 3月 氏政、関宿城を攻め、城下を焼き払う。
5月 太田資正、岩付奪回を図るが失敗し、栗橋城に撤退する。
1566年 足利藤氏、伊豆に幽閉中に死す。
1567年 4月 梁田晴助、持助父子、北条氏と講和する。
8月 太田氏資、三船台合戦にて殿軍を努め戦死する。
氏康、岩付領を直轄領として太田大膳亮と春日摂津守に管理させる。
1568年 氏康、栗橋城を野田氏から奪い、に氏照を入れる。
10月 氏政、梁田氏攻撃を開始し、関宿城の近くに山王山等の要害を築く。
12月 武田信玄、今川氏真を攻め、駿府を占領する。
12月 氏政、駿河に侵入して信玄と戦う。
1569年 1月 氏康、越後との講和のための交渉を始める。
2月 氏邦、駿河興津河原(清水市)で武田軍と対戦し戦功を上げる。
2月 信玄、鉢形城を攻める。
閏5月 梁田氏を攻撃していた氏政、氏照兄弟は上杉氏との同盟成就のため、山王山の砦を破却し、その攻略をひとまず断念する。
6月 北条と上杉、同盟する。
8月 義氏、鎌倉より古河城に復帰する。
9月 武田信玄、児玉郡御嶽城を攻略し、鉢形城を攻める。
10月 信玄、小田原城を攻める。当時、北条軍の大半は駿河に出陣中だったが、留守を守る河越城代大道寺政繁等の功により、武田軍を退散させる。
6日 三増合戦。北条氏、武田信玄に敗れる。
1570年 4月 25日 越後春日山城中にて、北条三郎と上杉輝虎(政虎)の姪との婚儀行われる。
この頃、氏政、北条氏繁を岩付城に入れる。1574年頃まで。
1571年 10月 3日 北条氏康死す。
1572年 1月 北条氏政、武田信玄と講和する。
1573年 7月 27日 栗橋城主北条氏照、関宿城を攻撃する。
この年、織田信長、伊達輝宗に友好を求める。
1574年 閏11月 関宿城の梁田晴助父子、北条氏政に降伏し、支城の水海城(総和町)へ撤退。
北条氏、羽生城を攻め落とす。
12月 18日 義氏、無住だった久喜の甘棠院に松嶺昌寿を入れ、再建を図る。
松嶺は後、義氏の重臣、芳春院周興の後継者となり、古河公方の奉行人として活躍する。
この頃、岩付は直轄領となり、北条氏繁は下総国飯沼城主となる。
氏政は次男の国増丸を岩付太田氏の養子として岩付城に配置する。
1575年 2月 下野小山祇園城の小山秀綱、北条氏に降伏する。
11月 織田信長、佐竹義重・小山秀綱らに文書を送り、天下のため協力を求める。
太田資正、梶原政景父子も信長との友好を開始する。
1576年 10月 日光山別当座禅院昌忠と壬生周長は小田原の豪商宇野氏(外郎氏)に日光町での営業特権を認める。
1577年 7月 13日 氏政、下総の結城晴朝攻略のため『岩付諸奉行、但今度之陣一廻の定』を作成。
・中筑後守‥‥‥小旗奉行、小荷駄奉行(二番)
・立川藤左衛門尉‥‥‥小旗奉行、篝奉行(一)
・潮田資勝‥‥‥小旗奉行
・福島四郎右衛門尉‥‥‥槍奉行、陣庭奉行、篝奉行(二)、小荷駄奉行(一番)
・豊田周防守‥‥‥槍奉行
・立川式部丞‥‥‥槍奉行、篝奉行(二)、小荷駄奉行(一番)
・春日与兵衛‥‥‥槍奉行 
・春日左衛門尉‥‥‥馬上奉行(左衛門)、陣庭奉行、篝奉行(一)、小荷駄奉行(一番)
・河口四郎左衛門尉‥‥‥鉄砲奉行
・真野平太‥‥‥鉄砲奉行
・尾崎飛騨守‥‥‥弓奉行
・高麗大炊助‥‥‥弓奉行
・山田弥六郎‥‥‥歩者奉行
・川目大学‥‥‥歩者奉行
・嶋村若狭守‥‥‥歩者奉行 ・渋江式部大輔‥‥‥馬上奉行
・太田右衛門佐‥‥‥馬上奉行、
・宮城泰業‥‥‥馬上奉行、陣庭奉行、篝奉行(二)、小荷駄奉行(二番)
・小田掃部助‥‥‥馬上奉行
・細谷資満‥‥‥馬上奉行、陣庭奉行、篝奉行(一)、小荷駄奉行(二番)
・馬場源十郎‥‥‥歩走廿人の奉行
12月 太田資正、織田信長との交渉を始める。
1578年 3月 13日 上杉謙信死す。
6月 北条氏繁、飯沼城にて死す。
1579年 2月 17日 上杉成悦、春日山城下の御館にて死す。
3月 24日 上杉景虎、自殺する。
4月 常陸下妻城主多賀谷重経、信長に馬を送り友好を開始する。
結城晴朝、宇都宮国綱らも信長に接近する。
9月 北条氏照、使者として間宮若狭守を送り上洛中の信長の元に鷹を進上して誼を通じる。
1580年 3月 北条氏政、信長に使者として笠原越前守を送り、縁組について会談する。
8月 氏政、家督を氏直に譲り隠居し截流斎と号す。隠居後、氏政の岩付領支配は本格化する。
1581年 6月 氏政、織田信長に馬を進上する。
1582年 3月 11日 武田勝頼死す。武田氏滅亡する。
この時、北条軍は織田軍に呼応し、駿河国に在陣している。
3月 26日 氏政、信濃諏訪に在陣中の信長の元に出頭し馬の飼料として米一千俵を進上する。
この時、北条を初めとして関東の諸将残らず出頭する。
3月 29日 織田信長、上野国と信濃国を滝川一益に宛てがう。
一益、箕輪城に入り、まもなく、廐橋城に移る。
氏政、信長に不満を持つ。
4月 8日 太田資正と梶原政景、信長の直参となる。
6月 2日 織田信長死す。10日後には北条氏も知る。
16日 北条軍、倉賀野へ出陣して滝川一益と対峙する。
18日 北条軍と滝川軍、神流川南岸の金窪、本庄原にて戦う。
鉢形衆三百余を初め多数の戦死者を出し、北条方の敗北。
19日 再び、神流川畔で合戦し北条方勝利し、滝川軍を上野から追う。
滝川軍を追い、信濃佐久郡を占領し小諸城に大道寺政繁を配置し、甲斐に進攻する。
甲斐にて徳川家康と遭遇する。
7月 8日 岩付城主、太田源五郎(19、氏政次男)死す。
8月 初旬 徳川との合戦が断片的に展開。氏直が若神子に陣を敷くと家康は新府城に入り、睨み合う。両軍の対陣は3ケ月近くに及ぶ。
10月 27日 北条氏直と徳川家康、和議を結ぶ。
閏12月 20日 足利義氏死す。古河公方家は断絶する。
1583年 1月 13日 義氏の葬儀が政氏の墓所甘棠院にて盛大に行われる。葬主は芳春院松嶺。
北条氏は積極的に関与しなかった。
4月 羽柴秀吉、柴田勝家を倒し、信長の後継者となる。
6月 佐竹義重、結城晴朝、太田資正父子ら、羽柴秀吉との友好を結ぶ。
8月 15日 徳川家康の娘、督姫、北条氏直のもとに輿入れする。同盟成立。
氏政、岩付支配から退き、氏房に譲る。
1584年 3月 小牧、長久手合戦。
11月 12日 徳川家康、羽柴秀吉と講和する。
館林城主、長尾顕長、北条氏直に屈服させられる。
金山城主、由良氏、北条氏に降伏する。
廐橋城を掌握し、上野支配の要にする。
1585年 7月 豊臣秀吉、関白となる。
7月 北条氏房、太田氏資の娘、小小将を妻とする。
唐沢山城主、佐野宗綱、戦死する。氏政の弟氏忠が佐野氏を継ぐ。
1586年 2月 氏直、伝馬10疋を使い、中筒製造のため土を大磯から小田原に運ばせる。
5月 秀吉、妹旭姫を家康に嫁がせる。
7月 氏直、山田二郎左衛門尉を鋳物師の棟梁に任じ、領国内の鋳物師たちを統制させ中筒を初めとする鉄砲類の製造の合理化を図る。
9月 岩付領の支配が小田原本城の奉行人より氏房に委ねられる。
10月 家康、上洛し秀吉に謁す。事実上、家康は秀吉に服属する。
11月 家康、秀吉の関東惣無事令を北条氏政に伝える。
1587年 5月 秀吉、九州を平定する。
7月 14日、秀吉、大坂城に凱旋する。
7月 晦日、氏直、緊急動員を目的とした人改令を相模、武蔵国内へ一斉に発する。
12月 3日 秀吉、関東、奥羽の惣無事令を発す。
28日 氏政、下総の水軍の将大須賀尾張守に備えを固めるように命じる。
1588年 1月 5日 八王子城の氏照、寺社に対し一斉に梵鐘の提出を命じる。
6日 氏照、観音堂、杉本坊に対し、山伏たちをまとめるように命じる。
7日 氏直、小田原城の補強普請を開始する。
4月 秀吉、後陽成天皇を聚楽第に招き、諸大名を集めて秀吉に服従する旨の起請文を取る。北条氏は参加せず。
8月 7日 氏規、小田原を発つ。
22日 氏規、秀吉に謁見する。秀吉は9月2日付けの朱印状をもって北条氏を赦免する。
そのお礼として氏規、再び、上洛する。
1589年 秀吉、沼田問題を裁定する。3分の1を真田に、3分の2を北条に。
6月 初め 北条氏、12月上旬に隠居の氏政を上洛出仕させる旨の誓約書を秀吉に提出する。
7月 半ば 氏直、真田氏より沼田領3分の1を受け取り、氏邦の管理の元に置く。
10月 沼田城将猪股邦憲、氏政らの命により真田氏の名胡桃城を奪い取る。
11月 24日 秀吉、北条氏に対し、最後通牒を家康を通して送り付ける。
12月 初め 秀吉、諸大名に小田原討伐のための陣触れを発する。
12月 氏直、鋳物師に大筒の製造を命じる。
1590年 1月 6日 氏直、大動員令を発する。
1月 家康、先鋒として駿府城を進発。
3月 1日 豊臣秀吉、三万二千の大軍を率いて京都を発ち、小田原に向かう。
20日 秀吉、駿河で家康と対面。
29日 豊臣秀次、山中城を落とす。
4月 2日 秀吉軍、箱根を越え、小田原城を包囲する。
・小田原城‥‥‥氏政、氏直、氏照、氏房、佐野氏忠、成田氏長、上田憲定、内藤直行、松田憲秀らが篭城。
・松井田城‥‥‥大道寺政繁。・鉢形城‥‥‥氏邦。・玉縄城‥‥‥氏勝。
・韮山城‥‥‥氏規。
・強硬論者は氏政と氏照。
・和平派は氏直、氏規、氏邦。
8日 小田原篭城中の皆川広照が家臣百人余を連れて秀吉方に降りた。
20日 松井田城、落城する。
21日 玉縄城の北条氏勝、秀吉軍に降りる。
23日 佐竹義宣、宇都宮国綱軍によって、下野壬生、鹿沼城、攻略される。
24日 箕輪城、落城する。この前後、西牧、国峰、廐橋、和田、佐野城などが相次いで開城する。
末〜5月半ばまでには江戸、河越、松山、佐倉、臼井城ら落城する。
5月 3日 河越、松山城、落城する。
半ば 秀吉、岩付城に二万余騎の軍勢を差し向ける。岩付城は氏房の重臣伊達房実が留守を守っていた。
この頃、氏邦、秀吉に助命嘆願するが、秀吉は認めず。
20日 秀吉軍の総攻撃を受け、岩付城、落城する。
6月 初め 五万余の大軍に囲まれ、氏邦、再び、秀吉に助命嘆願する。
14日 氏邦、秀吉に降伏する。氏邦、前田利家に預けられる。
23日 氏照の重臣横地監物、下野榎本城主近藤綱秀(氏照重臣)らの守る八王子城落城。
城代の横地氏以下一千余人が討ち取られる。
この頃、津久井城、韮山城も落城する。
7月 5日 氏直、弟の氏房を伴い滝川雄利の陣所へ走り入り、城中の将兵らの助命嘆願する。
6日 秀吉の部将脇坂安治、片桐直盛と家康の部将榊原康政が使節となり小田原城を受け取る。
8日 氏直、高野山に向けて旅立つ。
9日 氏政、氏照、小田原城を出て、城下の医師田村安栖の屋敷に移る。
11日 北条氏政、氏照、切腹する。
16日 忍城、落城する。
20日 氏直、叔父の氏規、弟の氏房、大道寺直繁、松田直憲以下約三百人の一族家臣を引き連れ、高野山に入る。
1591年 2月 秀吉、氏直の罪を許し、関東に九千石、近江に一千石、都合一万石の知行を与えられる。
8月 秀吉、氏規に河内国丹南郡に二千石を宛てがう。
9月 8日 太田資正(70)、常陸片野城にて死す。
11月 4日 北条氏直(30)死す。
1592年 4月 20日 北条氏房(28)、肥前国唐津にて死す。
1593年 5月 10日 北条氏邦夫人(藤田康邦の娘、大福御前)死す。
1594年 12月 北条氏規、河内国丹南郡、河内郡において6980石を宛てがわれる。
1597年 8月 8日 前田家に仕えた氏邦(55)、金沢にて死す。
1600年 2月 8日 北条氏規(56)死す。嫡子氏盛が継ぐ。後、その子氏朝は河内狭山藩主となる。







板部岡紅雪斎と垪和康忠は氏房を補佐して岩付城を守る。
河越衆《1560年》河越城下は北条氏の直轄領。
城下町の中心は本宿。1591年以前に新宿も形成される。
・大道寺駿河守周勝(1212貫)・大道寺弥三郎(351貫)・後藤備前守(195貫)・後藤助次郎
・後藤惣次郎・古尾谷周防守・勝瀬孫六(62貫)・小管大炊助・菊地掃部丞(80貫)・石川衆
・加藤太郎左衛門(248貫)・鈴木次郎三郎(100貫)・渡辺次郎三郎(120貫)
・吉田又三郎吉長(150貫)・山中内匠助頼次(600貫)・山中彦八郎(20貫)
・新藤下総守・川尻・金曽木・粟田口・石原
1548年、大道寺盛昌、広済寺を菩提寺として建立する。
1561年4月30日、大道寺周勝は清田内蔵助に河越篭城を賞し、商人問屋(宿屋)の営業権を初めとする河越宿における特権を与える。
1573年、大道寺政繁は次原新兵衛に『繁』の一字書出を与え、借米、借銭の返済に関する保証と宿屋の営業を認める。
北条氏照の滝山領は1568年以降、栗橋領が加わり、1574年以降、関宿領が加わり、1577年以降、小山領が加わり、1582年以降、古河領が加わる。
鉢形領
1552年3月14日、小幡尾張守に児玉郡今井村の百姓還住を命じる北条家印判状あり。
1561年より氏邦が幼名乙千代の署名で文書を発給し鉢形領の支配を開始する。
1564年より幼名を廃し印判状を発給する。
・氏邦の奉行人に三山綱定(氏邦の後見として滝山に入る)。
北条氏の軍役
・知行貫高5貫文に一人の基準で馬上一騎は他の3人分に相当する。
・知行高100貫文の場合、馬上3騎、鉄砲1挺、槍6本、大小旗1本というのが原則。
有力商人‥‥  河越の清田(せいだ)庄左衛門、次原新兵衛、金谷彦右衛門、内村将監。
松山の岩崎与三郎、岩崎対馬守、池谷(いけのや)肥前守、大畠備後守。
岩付の勝田佐渡守──播磨守。鉢形の長谷部源三郎(塩)。
熊谷宿の長野喜三(成田氏の御用商人、木綿、小間物)。
鉢形城下
・実聞寺は氏邦の家臣、垪和景春が開基する。
・良秀寺は氏邦の家臣、加藤良秀が開基する。
・泉福寺は氏邦の家臣、荻原昌久が開基する。
・1583年、氏邦、息子の死を弔うため秩父郡吉田にあった東国寺を城下に移し菩提寺とする。
岩付城下
・1505年、太田氏、浄安寺を再興する。
・1550年、太田氏家臣佐枝若狭守、竜門寺を開基する。
・知楽院、洞雲寺は太田資頼の開基。
・1567年、太田氏資、芳林寺を比企郡松山より移し建立。
・1587年、北条氏房、浄国寺を建立。
北条氏照 永禄半ば以降、下野、常陸、北下総方面への進出の総司令官としての任務を与えられていた。永禄末頃、氏康は古河公方義氏の扱い方を氏照に一切委ね、古河公方の権威と権力を氏照の基盤に転化させようとする。
1568年頃、氏照は古河公方宿老野田氏から下総栗橋城を収公して入城、以来、古河公方の家臣団と所領の吸収策を推進する一方、小山、結城氏以下の豪族に対しては、古河公方の権威を振りかざしつつつ進攻していった。
1574年、関宿城攻略を機に古河公方領をほぼ完全に掌握して古河公方家臣団を事実上その指揮下に置く。
1575年、小山氏を攻略し小山、榎本領にまで進出した。こうして、氏照は栗橋城を中心に古河城、水海城、祇園城、榎本城の諸城を管轄し、古河公方領と小山氏旧領とを含む一大支配領域を形成して行った。
北条氏邦 永禄半ば頃までには広大な鉢形領を形成し、武蔵北部の支配の安定化に努めつつ、上杉、武田氏に対する抑えとなっていた。永禄後半になって上野進出が徐々に進展すると、その先鋒となって活躍し始める。
1573年、 深谷城主、上杉憲盛、氏盛父子、降伏する。
1582年、 武田氏滅亡と織田信長の死後、氏邦は箕輪城主となり、松井田城には大道寺政繁が入る。
1583年、 北条高広から廐橋城を奪取する。
1584年、 由良国繁から金山城を奪取する。
鎌倉街道
・上道 所沢市→狭山市→日高町→鶴ヶ島町→坂戸市→毛呂山町→鳩山町→嵐山町→小川町→寄居町→花園町→深谷町→岡部町→本庄市→寄居町→美里町→児玉町→神川町
・中道 川口市→鳩ケ谷市→浦和市→岩槻市→白岡町→宮代町→杉戸町→幸手市→鷲宮町→加須市→栗橋市
氷川神社‥‥‥武蔵一宮。観音寺、愛染院、宝積院、大聖院、常楽院、南龍坊、不動坊、池上坊。
修験
・観音堂(狭山市笹井)・十玉坊(川越市南大塚)・最勝院(川越市上寺山)、・福泉坊(所沢市久米)・大行院(鴻巣市南下谷)・山本坊(毛呂山町西戸)・玉林坊(浦和市中尾)・宝積坊(美里町白石)B幸手の不動院(春日部市小淵)
・北条氏は関東の本山派修験は必ず不動院と玉滝坊(小田原市)の支配を受けるよう命じる。
一色直朝(1520頃−1597.11)月庵、宮内大輔、従5位下。若年より古河公方晴氏、義氏に仕え、歌道を嗜む。画筆も巧み。






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