酔雲庵


国定忠次外伝・嗚呼美女六斬(ああびじょむざん)

井野酔雲





2.五月屋のお政




 境宿(さかいじゅく)は四年前の文政十三年(一八三〇年)五月まで、百々(どうどう)一家の縄張りだった。

 百々一家は境宿に四つの賭場(とば)を持ち、月に六回開かれる絹糸市に集まる客たちを相手に稼ぎを上げていた。

 境の六斎市(ろくさいいち)は二日、七日、十二日、十七日、二十二日、二十七日に開かれ、西の上町(かみちょう)、中央の中町(なかちょう)、東の下町(しもちょう)の三ケ所が順番に市を立てている。百々一家の賭場も上町の煮売茶屋、伊勢屋の二階、中町の質屋、佐野屋の離れ、下町の煮売茶屋、大黒(だいこく)屋の二階と三ケ所にあり、市の立つ日に開かれた。初めの頃は市の立つ町の賭場だけを開いていたが、一ケ所だけでは間に合わなくなり、開催する市場に関係なく、三ケ所で同時に開くようになっていった。さらに、市の立たない日は下町の諏訪明神の隣にある料理茶屋、(きり)屋で賭場を開帳していた。

 ところが、大黒屋と佐野屋の賭場を預かっていた代貸(だいがし)二人が親分の紋次を裏切って、島村の伊三郎に寝返ったため、境宿の三分の二を伊三郎に取られてしまった。運悪く、親分の紋次が中風(ちゅうふう)で倒れ、急遽、跡目を継いだのが、まだ二十一歳だった国定(くにさだ)村の忠次だった。忠次は日光の円蔵を軍師に迎え、何とかして、境宿を取り戻そうとしている。しかし、利根川流域に縄張りを持つ伊三郎の勢力は強く、どうする事もできない。伊三郎は汚い手を使ってでも、忠次を境宿から追い出そうと企んでいる。忠次は伊三郎の誘いには乗らず、じっと我慢して、唯一残った伊勢屋の賭場を守っていた。

 一晩中、降っていた雨も朝にはやみ、お天道(てんとう)さんが顔を出した。円蔵が思った通り、伊三郎は張り切って、朝早くから十手(じって)を持って百々一家に乗り込んで来た。

 伊三郎は博奕打ちの親分でありながら関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の道案内を勤め、十手を預かっている。いわゆる『二足の草鞋(わらじ)』だった。

 関東取締出役というのは八州(はっしゅう)様とも呼ばれ、関八州の村々を巡回して犯罪者を召し捕る役人の事である。関東の国々は幕府の直轄領、旗本領、藩領、寺社領が入り乱れていて、他領に逃げ込んだ犯罪者を逮捕する事はできない。特に上州(群馬県)は細切れ状態になっていて、犯罪者が逃げ隠れするのに都合がよく、多くの博徒(ばくと)が生まれるのも当然といえた。そこで幕府が考えたのが、どこへでも踏み込んで行って犯罪者を逮捕できる権限を持った関東取締出役だった。

 彼らは江戸に住んでいるため、地方を巡回するには道案内を必要とした。道案内は原則として村の名主(なぬし)たちが務めるべきだが、取り締まりの対象が博奕(ばくち)打ちや無宿者(むしゅくもの)なので、そういう奴らを捕まえるには内情をよく知っている者でなくてはならない。そこで、顔の売れている博奕打ちの親分を採用する事になっていった。

 道案内は無報酬だが、八州様を後ろ盾にした役得は多い。博奕を見逃してやるからと賄賂(わいろ)をもらい、払わない博徒は捕まえて江戸に送り、その縄張りは自分のものにした。伊三郎もそうやって勢力を広げて来たのだった。

 伊三郎は十手の力で百々一家を早く潰したいと思っているが、伊三郎としても簡単に手を出す事はできなかった。伊三郎は世間の目を非常に気にして、素人(しろうと)衆から『いい親分さん』と呼ばれるのを得意としていた。忠次の賭場に踏み込んで、忠次を捕まえるのは簡単だが、忠次の賭場には境宿に住む素人衆も多く出入りしている。そんな所に踏み込んで行けば、伊三郎は悪者になり、反感を買ってしまう。忠次を追い出したいが、自分の評判が落ちるのを恐れ、手出しする事ができない。忠次もその事を知っていて、素人衆を大切にし、伊三郎が付け込む(すき)を与えなかった。また、忠次の後ろに玉村宿の佐重郎親分、大前田村の栄五郎親分、前橋の福田屋栄次郎親分らがいるのも伊三郎にとっては厄介(やっかい)な事だった。

 伊三郎は百々一家にやって来ると角次郎と秀吉(ひできち)を呼び、お常をどこにやったと十手を振りかざした。二人共、円蔵に言われた通り、その日はずっと煮売茶屋の伊勢屋で桃中(とうちゅう)の旦那と一緒だったと答えた。

 桃中の旦那というのは織間(おりま)常右衛門といい町役人を務める境宿の有力者だった。家督を伜に譲って隠居してからは俳諧(はいかい)に熱中し、時々、伊勢屋の賭場にも顔を出している。お常がいなくなった七日の日は俳諧仲間と賭場にやって来て、夕方近くまで遊んでいた。

 桃中の名を聞くと伊三郎は顔をしかめ、逃げ隠れするとためにならねえぞと帰って行った。伊三郎と一緒に、用心棒の永井兵庫と浮世絵師の歌川貞利がいた。貞利はお常を美人絵に描いた浮世絵師で、話を聞きながら画帖に何やら書いていた。いつも一緒にいる信三の姿はなかった。

 忠次に命じられて、お常の行方を捜している保泉(ほずみ)の久次郎はまず初めに、お常の親友だったというお菊とお海に会いに行った。しかし、二人は伊三郎と一緒にやって来た貞利の後にくっついていて話を聞く事もできない。お常が平塚(ひらづか)の方に行くのを見たという大黒屋のおとしも貞利にくっついていた。仕方なく、建具(たてぐ)屋『五月(さつき)屋』のお政を訪ねてみた。

 『五月屋』は下町の東の端にある丁切(ちょうぎり)(木戸)のすぐ側にある。お政は店の裏の庭に面した小部屋で(はた)を織っていた。

 驚いた事に、お政はお常に負けない程の美人だった。長い事、境宿にいて、こんな美人を知らなかったのは不覚だったと久次郎はお政に見とれた。お常は派手で目立ちたがりだが、お政は控えめな性格なのかもしれない。ほっそりとした落ち着いた感じの美人だった。

「あら、お常ちゃん、まだ帰らないんですか。いやねえ、どこ行っちゃったのかしら」

 お政はいざり(ばた)から立ち上がると前掛けの糸(くず)を払って縁側の方にやって来た。お納戸(なんど)色の(あわせ)に桜の花を散らした前掛けがよく似合っている。(たすき)を取りながら心配そうな顔をして、久次郎の顔を見た。

 お常の男関係を聞いてみたが、お政はあまり知らなかった。当然、中瀬(なかぜ)のしんさんというのも聞いた事がないという。

「でも、お常ちゃんを追いかけてる男の人は一杯いますよ。お常ちゃんも適当にあしらってるようだけど、中には冷たいと恨む人もいるかもしれないわ。もしかして、そんな人にさらわれちゃったのかしら。あら、やだ。そんな事ないですよね」

 お政は自分の言った事を否定するかのように首を振った。

「それも充分考えられます。誰か不審な男に心当たりはねえですか」

「ただ、そんな噂を聞いただけ。詳しい事は何も知りません」

 お政の話からわかった事はお常とお政、それと煙管(きせる)屋『村田屋』のおたかの三人が美を競い合った仲だという事だった。

 浮世絵師、歌川貞利は去年の四月、十六枚揃いの錦絵『美人例幣使道(れいへいしどう)』を描くため、日光例幣使街道の各宿場から二、三人づつ美人を選んで描いた。境宿で選ばれたのが、お常、お政、おたかの三人で、そのうちの一人が境小町として錦絵(にしきえ)になるのだが、誰なのかはわからない。町の者たちは誰が選ばれるか賭けをして楽しみにしていたという。そして、今年の正月、お常の姿が他の宿場の小町と共に錦絵になって売り出されたのだった。

 久次郎もその噂は知っていた。秀吉らが騒いでいたが、奴らと一緒にわざわざ三人娘を見に行く気にはならなかった。

「今、島村の親分が平塚(ひらづか)の先生と一緒に、お常さんを捜し回ってます。娘たちがキャーキャー言いながら先生の後に付いて回ってるけど、お政さんは行かねえんですか」

「あら、先生も来てるんですか」

 お政は少し驚いたようだったが、先生に会いに行こうとはしなかった。

「お常さんを最後に見たんが先生らしくて、心配になって捜してんだんべ」

「あたしは興味ありません。確かに、先生はいい男だけど、あたし、ああやって、みんなと一緒になって騒ぐの好きじゃないんです」

「ここには、まだ来ねえのか」

「来ませんよ、ここには。あたしに聞いたって何も知らないもの。お常ちゃんと仲がいいのはお菊ちゃんとお海ちゃんです。その二人に聞けば色々と知ってると思いますけど」

「その二人も先生にくっついてるんでね。伊三郎が一緒だから、つまらねえ騒ぎは起こしたくねえんですよ」

「そうですか」と言って、お政は庭を眺めてから久次郎を見て、「でも、百々(どうどう)一家の人がどうして、お常ちゃんを捜してるんですか」と聞いた。

 久次郎は軽く笑って、「堅気(かたぎ)の衆が困ってんのを見てられねえからですよ」と答えた。

「これから、村田屋さんに行こうと思ってんだけど、どうせ、おたかさんも何も知らねえだんべえな」

「多分‥‥‥」

 お政も一緒に付いて来てくれた。

 煙管(きせる)煙草(たばこ)入れを扱っている『村田屋』は宿場の中央にある高札場(こうさつば)より、やや西よりにある。久次郎はお政と一緒に歩きながら、浮世絵師、歌川貞利の事を聞いた。

 貞利は今、平塚に住んでいるが、お政たちの絵を描いた頃は木崎宿に住んでいて、商人宿の井上屋に滞在して三人を描いたという。

 貞利は島村の富農の次男に生まれ、十七歳の春、江戸に出て、有名な浮世絵師、歌川国貞の弟子になった。江戸で役者絵や美人絵を何枚も売り出したらしいが、兄弟子と喧嘩して、二年前に故郷に帰って来た。帰って来た貞利は例幣使街道の木崎宿に落ち着いた。木崎宿は境宿の一里半程、東にある宿場で飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる宿場女郎(じょろう)がいる事で有名だった。貞利は飯盛女のいる旅籠屋に居候(いそうろう)して、女郎たちを描きながら描いた絵を売っていた。その絵を認めてくれたのが旅籠屋(はたごや)の主人でもあり、木崎一家の親分でもある林屋の孝兵衛だった。

 孝兵衛は貞利の師匠、国貞が吉原の花魁(おいらん)たちを描いた美人絵を何枚も持っていた。貞利の絵を見た孝兵衛は貞利に木崎宿の飯盛女たちを描かせ、錦絵にして売り出せば木崎宿の宣伝になると考えた。貞利は喜んで引き受け、去年の正月、十二枚揃いの美人絵『当世木崎美人』が高崎の版元(はんもと)から売り出された。境宿でも売り出されて評判になったが、境宿ではまだ、誰も貞利の事を知らなかった。

 その頃、江戸では歌川広重の『東海道五十三次』が売り出されて評判になっていた。貞利もそれに刺激されて、去年の三月、次の作品として日光例幣使街道の各宿場の素人美人を描こうと計画した。

 貞利が境宿にやって来たのは四月の半ばだった。皆が思っていたよりもずっと若く、いい男だったので娘たちが騒ぎ出した。貞利が滞在した井上屋の離れには、お常、お政、おたかの三人以外の娘たちも押し寄せ、大騒ぎとなった。それでも、貞利が帰った後、わざわざ、木崎宿まで会いに行く者はいなかったが、去年の八月、平塚に越して来ると、お常を中心とした娘たちが貞利の家まで遊びに行くようになったという。

 中町の太物店(ふとものだな)『井筒屋』の前に娘たちがキャーキャー騒ぎながら集まっていた。中を覗くと伊三郎と貞利が若い男から話を聞いている。久次郎はチラッと見ただけでその場を離れた。

 『村田屋』のおたかは久次郎も知っていた。煙管や煙草入れを買いに行った事もあるし、村田屋の美人三姉妹は町中でも有名だった。長女のおいちはすでに嫁に行っていないが、次女のおたか、三女のおしんの二人が看板娘として店番をしている。お政が一緒だったので、おたかも気を許して色々と話してくれた。しかし、お常の事はあまり知らなかった。

 貞利の話になると、おたかは外を眺めている妹のおしんを(あご)で示して、「あの子も先生に夢中なんですよ」と笑った。「みんなと一緒に先生の後を付いてけばいいのに、それができないの。モジモジしながら、いつも、ああやって遠くから眺めてるんですよ」

 おしんは両手を胸の前で合わせ、大きな目でじっと貞利を見つめていた。その姿はいじらしいくらいに可愛いかった。

「先生たちはどこ行った」と久次郎はおしんに聞いた。

「よくわからないけど、勇吉さんちみたい」

「お海ちゃんのお兄さんですよ」とおたかが説明した。

髪結(かみゆい)の尾張屋だな」

「前にお常ちゃんが付き合ってたんです」

「ねえ、音吉つぁんはうちにいるの」とお政がおたかに聞いた。

「いるみたいよ。あん時、別れてから、お常ちゃんが音吉つぁんちに行くのは見た事ないわ。あの後、おちまちゃんとうまくやってるようよ」

「そうなの、おちまちゃんと‥‥‥」お政は一瞬、暗い表情になり、「おちまちゃんも可愛いものね」とつぶやいた。

「あんた、やっぱり、音吉つぁんの事、気になるんじゃないの。ああいう苦み走った男、好きだもんね」

「なに言ってんのよ」お政はチラッと久次郎を見て、「あたしはお常ちゃんの心配してんじゃない」と怒ったように言った。

「あら、どうだか。それにね、最近になって、おゆみちゃんも出入りしてるようよ」

「えっ、あの娘が」お政は驚いて、目を丸くした。

「そのうち、おちまちゃんとおゆみちゃんが一騒動起こしそうよ。あんたの入る隙はないみたい」

「あたしは関係ないったら」

「そのおゆみってえのはどこの()なんだ」二人のやり取りを黙って聞いていた久次郎が興味深そうに聞いた。

「井筒屋ですよ。ほら、さっき、島村の親分さんと先生がいた太物屋の娘なんです」とお政が教えると、

「凄いんですよ、その娘」とおたかが小声で言った。外を眺めている妹を気にしながら、「男を見れば、すぐに色目を使うらしいわ。お常ちゃんのお兄さんも関係あったらしいのよ」と内緒話のように言った。

「へえ、そうなの。あたしは隣の藤次さんといい仲だって聞いたわ」

「あの娘、普通じゃないのよ。自分とこの番頭さんともうまくやってるらしいわ」

「その事は知ってるわ。何でも、その番頭さんは十三だったおゆみちゃんに乱暴して追い出されたんでしょ」

「それは昔の事よ。最近も別の番頭さんとこっそりやってるのよ。音吉つぁんもきっと(だま)されてるに違いないわ」

「そんな凄え娘がいるのか」久次郎はお政とおたかの顔を交互に見た。

「家庭の事情もあったんでしょうね。お母さんが死んじゃって、お父さんが二十も若い後妻をもらったのよ。その人とうまく行ってないらしいわ。番頭さんに乱暴されるまでのおゆみちゃんはおとなしい子だったんだけど、あの事件以来、すっかり変わっちゃったのよ」

「あ〜あ、帰っちゃった」と言いながら、おしんが店の中に戻って来た。

「なに、先生は(けえ)ったのか」

 久次郎は通りを覗いた。下町の方を見ると、江戸道への曲がり角の辺りで、娘たちがそれぞれ散らばって行くのが見えた。

 久次郎はお政とおたかにお礼を言って、村田屋を出た。

「ねえ、今度はどこに行くんです」とお政が追って来た。

「とりあえずは佐野屋のお菊だな」

「あたしが一緒の方が話しやすいでしょ」とお政はついて来た。

「いいのかい」

「いいんです。どうせ向こうに帰るんだから」

 店先からおたかが久次郎とお政を見ながら、妹のおしんに何やらコソコソ言って意味ありげに笑った。久次郎は手を上げて、おたか姉妹と別れた。

 古着屋の『佐野屋』にお菊もお海も揃っていた。

 お菊はポチャとした体つき、丸顔で目が大きく、お海は痩せ形で顎のとがった顔に切れ長の目をしている。お政が一緒だったので、二人も喜んで話をしてくれた。ずっと貞利の後についていたので、伊三郎が誰と会って、どんな話をしたのかまで教えてくれた。

「でも、お常ちゃんが、どうして、中瀬に行ったのかわかんないんですよ」とお海が口をとがらせた。「しんさんていうのは何度か聞いた事あるんです。去年の暮れ頃かな、しんさんて言いながら、お常ちゃん、一人でニヤニヤしてたわ。しんさんて誰よって聞いても教えてくれないの。いつもなら教えてくれるのに、しんさんに限って教えてくれなかったんです」

「あたし、さっきから、ずっと考えてたんだけどね」とお菊が口を挟んだ。「島村の新八さんの事じゃないかしら」

「島村の新八?」

 久次郎はお常の兄、小五郎が書いてくれた紙を見たが、新八の名はなかった。

「信三じゃなくて、新八ってえのもいるのか」

「信三さんじゃないですよ」とお菊は首を振った。「信三さんにはおかみさんも子供もいるんですよ。お(めかけ)さんもいるって聞いたわ。信三さんは島村の親分さんと一緒によく境に来るけど、お常ちゃんもあまり話をした事ないんじゃない、ねえ」

「そうね」とお海がうなづいた。「島村の親分さんの子分たちもお常ちゃんに言い寄ってたけど、信三さんはそんな事なかったわ」

「そうか。それで、その新八ってえのは言い寄ってたのか」

「言い寄ってたってわけじゃないけど、信三さんよりは新八さんの方だと思うわ」

「あたしは違うと思う。だって、二、三度しか会ってないし、お常ちゃんが新八さんと二人だけでいるとこなんて見た事ないもの。それに、どうして、あたしたちに内緒にするの」

「だって、新八さんにもおかみさんがいるのよ。噂になって、おかみさんにばれるのを恐れたのかもしれないわ。それに渡世人(とせいにん)でしょ。親に反対されるんがわかってるから内緒にしてんじゃない」

「どんな奴なんだ」と久次郎はお菊とお海の顔を見ながら聞いた。

「平塚の先生の幼なじみなんですよ」とお菊が言った。「よく先生んちに来てたの。あたしたちが遊びに行った時も何回か会ったわ。お常ちゃん、こっそり、新八さんとできてんのかもしれない」

「そうかなア、信じられない」とお海は首をひねったが、「でも、中瀬でこっそり、会ってたのかしら」とお政を見ながら言った。

 お政はわからないという顔をして久次郎を見た。

「そいつも中瀬生まれなのか」と久次郎は聞いた。

「生まれは島村なんだけど、島村にはおかみさんがいるでしょ、だから、中瀬で会ってたんかもしれないですよ」

「島村の新八か‥‥‥」

 久次郎は新八の名を小五郎の書いた紙に書き加えた。

「どんな奴なんだ。背丈とか顔付きとかは」

「そうね、背が高くてね、渡世人の貫録っていうの、そういう感じです。顔付きはいい男っていうよりは、何ていうかな‥‥‥」

 お菊が悩んでいると、「しぶいって感じよ」とお海が助け舟を出し、「そうね、そんな感じね」とお菊は満足そうにうなづいた。

 二人が考えているしぶい感じというのが、どんなものなのか久次郎には見当もつかなかったが、会えばわかるだろうと、それ以上は聞かなかった。

「年はいくつなんだ」

「先生と同い年だって言ってたから、二十六じゃないかしら、ねえ」

 お海はうなづいた。「でも、やっぱり、あたしには信じられないわ。お常ちゃんがこっそり、新八さんといい仲だなんて」

「だって、他にしんさんなんていないじゃない。中瀬には万吉さんがいるけど、万吉さんをしんさんて呼ぶわけないし、万吉さんはお常ちゃんに振られてから、最近、顔を見せなくなったわ」

 万吉の事は秀吉から聞いていた。

 久次郎は紙切れをお菊とお海に見せて、一人づつ聞いてみた。

「音吉つぁんは去年、お常ちゃんが付き合ってた人。一度、朝帰りして大騒ぎになったけど、そん時、無理やり、親に別れさせられてからは、もう会ってないわ」

「善次さんは去年、お常ちゃんに振られたわ。最近はお美奈ちゃんとうまくやってるって聞いたわ、ねえ、お政ちゃん」

 黙って話を聞いていたお政は首を振ると、「お美奈ちゃんも振ったみたいよ」と言った。

「また振られたの、情けないわねえ。善次さんは落ち着きがないものね」

「次の与之助さんは隣の石屋の息子、ただの幼なじみですよ。与之さんはお常ちゃんが好きだけど、お常ちゃんは相手にしないわ」

「新六さんはしつこく付きまとってるわ。振られても振られても諦めないのよ。面白い人だから、お常ちゃんも適当に付き合ってるみたい。島村の親分さんが新六さんの事を中瀬のしんさんかもしれないって色々、聞いてたけど違ったみたい。その日、新六さんは木崎に行って遊んでたんですって」

「吉松つぁんはお常ちゃんちの職人さんでしょ。お常ちゃんが相手にしないわよ」

「勇吉つぁんはね、お海ちゃんのお兄さん。お常ちゃんが最初に付き合った人ですよ。もう二年も前の事。最近は全然関係ないわよ、ねえ」

「未練はあるみたいだけど、最近は全然、会ってなかったみたい」

「次の六郎さんはどうなのかしら」とお菊がお海に聞いた。

「島村の親分さんは六郎さんちには行かなかったわね。六郎さんもお常ちゃんが好きなのかもしれないけど、お常ちゃんから六郎さんの事はあまり聞かないわ」

「平塚の徳次さんもしつこく付きまとってるわね。でも、お常ちゃんは相手にしなかった。お金持ちだけど、お常ちゃんの好みじゃないのよ。かなりの遊び人みたいだし」

「どら息子ってえわけか」

「そう。仲間を引き連れて賭場にも顔を出してるはずですよ。伊勢屋さんにも行ってんじゃないの」お菊はそう言って、久次郎を見た。

 久次郎は首を振った。「(つら)を見りゃアわかるかもしれねえが、名前(なめえ)だけじゃわからねえ」

「百々一家の角次さんはね、去年まで、お常ちゃんが憧れてた人なんです。でも、直接、口をきいた事はないはずですよ。角次さんもお常ちゃんが好きだったって事、知らないんじゃない」

「秀吉つぁんは面白い人だけど、先月、振られたわね」

「島村一家の豊吉つぁんとは一度、あたしたちと一緒に大黒屋さんでご飯を食べたけど、それっきりよ」

「勘五さんも付きまとってたけど振られたんじゃない」

「テキ屋の藤次さんも振られた口ね」

「そうなると、今、お常が付き合ってる男はこん中にはいねえのか」

「表向きは平塚の先生に夢中なんですよ。もし、隠れて誰かと付き合ってるとすれば、それは島村の新八さんだと思うわ」

「先生に夢中か‥‥‥おっと、先生の本名は何ていうんだ」

「利助さんです。お師匠さんから貞の字をもらって、利助の利を付けたんですって」

「利助じゃ、しんさんじゃねえな」

「当たり前じゃない。先生がしんさんであるわけないわ」

「島村の親分は一応、ここに書いてある男たちから話を聞いたんだな」

「六郎さん以外は。でも、何もわからなかったんじゃない。みんな、ちゃんとうちにいたし、お常ちゃんと一緒だったら、うちにいるはずないでしょ」

「そうだな。この他に、お常に近づいて来た男はいねえのか」

「それはもう一杯いますよ。錦絵が出てから、お常ちゃんは有名人だもの。あっちこっちから、わざわざ、お常ちゃんを見に来てたわ。でも、そういう人たちは大抵、一目見ただけで帰って行くの。でも、何を考えてるかわからないけどね」

「そうだんべなア」

 お菊とお海と別れた後、久次郎はお政と一緒に、境宿に住む疑わしき男たちと会って話を聞いた。お政が一緒だったので、男たちもしぶしぶ、お常との関係を話してくれた。久次郎の見た所、お常を中瀬まで呼び出して密会し、その後、お常をどこかに隠して、しらばっくれて戻って来たような男はいないようだった。

 境宿と百々村の間にある萩原村の香具師(やし)、不流一家の藤次はその日、市の終わる昼過ぎまで露店を出していて、その後、江戸から来る清元の女太夫を迎えに平塚まで行き、夕方に帰って来ると一風呂あびて、上町の近江屋で一杯飲んで寝たという。湯屋と近江屋に聞いてみると藤次の言った事は本当だった。また、江戸から来た清元の女太夫がその晩、商人宿の井上屋で喉を披露して、境の旦那衆を喜ばせた事は久次郎も知っていた。

 伊三郎と問題を起こしたくなかったので、伊三郎の代貸(だいがし)、小島の彦六の子分、豊吉と同じく代貸、木島の助次郎の子分、勘五の二人とは会わなかった。もし、二人がお常をさらったとすれば、伊三郎が黙ってはいないだろう。素人衆の評判を気にしている伊三郎が必ず、お常を連れ戻すに違いなかった。

 一通り、疑わしき男たちの話を聞いた久次郎は境宿の大通りを東に向かっていた。残るは平塚の河岸(かし)問屋の伜、徳次郎だけだった。

「中瀬に行くんですか」とお政が聞いた。

「行かなきゃならねえだんべな。その前に、大黒屋のおとしに会わなきゃなんねえ」

「あっそうか、おとしちゃんを忘れてたわね」

 二人は下町の料理屋、大黒屋に向かった。

 丁度、昼時で客が何人かいたが、お政が呼ぶとおとしは手を上げてうなづいた。しばらくして、大黒様の描かれた薄紫色の前掛け姿のおとしがニコニコしながらやって来た。

「久し振りだな」と久次郎は笑った。

 おとしはキョトンとした顔をしていた。

「あら、知ってたの」お政が二人を見比べた。

「えっ、どなた。お政ちゃん、誰なの」

「わからねえか。四年前まで、ここの賭場にいたんだけどな」

「百々一家の人?」

 久次郎はうなづいた。「あの頃、おめえはまだ十四だった。随分と綺麗になったな」

「やだ、綺麗だなんて‥‥‥あっ、わかった、久次さんでしょ」

「やっと、思い出してくれたか」

「でも、どうして、久次さんがお政ちゃんと一緒なの」

「久次さんもね、お常ちゃんのお兄さんに頼まれて、お常ちゃんを捜してるのよ」

「そうだったんですか」

 おとしはお常と最後に会った時の様子を詳しく話してくれた。

 一昨日(おととい)の昼頃、お常は(ひな)祭りの時に着ていた晴れ着を着て、いそいそと出掛けて行ったという。大黒屋は例幣使街道と平塚へ向かう江戸道との角にあり、お常が丁度、曲がって来た時、おとしはばったり出会った。

「平塚の先生んちに行くの」とおとしが聞くと、お常は首を振って、「絶対内緒よ、中瀬のしんさんとこよ」と言った。

「えっ、誰なの」と聞くと、「いい人」と嬉しそうに笑って、急ぐように平塚の方に向かった。見るからに、いい人に会いに行くという感じだったという。

「荷物とかは持ってなかったんだな」

「ええ、いつもの小物入れだけでした。ああ、そうそう、おこそ頭巾(ずきん)も持ってました」

「中瀬のしんさんてえのは誰だかわからねえのか」

 おとしは首を振った。「あれから、ずっと考えてたんだけど、一体、誰なんだかわからないんですよ。最初、信三さんかなって思ったけど、あの人からお常ちゃんの事なんて聞いた事もないし、それに、あの日は市の日だったでしょ。昼過ぎになって、信三さんは島村の親分さんと一緒にここに来たんですよ。ここに来る人に会いにわざわざ、中瀬まで行くわけないでしょ」

「そうか、信三はここに来たのか‥‥‥」

「ええ、島村の親分さんは市の日には必ず、ここと桐屋に挨拶に来るんです」

「成程な。その事は当然、お常も知ってたはずだな」

「知ってます」

「となると信三の線は消えるな」

 久次郎は付き合ってくれたお礼にお昼を御馳走して、お政と別れた。

「何かわかったら知らせてくださいね」とお政は笑った。

「わかった」と久次郎は手を振った。






嗚呼美女六斬の創作ノート

1.登場人物一覧 2.境宿の図 3.「佐波伊勢崎史帖」より 4.「境町史」より 5.「境町織間本陣」より 6.岩鼻陣屋と関東取締出役 7.「江戸の犯罪と刑罰」より 8.「境町人物伝」より 9.国定一家 10.国定忠次の年表 11.日光の円蔵の略歴 12.島村の伊三郎の略歴 13.三ツ木の文蔵の略歴 14.保泉の久次郎の略歴 15.歌川貞利の略歴 16.歌川貞利の作品 17.艶本一覧




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