酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本善太夫

(2007年改訂版)

井野酔雲





飄雲庵




 あの男が草津にやって来た。

 あの男が来てから、(いくさ)が始まった。

 善太夫(ぜんだゆう)が十二歳の時だった。

 当時、まだ、善太夫とは名乗っていない。

 湯本次郎と呼ばれ、大叔父、成就院(じょうじゅいん)のもとで武芸の修行に励んでいた。

 天文(てんぶん)十一年(1542年)の夏の初めの事である。

 次郎がその男を見たのは、草津の入り口にある白根明神の境内であった。

 当時、白根神社は現在の運動茶屋公園から草津小学校にかけての一帯にあった。囲山(かこいやま)公園の地に移ったのは明治に入ってからの事である。

 広い境内には宿坊(しゅくぼう)がいくつも建ち並び、大勢の山伏(やまぶし)たちが修行に励んでいた。次郎の大叔父、成就院も白根明神に仕える山伏だった。

 次郎は武芸の師匠である円覚坊(えんがくぼう)という山伏を相手に剣術の稽古をしていた。

「エーイ!」と汗びっしょりの次郎は、円覚坊に向かって木剣を打った。

 円覚坊は簡単に次郎の木剣を避けると、「それまで」と言って、鳥居の方を眺めた。

 見慣れない武士が鳥居の下で馬を降りていた。

真田弾正忠(さなだだんじょうちゅう)じゃ」と円覚坊は言った。

 次郎には、その真田弾正忠という武士が何者なのか分からなかったが、弾正忠と一緒にいる鎌原筑前守(かんばらちくぜんのかみ)は知っていた。筑前守は次郎の伯父であった。

「おお、次郎坊か、大きゅうなったのう」と筑前守がニコニコしながら声を掛けて来た。

 そして、弾正忠に何事か言うと、今度は弾正忠が、「湯本殿の御子息か‥‥‥いい面構えをしておる」と低い声で言って、うなづいた。

 一体、何者だろう、と次郎は弾正忠の顔を見上げていた。

 年の頃は三十前後か、左の(ほお)に矢傷らしい傷が引きつっている。何度も戦に出た事のある顔付きだったが、優しそうな目をしていて、悪い人じゃなさそうだ。身なりは大した事ないが、伯父の態度からすると偉い人なのかもしれないと次郎は思った。

 弾正忠の後ろには二人の武士がいて、何が可笑しいのか、次郎の方を見て笑っていた。

 弾正忠は次郎から隣にいる円覚坊に目を移すと、「おぬし、こんな所におったのか」と驚いたような顔をして言った。

「はい、お久し振りで‥‥‥」円覚坊はニヤニヤしながら頭を下げた。

「確か、移香斎(いこうさい)殿を捜しておったようじゃったが、会う事はできたのか」と弾正忠は円覚坊に聞いた。

「ようやく、会えました。この地で飄雲庵(ひょううんあん)と名乗って住んでおりました」

「なに、移香斎殿が、この草津におるのか」弾正忠は目を丸くして、円覚坊を見つめた。

 円覚坊は首を振った。「もう四年程前にお亡くなりになりました」

「わしらも知らなかったんじゃよ」と筑前守は笑った。「飄雲庵と名乗る変わったお人が(いおり)を結んで住んでいるというのは知っておったがの、そのお人が、まさか、愛洲(あいす)移香斎殿じゃったとは、円覚坊がこの地に来て、初めて分かったんじゃ」

「そうじゃったか‥‥‥移香斎殿はお亡くなりになられたのか‥‥‥後で詳しく、話を聞かせてくれ。しばらく、ここでのんびりするつもりじゃ」

 そう言うと、弾正忠は筑前守と共に拝殿(はいでん)の方へと向かった。

「師匠、何者だ」と次郎は弾正忠の後ろ姿を見送りながら、円覚坊に聞いた。

「信州真田の領主じゃ。去年、領地を追われてのう、上州に逃げて来たんじゃよ」

「浪人か」

「まあ、今はそうじゃのう。だが、このまま、浪人で終わる男じゃない。顔を覚えておいて損のない男じゃ」

「そうか‥‥‥真田弾正忠だな‥‥‥」

 昨年の五月、信濃の国(長野県)小県郡(ちいさがたぐん)真田郷松尾城の城主だった真田弾正忠幸隆(ゆきたか)は、甲斐(山梨県)の武田信虎(のぶとら)(信玄の父)、信濃の豪族、村上義清、諏訪頼重、三氏の連合軍に攻められ、関東管領(かんれい)である上杉氏を頼って、上野(こうづけ)の国(群馬県)に逃げて来た。

 上野の国の吾妻郡(あがつまぐん)には真田氏と同族である鎌原(かんばら)氏、羽尾(はねお)氏、大戸(おおど)氏、そして、湯本氏らがいた。

 真田幸隆は管領上杉氏の重臣である箕輪(みのわ)城主長野信濃守業政(しなののかみなりまさ)と会い、業政と共に、平井(藤岡市)の城下に行き、管領上杉憲政(のりまさ)に助けを求めた。

 憲政は快く引き受け、その年の七月、村上義清を攻めるために信濃に出陣したが、はかばかしい戦果は得られなかった。

 幸隆は長野信濃守の城下箕輪(箕郷町)に一年近く滞在しながら、真田に復帰する機会を待っていたが、管領上杉氏に失望して箕輪を引き上げ、鎌原氏のもとに戻って来た。そして、鎌原筑前守に連れられて、草津の湯にやって来たのだった。

「弾正忠が移香斎と言ってたけど、そいつは何者なんだ」

 次郎は幸隆の後ろ姿を眺めながら、円覚坊に聞いた。

「わしの大師匠じゃ」と円覚坊は言った。「陰流(かげりゅう)という武術を編み出した偉いお人じゃ」

「師匠の大師匠という事は、相当に強かったんだな」

「わしなんか問題にならんわ‥‥‥想像もできん程の強さじゃ」

 円覚坊は遠くの山々を眺めながら、目を細めて言った。

「飄雲庵と言ってたんだな」

「そうじゃ。鬼ケ泉水(おにがせんすい)に庵を建てて、住んでおられたんじゃ」

「知ってる。お爺様の所によく来ていた」

「おお、そうじゃったのう」

「よく、お爺様と一緒にお茶を飲んだり、歌を詠んでいた」

「うむ。移香斎殿は飄雲庵と名乗ってからは、決して、剣を手にしなかった‥‥‥」

「なぜだ」

「分からん。移香斎殿は陰流の極意は『和』じゃ、とよく申しておった‥‥‥」

「和?」と次郎は首をかしげた。

「和じゃ‥‥‥陰流の極意は『和』じゃ」と円覚坊は力強く、うなづいた。

 次郎と円覚坊は再び、陰流の剣術の稽古を始めた。




 真田弾正忠幸隆は弟の矢沢薩摩守(さつまのかみ)祢津美濃守(ねづみののかみ)と一緒に一月程、草津の湯に浸かってのんびりと過ごし、鎌原へと帰って行った。

 滞在中、三人は何度か円覚坊のもとを訪れ、昔話や愛洲移香斎の話を楽しそうにしていた。次郎もその場にいて、皆の話を興味深そうに聞いていた。

 草津温泉は群馬県の北西、長野県との県境近くの山中にあり、強烈な硫黄(いおう)の臭いのするお湯が涌き出ている湯畑(ゆばたけ)を中心に昔から湯治場(とうじば)として栄えていた。標高が千二百メートル近くもあり、冬は雪に埋もれてしまうが、夏は涼しく、避暑を兼ねた湯治客が大勢訪れていた。

 奈良時代に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって発見され、鎌倉時代に源頼朝(みなもとのよりとも)によって再興されたと伝えられている。その時、頼朝から湯本の姓と草津の地を与えられたのが、湯本氏の始まりである。湯本氏は代々、草津の地を領してはいたが、湯本氏が草津に土着する以前より、草津とその一帯に勢力を持っていたのが白根明神及び、別当(べっとう)の光泉寺だった。

 当時、神社と寺院は一体と見なされ、多数の僧兵や山伏を抱えて、多くの荘園(領地)を支配していた。湯本氏は白根明神と対抗しながら、勢力を広げようとしていたが、容易な事ではなかった。ところが、南北朝(なんぼくちょう)の動乱の時、南朝方となった白根明神に対し、北朝方となった湯本氏は白根明神の荘園を次々と侵略して行った。南朝方として敗れた白根明神はかつての勢力を取り戻す事はできず、形勢は逆転して、戦国時代には草津の地は湯本氏の支配下となっていた。

 真田弾正忠幸隆が草津に来た当時、草津の領主は湯本下総守幸友(しもうさのかみゆきとも)だった。下総守の次男が本編の主人公、次郎である。

 次郎は小雨(こさめ)村(六合(くに)村)の湯本屋形(やかた)で生まれた。

 草津は冬、雪が多く、一年を通して住む事ができず、冬の間は山を下りて暮らしていた。

 これを『冬住み』という。

 毎年、四月八日の薬師(やくし)の縁日に山開きをして、十月八日の薬師の縁日に山を閉ざした。

 領主湯本氏の冬住みの屋敷は小雨村にあった。

 次郎の母親は下総守の正妻ではなかった。信濃善光寺の門前町から来た商人の娘だった。

 現代もそうだが、当時から善光寺と草津の湯はつながりがあり、善光寺参りの帰りには草津の湯に寄って行くというのが当たり前となっていた。当然、草津の者は善光寺にお参りに行くし、善光寺の者たちも草津に湯治に来ていた。

 その商人も隠居した後、孫娘を連れて草津に湯治にやって来た。その商人は湯本家にとってお得意様だったので、父、下総守は挨拶に訪れた。父は孫娘を一目見て惚れてしまい、側室(そくしつ)に迎えたのだった。

 側室の腹から生まれたため、次郎は湯宿(ゆやど)を経営している叔父、善太夫の養子になる事と決まっていた。叔父の善太夫もまた、祖父の側室の腹から生まれている。

 当時、湯宿の主人になるというのは、武士よりも格が低いと見られていた。

 湯宿の主人になるには御師(おし)という資格が必要だった。御師というのは御祈祷師(おきとうし)の事で、白根明神に所属する神人(じにん)となり、一通りの修行を積まなければならなかった。

 次郎は御師の資格を取るため、大叔父、成就院のもとで修行を積んでいた。

 湯本氏は草津を中心にして周辺の村々を領していたが、米はあまり取れなかった。湯本氏の収入のほとんどは、草津に来る湯治客に頼っていたといってもよかった。湯本氏を初め、家臣たちは皆、湯宿を経営していた。

 湯が涌き出て池となり、滝になって流れている湯池(ゆいけ)(湯畑)のある広小路(ひろこうじ)を中心として、湯宿は並んでいる。御座(ござ)の湯、綿(わた)の湯、脚気(かっけ)の湯、滝の湯と呼ばれる湯小屋が広小路内にあり、少し離れて、(わし)の湯、地蔵(じぞう)の湯がある。各湯宿には内湯(うちゆ)はなく、湯治客は皆、それらの湯小屋を利用した。

 善太夫の湯宿は広小路に面し、滝の湯の近くにあった。現在の大東館の辺りである。湯宿のうちでは最も格が高く、主に武将たちや豪商と呼ばれる商人、名の売れた芸人たちが利用した。文亀(ぶんき)二年(1502年)に有名な連歌師(れんがし)宗祇(そうぎ)宗長(そうちょう)が訪れた時、泊まったのも善太夫の宿だし、大永七年(1527年)に越後の守護代長尾為景(ながおためかげ)(上杉謙信の父)が泊まったのも善太夫の宿だった。

 広小路に面した一等地の半分は、湯本一族が押え、善太夫の湯宿の後ろの小高い丘の上に、領主である湯本下総守の屋形が誇らしげに建っていた。

 広小路の西南、御座の湯の先に石段があり、大きな山門をくぐって、さらに石段を上ると薬師堂がある。その南隣に光泉寺があった。現在の光泉寺の位置に薬師堂があり、町営駐車場の位置に光泉寺はあった。そして、光泉寺から白根明神(運動茶屋)へと参道が続いていた。

 次郎が初めて、草津に来たのは十歳の時だった。

 毎年、春になると大騒ぎをして、父親を初め、侍女(じじょ)や家臣たちが荷物を馬や車に乗せて、草津という所に行き、冬になるまで帰って来なかった。次郎も一緒に行きたいと何度も言ったが、連れて行ってもらえなかった。四つ年上の兄は連れて行ってもらえるのに、次郎はいつも、ひっそりと静まった小雨村の屋形で、母親と三つ年下の妹と一緒に留守番をしていた。

 十歳になって、初めて、草津に連れて来てもらったが、父親の屋形に入ったのではなく、大叔父のいる白根明神内の宿坊、成就院だった。成就院にて円覚坊という山伏を紹介され、円覚坊を師匠として、修行に励めと命じられたのだった。

 次郎はがっかりした。

 領主の子として生まれ、当然、武士として生きるものと思っていた。兄がいるため、領主にはなれないにしろ、兄を助けて、立派な武将になりたいと子供ながらも思っていた。それが、突然、湯宿、善太夫を継ぐために、山伏の修行をしろと言う。

 次郎はがっかりした。それでも、強くなれば、いくらでも戦で活躍できると円覚坊に言われ、武芸の修行だけは真剣にやっていた。




 次郎は五年間、成就院で修行に励み、十五歳の時、元服(げんぶく)して白根山に登り、地獄巡りを経験した。

 硫黄(いおう)が白煙を吹き上げて、半ば白骨化した動物の死骸があちこちに転がっている殺生(せっしょう)河原と呼ばれる所は、まさに地獄そのもののように不気味だった。次郎は夢中で真言(しんごん)を唱えながら、恐ろしい地獄を通り抜けた。山を下りると、遊女屋に連れて行かれ精進(しょうじん)落としをして、一人前の山伏となって瑞光坊(ずいこうぼう)を名乗った。

 瑞光坊となった次郎は成就院を出て、叔父、善太夫の営む湯宿に移った。五年間の修行で御師の資格も取り、これからは、湯宿の主人になるために、色々と修行を積まなければならなかった。

 初めのうちは、立派で豪華な湯宿が珍しかったのと、大勢いる使用人たちから若様、若様と持て(はや)されて、得意になっていたが、二月もすると、円覚坊と共に武芸の修行に励んでいた頃が懐かしくなって来た。

 こんな事をしていたら、本当に、湯宿の主人で終わってしまう‥‥‥

 もっと、強くならなければ‥‥‥

 叔父に話すと叔父は喜んで許してくれた。叔父もまだ三十一歳と若く、隠居する歳ではなかったので、瑞光坊の望みに任せて、さらに円覚坊のもとで修行をさせてくれたのだった。

 瑞光坊は円覚坊の住む飄雲庵(ひょううんあん)に移った。

 円覚坊の住む飄雲庵は、湯気を立ちのぼらせながら湯の川が流れ、硫黄の臭いが立ち込めて、半ば枯れ果てている樹木の立ち並ぶ中にあった。現在は泉水(せんすい)通りと呼ばれて土産物屋や飲食店が並び、大勢の観光客が行き交って栄えているが、当時は鬼ケ泉水と呼ばれて、人もあまり近づかない気味の悪い場所だった。そんな場所に好んで庵を結び、飄雲庵と号したのは愛洲移香斎だった。

 円覚坊は信濃の国、飯縄山(いいづなさん)の山伏だった。幼い頃から飯縄山で修行を積んで、栄山坊という山伏から陰流の武術を習った。飯縄山には若き日の真田幸隆も修行に来ていた。幸隆は円覚坊より二歳年上で、兄弟子という間柄だった。

 当時はまだ、武術を教える道場というものはなく、武術を習うには山伏たちが修行している修験(しゅげん)の山に入って修行を積む方法が取られていた。特に飯縄山は、愛洲移香斎の弟子であった八郎坊という山伏によって陰流の武術を教える山として有名になり、信濃の武士たちは競って修行するようになっていた。信濃の武士だけでなく、上野(こうづけ)の吾妻郡の武士たちも飯縄山に修行に行く者もあった。瑞光坊の伯父、鎌原筑前守もその一人で、飯縄山で修行を積んで、陰流の武術を身に付けていた。瑞光坊の父、下総守は筑前守から陰流を教わっていた。

 当時、武術の流派には、常陸(茨城県)の鹿島神宮と下総(千葉県)の香取神宮で生まれた神道流(しんとうりゅう)、鎌倉の禅僧、慈音(じおん)が編み出した念流(ねんりゅう)、そして、愛洲移香斎の編み出した陰流の三つがあった。

 神道流からは塚原卜伝(ぼくでん)が出て、新当流と名を改めて、諸国に広めた。

 念流は信州伊那(いな)谷に住んでいた樋口家に伝わり、樋口新左衛門が鎌原氏に呼ばれて上州吾妻郡小宿村にいた時、吾妻郡一帯に栄えた。しかし、鎌原筑前守が十歳の時、樋口新左衛門は管領(かんれい)上杉氏に仕えるために多野郡馬庭(まにわ)村に移ったために念流も下火となり、信州から上州吾妻郡一帯は陰流を学ぶ武士が多くなった。

 陰流を身に付けた武士にとって、流祖である愛洲移香斎という人は神にも等しい存在であった。

 真田幸隆は一年間の修行で山を下りたが、円覚坊はさらに陰流の極意を身に付けようと、栄山坊の師匠である禅明坊(ぜんみょうぼう)という老山伏からも指導を受けた。そして、陰流を編み出した愛洲移香斎が、まだ、生きている事を知り、是非、一度、お会いしたいと願い、移香斎を捜す旅に出た。噂を頼りに諸国を旅して回り、三年目にしてようやく、飄雲庵と名を変えて、草津に住んでいた移香斎を見付けた。

 八年前の事だった。

 移香斎は山の中のひなびた庵に住んでいた。まさに、円覚坊の想像した通りだった。しかし、円覚坊の想像を裏切って、志乃(しの)という女と一緒に暮らしていた。しかも、すでに、武術を捨てたという。

 円覚坊には信じられなかった。

「この地に来て、もう、二十年にもなりますが、一度も刀を手にした事はございません。自分の息子でさえ、武術を教えませんでした」と志乃は言った。

 移香斎と志乃の間には十九歳になる小七郎という子供がいたが、移香斎は自ら、陰流の武術を教えなかった。上泉(かみいずみ)(前橋市)に弟子である上泉伊勢守(いせのかみ)がいるので、そこに行って習えと言って、上泉にて修行をさせた。小七郎は伊勢守のもとで三年間、修行を積み、今は武者修行の旅に出ているという。

 移香斎が帰って来たのは日暮れ近くだった。

 その姿は円覚坊が想像していたのとはまったく違っていた。

 円覚坊は仙人のような移香斎を想像していたが、実際の移香斎は真っ黒に日焼けして、粗末な野良着を身に付け、どう見ても百姓の親爺だった。とても、武術の達人には見えない。もう八十歳はとうに越えているはずだが、とても、そんな歳にも見えなかった。

 円覚坊は、移香斎とは四十も年の違う妻、志乃に言われた通り、移香斎の事を飄雲庵殿と呼び、武術の教えを請う事はしなかった。共に酒を飲み、おとなしく移香斎の話を聞いていた。移香斎は機嫌よく、昔話をしてくれたが、武術に関する話はまったくしなかった。

 愛洲移香斎‥‥‥陰流(かげりゅう)と呼ばれる武術を編み出した兵法(ひょうほう)の達人であった。陰流は剣術、槍術、棒術、薙刀(なぎなた)術を含む総合武術である。武術でありながら、移香斎の考えによって、陰流は武士よりも武士以外の者たちの間に広まって行った。移香斎が以前、山伏だったため、彼の弟子たちによって山伏たちの間に広まった。関西では本願寺の門徒たちの間に広まり、武士たちを相手に戦っていた。また、陰流には陰の術と呼ばれる忍びの術もあった。小田原北条氏の忍び集団、風摩(ふうま)党は陰流の忍びの術を身に付けていた。

 移香斎の弟子、八郎坊が信州飯縄山に来て、修行者たちに陰流を教えたため、信州にも陰流は広まった。海野氏、真田氏、同じ一族である上州の鎌原氏、西窪氏、そして、草津の領主、湯本下総守も陰流を身に付けていた。

 移香斎の最後の弟子となったのが、上州上泉城主の上泉伊勢守だった。移香斎は伊勢守の才能を見抜いて、自分が身に付けた、すべての技を伊勢守に授けた。そして、自らは武術を捨てて草津に隠棲(いんせい)したのだった。草津に来た時、移香斎は自分の名を隠し、飄雲庵と名乗って、医術者として暮らしていた。

 円覚坊はその晩、飄雲庵に泊まり、次の日、移香斎に誘われるままにお供をした。

 もしかしたら、ひそかに、陰流の極意でも教えてくれるのかと期待して付いて行ったが、行った所は、御座の湯の近く、賑やかな表通りの裏にある薄汚い一画だった。

 粗末な小屋がいくつも建ち並び、癩病(らいびょう)(わずら)った乞食(こじき)たちが群がっていた。

 癩病は十九世紀になってハンセン氏によって癩菌が発見されて以後、治療可能な病気となったが、それまでは不治の病とされていた。癩菌によって神経が冒され、雑菌に対する抵抗力がなくなり、皮膚がただれ、眉やまつ毛が落ち、目は霞み、鼻が崩れ、手足が腐敗してもげたりする病気で、前世の天罰によるものと考えられていた。草津の湯は殺菌作用が強く、すべての雑菌を殺してしまうので、癩病には効果があった。

 癩病を患った者は非人と呼ばれて(さげす)まれ、村を追い出されて乞食となり、神社や寺院の軒下に隠れて、ひっそりと生きて行くしかなかった。そんな癩病患者にも頼るべき神があった。

 紀州(和歌山県)の熊野権現(ごんげん)である。熊野本宮の近くにある湯の峰温泉は癩病に効くと言われ、村を追われた患者たちは、一般の者たちの通らない山中の細い道を通って熊野へと旅立って行った。

 関東において、熊野権現に相当したのが、白根明神だった。

 白根明神は薬師如来(やくしにょらい)の化身とされ、白根明神に祈願(きがん)して、草津の湯に浸かれば癩病も治ると信じられていた。古くから、草津には癩病患者が集まるようになり、裏通りに粗末な小屋を立てて病気の治療に励んでいた。励んでいたと言っても、乞食同然の暮らしをしていたため、傷口を清潔にしておく事もできず、他の病に罹る者も多かった。そこで、移香斎は彼らの中に入って行って、彼らの治療を手伝っていたのだった。

 志乃の弟、黒岩弥太郎が移香斎の医術の弟子となって、移香斎を手伝っていた。しかし、円覚坊は弥太郎のように移香斎を手伝う事はできなかった。

 円覚坊は武術を捨てた移香斎のもとに一年余りいた。飄雲庵の隣に庵を結んで、移香斎と共に暮らした。いつの日か、陰流の極意を移香斎から教わろうと願っていたが、ついに、その願いはかなえられなかった。

 移香斎は毎日、癩病者の治療に励み、円覚坊が来てから一年程経った頃、突然、亡くなった。自分の死期が分かっていたかのごとく、安らかに冥土(めいど)に旅立って行った。

 陰流の極意を得る事のできなかった失望から、移香斎の死後、円覚坊は草津を離れた。

 当てのない旅を重ねていても、一年間、共に暮らした移香斎の事は忘れられなかった。

 陰流の極意、それは、武術の技、人を殺す技術ではなく、人を生かす術なのではないのだろうか‥‥‥と思うようになって行った。

 移香斎が亡くなる前の一年間は、まさに、それを実践していたようだった。あの時の円覚坊はとても癩病者の中に入って行く事はできなかったが、移香斎は平気で入って行って癩病者の傷口を綺麗に洗って治療し、しかも、彼らと同じ物を食べていた。

 あれが、陰流の極意なのかもしれないと考えた円覚坊は、一年後、再び草津に訪れ、住む者もなく荒れ果てていた飄雲庵を再建して、そこに住み始めた。

 移香斎の妻、志乃は移香斎の死後、中居村(嬬恋村三原)の実家に帰っていた。志乃の弟、弥太郎は移香斎の跡を継いで、癩病者の治療を続けていた。

 円覚坊も移香斎の真似をして、武術を捨て、癩病者の治療を行なおうと思ったが、実行に移す事はできなかった。円覚坊は移香斎のように薬草に関する知識に詳しくなかった。かと言って、弥太郎の弟子となって、弥太郎から教わろうとは思わなかった。円覚坊も若く、たった五歳しか違わない弥太郎に頭を下げる事はできなかった。

 円覚坊は白根明神に行って、薬草に詳しい山伏から教えを請おうと考えた。そこで出会ったのが、瑞光坊の大叔父、成就院だった。

 成就院は当然、移香斎を知っていた。移香斎を知っていたというより、飄雲庵という医術者を知っていたという方が正しい。成就院も飄雲庵から医術に関して教えを受けていたという。

 円覚坊は成就院から医術を学び、そして、武術の腕を見込まれて、瑞光坊の武術師範(しはん)に選ばれたのだった。

 瑞光坊は、かつて、愛洲移香斎が暮らしていた飄雲庵に移り、円覚坊と共に暮らして、陰流の腕を磨いて行った。






草津温泉、湯畑




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