酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本善太夫

(2007年改訂版)

井野酔雲





長尾景虎




 真田一徳斎(いっとくさい)が来た次の月には、国峰(くにみね)城(甘楽町)の小幡尾張守(おばたおわりのかみ)が家臣たちを引き連れて、草津にやって来た。

 尾張守の長男、右衛門尉(うえもんのじょう)は箕輪の長野信濃守の娘婿になっていたが、東からは北条氏、西からは武田氏と二大勢力に挟まれて、このままでは領地を失う不安にかられていた。こんな時期、湯治(とうじ)を思い立ったのは、同じ信濃守の娘婿となっている大戸(おおど)氏、羽尾(はねお)氏の腹の内を探って、今後の対策を練るためだった。彼らが信濃守と共に、武田、北条と戦う覚悟でいれば、自分も命を懸けよう、しかし、彼らの覚悟が中途半端なら、武田の軍門に下ろうと決心をした旅だった。

 大戸氏、羽尾氏と会って、彼らの覚悟を知った尾張守は決心を新たにして草津を訪れた。その時の尾張守は迷い一つないさっぱりとした顔付きだった。

「草津の湯に浸かって鋭気を養い、北条の奴らを片っ端から、なぎ倒してくれるわ」と尾張守は張り切っていた。

 善太夫の湯宿の奥座敷に泊まり、日夜、遊女を呼んで豪遊していた尾張守は、一瞬にして転落した。留守にしていた国峰城が同族の小幡図書助(ずしょのすけ)に奪われてしまったのだった。

 小幡図書助もまた、信濃守の娘婿だった。図書助の後ろに信濃守がいる事を悟った尾張守は武田の軍門に下る決心を固めた。

 尾張守から相談を受けた善太夫は、尾張守を鎌原宮内少輔(かんばらくないしょうゆう)のもとに送った。尾張守は国峰城を奪い返すため、甲斐の国まで行って武田信玄を頼った。

 八月の末、側室の小茶が子供を産んだ。今度こそ、男の子だろうと楽しみにしていたのに、またしても女の子だった。善太夫の次女は秋に生まれたので、アキと名付けられた。

 アキの誕生を祝っていた時、上野(こうづけ)の国中が震える程の大事件が起こった。

 越後の長尾景虎(かげとら)が大軍を率いて上野に進攻して来たのだった。その中には当然のように、管領(かんれい)の上杉憲政の姿があった。

 越後の大軍は怒涛(どとう)の勢いで、北条氏の前線だった沼田の倉内城を攻め落とし、九月の末には廐橋(うまやばし)城(前橋市)も落として、そこに本陣を敷いた。以前、管領の配下だった武将たちが続々と廐橋に集まって来た。

 白井(しろい)城(子持村)の長尾左衛門尉、蒼海(おうみ)城(元総社町)の長尾能登守、勧農(かんのう)城(足利市)の長尾但馬守、箕輪城の長野信濃守を初めとして、吾妻の武士たちも皆、景虎の前に伺候(しこう)した。善太夫も勿論、景虎の軍門に下った。昨日まで北条方だった者までも平然とした顔で集まって来ていた。ただ、その中に、上泉伊勢守の顔がなかった。

 白井の長尾氏の被官となっていた伊勢守の弟が伊勢守を名乗って、上泉城主として廐橋にやって来ていた。誰もが不思議がり、伊勢守の弟から理由を聞いたが、伊勢守が病に倒れて、急遽(きゅうきょ)、隠居する事となったと聞かされただけだった。

 善太夫は心配になって上泉城に向かった。

 伊勢守はいなかった。伊勢守だけでなく、家族は勿論の事、伊勢守の門弟たちも誰もいなかった。伊勢守の家臣の何人かは残っていたが、伊勢守がどこに行ったのか、教えてはくれなかった。善太夫は円覚坊に伊勢守の行方を捜してくれと頼んだ。

 上泉伊勢守はどこかに消えてしまったが、上野の国は皆、長尾景虎の支配下に入った。

 善太夫は以前、円覚坊と一緒に越後を旅した時、長尾景虎を見た事があった。もう、十年以上も前の事である。

 当時、景虎は越後国内を平定するために躍起(やっき)になっていた。善太夫よりも一つ年上なだけだったが、越後の国を一つにまとめようと一生懸命だった。まさか、あの景虎が関東を平定するために管領と共に出撃して来ようとは、当時、思いもよらない事だった。

 十二年振りに見た景虎は三十一歳になり、大軍を率いる大将にふさわしい威厳ある武将になっていた。善太夫は景虎の前に伺候した時、景虎の大きさに圧倒された。

 この時、善太夫はこの男なら信じられる。この男なら従ってもいいと心から思った。

 善太夫ら吾妻の武士たちは、新たに岩下衆として編成され、旗頭(はたがしら)岩櫃(いわびつ)城の斎藤越前守と決められた。以前は吾妻の武士たちは箕輪衆として長野信濃守に従っていたが、信濃守とは切り放される格好となった。

 上野の武士たちは皆、長尾氏の幕下(ばっか)として新たに編成された。景虎が廐橋城にて(にら)みをきかし、上野の国もこれで安泰だと誰もが感じていた。

 草津の冬住みが始まり、雪の散らつく十一月の事だった。

 鎌原宮内少輔が突然、何者かに襲撃された。善太夫はすぐに宮内少輔を助けるために出陣した。宮内少輔を攻めたのは斎藤越前守と羽尾道雲だった。宮内少輔が武田方と通じたため成敗するとの名目だった。善太夫は手を引けと言われたが、浦野下野守(しもつけのかみ)横谷左近(よこやさこん)らと共に宮内少輔の味方をした。

 善太夫は斎藤越前守が好きではなかった。今回、岩下衆となって越前守を旗頭にせよと命じられたが、元々、越前守とは同等の立場にあった。部下でもないのに命令口調で威張り散らす越前守に反感を持つ者は多かった。さらに今回の不意打ちは卑怯(ひきょう)なやり方だった。

 越前守の襲撃は失敗に終わり、長野信濃守が送った大戸真楽斎(しんらくさい)の仲裁によって、とりあえず和睦となった。

 越前守らが引き上げた後、宮内少輔は苦笑しながら、「まずかったのう」と善太夫に言った。「予想外な事じゃった」

「突然の襲撃でしたからね」と善太夫は言った。

「いや」と宮内少輔は首を振った。「今回の事じゃない。長尾弾正(だんじょう)(景虎)の事じゃ。こんなにも早くやって来るとは思ってもいなかったわ」

「簡単に上野を平定しましたね」

「とりあえずはな。弾正が廐橋にいるうちは弾正の天下じゃ。しかし、いつまでも、廐橋に腰を据えているわけにも行くまい。弾正が越後に帰れば、また、北条氏は攻めて来るし、武田信玄殿も攻めて来る」

「確かに」と善太夫はうなづいた。

「善太夫、よく考えてみよ。弾正は三国峠を越えて上野に入り、沼田を落として廐橋を本陣とした。次にどこに行く」

「平井では?」

「多分のう。それで次は?」

「河越か」

「うむ、河越にいる北条の兵を追い出すじゃろう。弾正がこの吾妻(あがつま)郡に来ると思うか」

「いえ。敵対しなければ来る事はないでしょう」

「じゃろうな。ところで、北条はどうじゃ。北条は河越から平井を攻め、廐橋を手に入れて、沼田も落とした。北条は吾妻郡に来るか」

「いえ」

「うむ、奴らは吾妻郡には来ない。さて、武田はどうじゃ」

 善太夫は宮内少輔の顔を見つめ、「武田軍はここ、吾妻郡を通って廐橋に出ると言うのですか」と聞いた。

「信玄殿はのう、三年前、碓氷(うすい)峠を越えて上野に進撃した。しかし、長野信濃守殿にさえぎられた。信玄殿は信濃守殿を手ごわい相手じゃと見ておられる。信濃守殿がいる限り、碓氷峠は抜けられまいと思っておられるんじゃ。となると、上野に入るにはこの吾妻郡を通って行くしかないんじゃよ」

「ここを武田の大軍が通って行くというのですか」

 宮内少輔はうなづいた。「弾正と同じように怒涛の勢いで通って行くじゃろう。邪魔する者は容赦なしじゃ」

「宮内少輔殿、武田軍はいつ、攻めて来るのです。御存じなんでしょう」

「来年じゃ」

「来年‥‥‥それは確かなのですか」

「確かじゃ。来年の雪溶けを待って、越中の一向一揆が越後に攻め入る。弾正は越後に帰らなくてはならなくなる。弾正が帰った後、一徳斎殿の率いる武田の兵が鳥居峠を越えて吾妻郡に攻め込む。弾正が戻って来ないように、信玄殿は川中島に出撃する。弾正は迷わず、川中島に出て来るはずじゃ。弾正を川中島に釘付けにしておいて、吾妻郡を平定するという手筈(てはず)じゃ」

 善太夫は驚いた。

 戦の規模が余りにも大きすぎた。善太夫には想像もできない程、信玄という男は大きな視野に立って物を考えていた。きっと、信玄だけでなく、長尾景虎も北条氏康もその位の規模の事を考えているに違いなかった。その三人にとっては、管領のいなくなった上野の国は、持主のいない土地のようなもので、早い者勝ちで奪い取れる国なのかもしれなかった。すでに、善太夫がどうこうできる状況にはなかった。強い者に従って行くより生きて行く道はないという事をまざまざと知らされたような気がした。

「心配するな」と宮内少輔は言った。「わしに任せろ。わしが一徳斎殿にうまく取り持ってやるわ」

「お願いします」としか善太夫には答えられなかった。




 長尾景虎は廐橋城で年を越した。

 正月には関東中の武将たちが先を争って新年の挨拶に殺到した。

 善太夫も岩下衆と共に廐橋まで行って、景虎に祝いを述べた。

 二月になると、いよいよ北条氏征伐(せいばつ)のための陣触れが回った。

 善太夫は留守を義兄の湯本次郎右衛門に頼み、兵を率いて出陣した。

 十万近くに膨れ上がった大軍が関東平野を南下して行った。

 北条方の城はおとなしく籠城(ろうじょう)するよりほか、なす(すべ)がなかった。しかし、大軍はそんな支城には脇目も振らずに、本拠地の小田原へと向かった。

 善太夫ら岩下衆は、また箕輪の長野信濃守の指揮下に入る事となった。

 善太夫は鎌原宮内少輔の(せがれ)筑前守(ちくぜんのかみ)と馬を並べながら行軍した。

「親父は武田方となったが、俺は長尾弾正(景虎)殿に付いて行く。これだけの大軍に攻められたら、いくら武田信玄といえども勝てるまい。親父は早まった事をしたもんじゃ。今回、北条を倒したら、親父には隠居してもらうつもりだ」

 筑前守は張り切って、善太夫に話していた。

 善太夫は筑前守にうなづきながらも、賛成はしかねていた。河越の合戦の時、善太夫はやはり、これだけの大軍を見ていた。数は多いが、所詮(しょせん)烏合(うごう)の衆に過ぎない。あの時と同じように不意打ちを食らえば、あっという間にバラバラになってしまう弱みを持っていると思った。

 景虎は二月の末に鎌倉を占拠してから小田原を目指した。

 小田原城に近づくと周辺の民家をことごとく焼き払い、その勢いのまま小田原城に総攻撃をかけた。しかし、城中からは一兵も出て来なかった。

 十万の大軍は小田原城を完全に包囲して、攻撃を仕掛けたが無駄だった。北条氏は堅く城を守るだけで、挑発に乗って飛び出して来る事はなかった。そして、夜になると闇に隠れて関東軍の陣地を荒らし回り、さっさと引き上げて行った。

風摩党(ふうまとう)の仕業じゃ」と善太夫と共に来ていた円覚坊が言った。

「北条の乱波(らっぱ)か」と善太夫は聞いた。

「そうじゃ。奴らは陰流(かげりゅう)の忍び集団じゃ」

「陰流を使うのか」

「首領の名を風摩小太郎といい、今は四代目のはずじゃ。二代目の小太郎は愛洲移香斎殿の(まな)弟子であり、娘婿だった男じゃ。当然、三代目の小太郎は移香斎殿のお孫さんじゃな。風摩党のすべてが、移香斎殿の弟子という事じゃ。風摩党とはやり合いたくはないのう」

「という事は河越合戦の時も風摩党が陰で活躍したのか」

「そうじゃよ。風摩党はただの乱波とは違う。武田の乱波や越後の乱波は雇われた忍びじゃ。情報集めには使うが、裏切りを恐れて戦に使う事は少ない。風摩党は忍びというよりは陰の武士と言った方が正しい。決して表には出ないが、恐ろしい集団じゃ。伊賀や甲賀の忍びでさえ、風摩党には近づかないというからのう」

 景虎の包囲戦は一月近く続いたが、小田原城はびくともしなかった。長期戦になれば甲斐の武田が動き出して、不利になると察した景虎は兵をまとめて鎌倉に引き下がった。

 (うるう)三月十六日、鶴岡八幡宮にて景虎の関東管領就任式が行なわれた。

 景虎は前管領上杉憲政から上杉姓と『政』の字を贈られ、これより関東管領上杉政虎と名乗りを改めた。

 五月の末、廐橋に戻った政虎は、廐橋城の守りを河田伯耆守(ほうきのかみ)に命じて、六月の末、越後に帰って行った。

 政虎が廐橋城を発った頃、箕輪城では城主、長野信濃守業政(なりまさ)が亡くなっていた。

 信濃守は小田原に出陣する以前から体調を崩していた。しかし、嫡男(ちゃくなん)である右京進(うきょうのしん)はまだ十六歳だった。連合軍を率いる大将の任は右京進には重すぎると、無理をして出陣したのがたたったのだった。箕輪城に帰ると気が緩んだのか、突然倒れ、そのまま、起きる事はできなかった。

「わしの死はしばらくの間、隠しておけ。そして、管領になられた上杉政虎殿を助けて、上野の国を敵から守るんじゃ。いいな」と信濃守は右京進に遺言を残すと、無念そうに息を引き取った。

 政虎が越後に帰るのを、今か今かと待っていたのは鎌原宮内少輔だった。伜を政虎のもとに送り、おとなしくしていた宮内少輔は政虎が消えると同時に行動を開始した。

 宮内少輔は従弟(いとこ)横谷左近(よこやさこん)を通じて左近の妹婿である富沢新十郎に近づいた。

 新十郎は斎藤越前守の家老だった富沢但馬守(たじまのかみ)の長男である。但馬守が戦で負傷して隠居した時、家老職は当然、自分が継ぐものと思っていた。ところが、家老職を従兄(いとこ)伊予守(いよのかみ)に奪われてしまい、越前守に不満を持っていた。

 宮内少輔は新十郎から、やはり越前守に不満を持っている越前守の(おい)、弥三郎を紹介してもらい、彼らに自分の胸のうちを打ち明けた。思っていた通り、二人は岩櫃城攻略の話に乗って来た。うまく行けば、弥三郎は城主、新十郎は家老という事で話はまとまった。

 準備が整うと宮内少輔は家臣の黒岩伊賀守を信州松尾城(真田町)の真田一徳斎のもとに送った。伊賀守が一徳斎から返事を持って帰って来ると、伜の筑前守を説得して、一徳斎のもとに送った。

 一徳斎が小諸(こもろ)城主の甘利左衛門尉(あまりさえもんのじょう)と共に三千の兵を率いて、鳥居峠を越えて来たのは八月に入ってからだった。

 宮内少輔は得意顔で案内役として先頭を進んだ。

 善太夫も宮内少輔から連絡を受けると直ちに家臣を引き連れて、一徳斎の旗下に入った。

 羽尾城の羽尾道雲、長野原城の海野長門守も武田の大軍の前に、なす術もなく軍門に下った。(がん)ケ沢城(吾妻町松谷)の横谷左近、三島城の浦野下野守、大戸城の大戸真楽斎ら皆、上杉方から武田方に寝返り、一徳斎の旗下に加わって岩櫃城を包囲した。

 宮内少輔は岩櫃城内にいる斎藤弥三郎、富沢新十郎らとひそかに連絡を取り、一気に斎藤越前守を倒すつもりでいたが、あっけなく、越前守は善導寺(ぜんどうじ)の住職を仲に立てて降参してしまった。

 越前守は武田信玄には何の恨みもないので刃向かうつもりは毛頭(もうとう)ないと頭を丸め、一岩斎(いちがんさい)と称して、一徳斎に頭を下げた。芝居じみた降参だったが、一徳斎は承知して、人質を取っただけで兵を引き上げた。

 越前守が頭を丸めたのは一徳斎に対して詫びるためではなかった。越後の上杉政虎に詫びたのだった。越前守は武田の軍門に下ろうとは全然思ってもいない。しかし、この場は降参する以外、勝てる見込みはなかった。政虎が武田軍に降参した事について、何か言って来た場合の逃げ道として頭を丸めたのだった。隠居した自分が仕方なく降参したが、斎藤家を継いだ伜は飽くまでも、政虎に忠実であると思わせるための芝居だった。

 当然、一徳斎も越前守の心は読んでいた。しかし、一徳斎の方でも、険しい岩山の中にある岩櫃城を落とすのは容易ではないと考え直し、もう一度、出直した方がよさそうだと思っていた。一徳斎は越前守の言い分を認め、とりあえず和睦したのだった。

 善太夫は兵を率いて信濃に帰る一徳斎を見送りながら、去年、草津に来て、帰る時に言った言葉を思い出していた。

「また来る」と一徳斎は笑いながら言った。あれは、今度来る時は大軍を率いて来るという意味だったのだと、ようやく気づいた。

「わしの思った通りになったじゃろう」と宮内少輔は言った。「今、管領殿(上杉政虎)は川中島で信玄殿と合戦中じゃろう。関東遠征の後じゃ、兵も疲れている。もしかしたら、信玄殿に敗れるかもしれん。決着が着かなかったとしても、今年の冬は関東に出て来る事はあるまい」

 宮内少輔は得意そうに笑った。「おぬしの事は一徳斎殿によく言っておいた。これからは武田の被官(ひかん)として励む事じゃ」

 善太夫の背中をたたくと、大笑いしながら宮内少輔は武田の兵の後を追って行った。

 宮内少輔を見送りながら、「このままでは済むまい」と円覚坊が言った。「吾妻郡が武田方となったと知れば、管領殿も黙ってはいまい」

 善太夫は厳しい顔付きでうなづいた。「それに、斎藤越前守も黙ってはいないでしょう」

「うむ。箕輪の信濃守殿が亡くなったらしいからのう。越前守も信濃守には頭が上がらなかった。その信濃守がいなくなったとなると越前守も欲を出す。管領殿のもとで西上州を支配しようと考えているかも知れんのう」

「岩櫃の動きを探った方がよさそうですね」

 円覚坊はうなづき、「鎌原もな」と付け足した。

 善太夫はうなづくと馬にまたがり、草津へと登った。







小田原城跡


岩城城跡




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