酔雲庵


酔中花

井野酔雲








 山の頂上の岩の上に座って、眼下に見える村々をスケッチしている久美子。

 紅葉の山々に囲まれた小さな村。

 田畑で働いている村人たち。

 走り回って遊んでいる子供たち。

 トンビが頭上で輪を描いた。




酔中画3-E009







 回りの景色を眺めながら久美子は歩いている。

 朽ち果てた山寺が見えて来る。

 寺に向かって歩く久美子。

 かなり古い寺らしい。寺の回りを一回りしてみる。草ぼうぼうで、あちこちに石塔のような物が倒れている。小さな山寺に似合わず、彫刻はかなり立派だった。古いので、あちこち破損しているが、それでも正面の龍と虎は大した物だと久美子は感心している。

 足元に注意しながら、久美子は階段を昇り、中を覗いてみる。

 中は薄暗い。目を慣らして、一歩、中に入ろうとした時、「誰じゃ!」と中から声がした。

「キャー」とびっくりして久美子は下に降りた。

「誰じゃ? わしの昼寝の邪魔をするのは」

 薄汚れた着物を着た太った老人がニコニコしながら、片手に一升どっくりをぶら下げて出て来た。ラーラである。ラーラが久美子と遊ぼうと思って、まぬけな仙人に化けている。

 久美子は唖然として老人を見つめている。

「わしに何か用かな?」と老人は言った。

「‥‥‥いえ、あの、あなたは?」

「わしはこの寺の和尚じゃ」

「‥‥‥」

「もっとも、わしがここにいる事なぞ、みんな忘れてしまったようじゃ。ここに人が訪ねて来るなんて何十年振りかのう」

「はっはっは」と笑いながら和尚は座り込んで酒を飲んだ。「あんたも飲むかね?」

「いいえ‥‥‥ほんとに、このお寺に住んでいらっしゃるんですか?」

 久美子は和尚と山寺を比べてみる。いかにも、この山寺にこの和尚ありという感じでおかしかった。

「そうじゃよ。まだ、雨漏りはせんよ。これだって建てた当時は立派な寺だったんじゃ。真っ白なお寺でな‥‥‥おぼこ娘のように、そりゃあ綺麗なもんじゃった。もう何百年も昔の事じゃがの」

「そうですか‥‥‥」

 酒をうまそうに飲み、ゲップをする和尚。

 顔をしかめる久美子。

「あんたはなぜ、こんな山に来たんじゃ?」

「絵の勉強です」

「絵、くだらん」

「酔雲ていう絵画きさん、知りませんか? このちょっと下に住んでるらしいんですけど」

「さあな、人間には興味ないから知らんな」

「そうですか」

「人間は馬鹿じゃよ。いつになっても同じ事ばかりやっている。わしも初めの頃は興味あったが、もう飽きた。くだらんよ」

「和尚さんだって人間でしょ」

「はっはっは、わしゃ仙人じゃ。人間どもが発生する前から、わしはいる。色んな人間を見て来たがくだらんね。つまらん奴ばかりじゃ。最近じゃあ、もう見る気もせん」

「酔っ払い和尚め、馬鹿らしい」と久美子はつぶやく。

 馬鹿の相手はしてられないと久美子は和尚に背を向けた。

「これ、待ちなさい。わしを信じとらんな」

 信じられるわけないでしょと久美子は去ろうとする。

「久美子、これ待て!」

 久美子、立ち止まって振り向く。

「どうして、あたしの名前、知ってんのよ」

「わしゃ、仙人じゃ。何でも知っとる。まあ、ここに来て座れ」

 久美子、戻って来て仙人の前に立つ。

「お前は最近、絵で賞を取った。みんなから褒められ、お前は自惚れていた。そんな時、酔雲の絵を見た。そして、お前はこの山に来た。わしは酒を飲みながら、お前が来るのを待っていたんじゃ」

「どうして、あたしを待っていたんです?」

「気まぐれじゃよ。そんな所に立ってないで、まあ、座んなさい」

 久美子は仙人の顔を不思議そうに見ながら隣に座った。

「酔雲は今、旅の空じゃよ。当分、帰って来んじゃろ。どうするね、帰るかね?」

「いえ、しばらく、いるつもりです」

「そうか。山の中でのんびりするのもいいじゃろう。まあ、一杯いこう」

 仙人はどこからか茶碗を取り出して久美子に渡した。そして、久美子の茶碗と自分のに酒を注ぎ、うまそうに飲んだ。久美子も飲む。

「うまい!」

「そうじゃろ。わしの一番の楽しみじゃ」




一升とっくり







 寝そべって肘枕で酒を飲んでいる仙人。

 あぐらをかいて自分の茶碗に酒を注いでいる久美子。

 御本尊らしい小さな木でできた観音様が笑っている。

「天下泰平じゃのう」

「ねえ、仙人の爺さん、あんた、仙人なら何でもできるんでしょ」

「ああ、できない事はない」

「ならさ、あたし、お爺ちゃんのお父さんに会いたいのよ」

「くだらん。そんな者に会ってどうすんじゃ」

「お爺ちゃんに聞いたんだけど、偉い絵画きさんだったのよ。どんな絵を描いたか知りたいの」

「無駄じゃな」

「あたしは会いたいの」

「会ったってしょうがない」

「お酒、終わっちゃったよ」

「酒ならいくらでもある」

「どこに?」

「そこに」

「これは今、からになったの」

「たっぷり入ってるさ」

「からだってば、ほら」と久美子はとっくりを手に取る。「あら、入ってるわ‥‥‥まるで、魔法使いみたい」

「わしゃ仙人じゃ。わしにもくれ」

 二つの茶碗に酒を注ぐ久美子。

「ねえ、会わせてよ」

「誰に?」

「お爺ちゃんのお父さんよ」

「無駄だ」

「そんな事言って酔っ払う事しかできないんでしょ。嘘つきのくそ坊主」

「うるさいな。それより、お前が本当に会いたいのは恋人だろ? 喧嘩したまま飛び出して来て、それでいいのか? 今、ここに呼んでやるぞ」

「あんな奴、どうでもいいのよ。あんなわからず屋、ほっとけばいいの」

「やせ我慢するな、会いたいくせに。呼んでやるから、たっぷりとちちくり合え。お前が男に抱かれてハーハーヒーヒーやるのを見ながら酒を飲んだら、さぞ、うまいじゃろう」

「黙れ、すけべ爺い」

「何がすけべだ。女が男に抱かれるのは当たり前の事じゃ」

「ふん、この酔っ払いが‥‥‥あたしの願い、聞いてくれなくちゃ、もうお酒やらないよ」

 とっくりを抱えて飲む久美子。

「はっはっは、うるさい奴じゃ。まあ、いいじゃろう。会ったってしょうがないが会わせてやるか。目をつぶって一、二、三て数えてごらん」

「ほんと?」と茶碗の酒を飲み干してから、久美子は目をつぶった。

「一、二、三」





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