酔雲庵


酔中花

井野酔雲





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 ここは品川宿。

 旅立つ人と見送る人。

 江戸に入って来る旅人。

 忙しく働いている茶屋の女たち。

 鉄蔵は彼らをスケッチしている。

 情景をじっと睨み、素早く筆を運ぶ。描き終えると、違う所に移動して、また対象を見つめ、素早くスケッチする。

 なりふり構わず、木に登ったり地面に寝そべったり、あらゆる所から対象を見てスケッチしている。




南総里見八犬伝 滝沢馬琴の伝奇大作を愉しむ




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 鉄蔵の家では遊びに来た曲亭馬琴(きょくていばきん)と久美子が話をしている。

「じゃあ、鉄さん、最近は風景ばかり描いてるのかい」

「ええ、朝早く出掛けて、暗くなるまで帰って来ません」

「そうかい。でも、風景が相手じゃ、おかみさんも気が楽だろう。あいつは夢中になると徹底してるからな。美人絵を描いてる時なんかもう、吉原から深川、あちこちの岡場所に毎日入り浸りで、しまいには夜鷹(よたか)を追いかけ回していたよ。あの頃は大変だった。絵の事となるともう見境もねえからな。金もねえのに吉原なんか行って、花魁(おいらん)を追いかけ回してるんだからな。毎日、借金取りと鬼ごっこだよ。しかし、あいつの絵に対する情熱ってえのは大したもんだ。もう気違えだね。ああじゃなきゃ本物じゃあねえんだが、あたしにゃアとても真似できない」

「ええ、ほんと、気違いみたい。でも、やっぱり、凄い人です。あたし、あんなに本気で生きている人、初めて見ました」

「鉄さんは幸せもんだな、あんたみたいな人と一緒になって‥‥‥」

「あら、そんな‥‥‥」

「おおい、お久美〜」と鉄蔵が怒鳴りながら勢いよく帰って来た。

「おい、俺は旅に出るぞ」

「えっ、旅?」

「おう、馬琴、来てたのか。どうだ、最近、景気いいか? えっ、そうか、大した事ねえか。俺は今度、東海道を描くぞ。五十三次、全部描く。おい、お久美、旅の支度だ」

「支度って、今から行くわけじゃないでしょ」

「いや、今から行く」

「まあ、落ち着けよ」と馬琴が口を出す。「今から行ったって日が暮れちまうじゃねえか」

「そんな事、関係あるか‥‥‥おい、お久美、水くれ、喉がからからだ」

 久美子は台所に水を取りに行く。

 鉄蔵は座り込んで、抱えていたスケッチを馬琴に見せる。

「どうだ?」

「うむ、品川宿だな‥‥‥」

「そうだ。あそこは面白え。今日は一日中、あそこにいた。そして、思いついたんだ。東海道五十三次を描くってな。それも単なる風景じゃねえ。人間だよ。宿場宿場で働いてる人や旅人を描いてやる」

 久美子、水を持って来て、鉄蔵に渡す。

 鉄蔵は水を一息に飲み干す。

「面白そうだな」何枚ものスケッチを見ながら馬琴は言った。

「あたしも行くわ」と久美子は言った。

「なに?」

「あたしも東海道、行く」

「馬鹿言うな。女なんか連れて行けるか」

「あたしも行く」

「馬鹿、お栄はどうする?」

「勿論、お栄も一緒よ」

「俺は遊びに行くんじゃねんだぞ」

「だって、あたし、この江戸しか知らないもん。絶対について行くから」

「駄目だ!」

「まあ、いいじゃないか」と馬琴が鉄蔵をたしなめる。「たまには、お久美さんにもいい思いをさせてやれよ」

「おめえは黙ってろ」

「あたしは行く。絶対について行くんだから」

「うるせえ!」

「まあまあ‥‥‥」

 隣の部屋で、お栄が急に泣き出した。

 久美子は鉄蔵を睨みながら、隣の部屋に行った。

「女、子供を連れて、絵なんか描けるか‥‥‥」と鉄蔵はブツブツ言っている。

「大丈夫さ。お久美さんはしっかりしている。お前の邪魔なんかしやしないよ。それよりも、お前、金の方は大丈夫なのか?」

「そうだ、それだよ。ちょっと足りねんだ。お前に借りようと思ってたんだ。頼む」

「やっぱり、来るんじゃなかったな」

「そんな事言うなよ」

 隣から久美子の子守唄が聞こえて来た。

「お久美さんを連れて行くなら貸してやってもいい」と馬琴は言った。

「駄目だ。俺は一人で行く」





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