酔雲庵


酔中花

井野酔雲





21




 山の中。

 降るような星空。

 酔雲の山小屋から明かりが漏れている。

 虫たちの鳴き声。

 久美子が鼻歌を歌いながら夕食の支度をしている。

「先生、帰って来たんかい」と声がして入口が開き、寅吉爺さんが顔を出した。

 びっくりする久美子。

「あれ」と寅吉爺さんは久美子を見て言った。「あんた、誰だっけ?」

「あの、ええと、あたし、先生の孫なんです」と久美子はとっさに言いつくろう。

「へえ、先生に孫なんていたんかい。へえ、知らなかった」と寅吉爺さんは小屋に入って来た。片手に一升瓶、片手に大きなどんぶりを持っている。どんぶりの中には漬物がたっぷり入っていた。

「わしゃ、てっきり、先生が帰って来たんかと思った。そうか、お孫さんか‥‥‥」

「ええ、久し振りにお爺ちゃんに会いに来たんですけど、いないんです。どこに行ったのか知りませんか?」

「さあな、そりゃ、わしにもわからんの。先生は足が達者じゃけん、どこにでも行きよる」



 漬物をつつきながら、久美子と寅吉爺さんは酒を飲んでいる。

「わしゃ、全然、知らんかった。先生からお孫さんの事なんて全然、聞いた事もなかった。家族の事なんて一度もしゃべらん。わしゃ、一生、独りでおったんじゃろうと思っとった。そうか、お孫さんがいたのか。よかった、よかった」

「お爺さんはいつ頃から、この山にいるんですか?」

「ああ、もう十年近くにもなるじゃろ。あんた、知らなかったのか?」

「ええ、全然、知らなかったんです。もう、ずっと昔、奥さんが亡くなってから行方不明だったんです」

「そうじゃったんか‥‥‥成程な。先生がここに来てから、早いもんで、もう十年にもなる。最初は変わった人じゃと思った。こんな山の中に小屋なんぞ建てて、毎日、山の中を歩き回っていた。たまあに食べ物と酒を買いに村に下りて来るんだが、あまりしゃべらない。こんな小さな村の事だから、すぐ噂になる。みんなして、何やってる人じゃろうと考えたりしたもんだ。そのうち、村の娘たちが面白がって、自分ちで採れた野菜だのを持って、ここに来るようになったんじゃ。娘たちに聞いてみると絵がとてもうまくて、色々な事を知っていて面白いお爺さんだと言っていた。そして、ちょくちょく遊びに行くようになったんじゃ。その娘たちの中に、わしの孫娘がおってな、今ではもう、子供までいるがな、あの時はまだガキじゃったよ。その孫娘の話を色々と聞いているうちに、わしも会いたくなってな。酒をぶら下げて会いに来たんじゃ。娘たちのいう通り、ええ人じゃった。何でも知っとるし、そのくせ、偉ぶった所など全然ない。うむ、ええ人じゃ。絵を描かせたら天下一品じゃ。そんなうまい絵を惜し気もなく、来る人にやってしまう。誰が訪ねて来ても、先生は歓迎してくれた。この村の者はみんな、先生の描いた絵をちゃんと、うちに飾ってるんじゃよ。もう何年も前の事じゃが、街から絵の商人がやって来たんじゃ。どこで、先生の事を聞いたんか知らんが、先生に絵を描いてくれってな。一枚、いくらで買うから何枚か描いてくれって言うんじゃ。先生は一枚、百万出すなら、何枚でも描いてやると言った。しかし、商人はとてもそんな金は払えなかった。先生は百万じゃなきゃ駄目だと言い張って、到頭、一枚も描かなかった。仕方なく、商人は村の連中を片っ端から当たって、絵を買い集めた。金に目がくらんで売ってしまう奴も何人かいた。売ってしまうと、また絵が欲しくなる。すると、そいつは先生にもう一枚、描いてくれと頼んだ。先生はすぐに描いてやった。そいつはまた、その絵を売ってしまう。先生は文句も言わずに、また描いてやった。そんな事が何回かあったが、今はもう、村の連中、誰もが絵を売らなくなったよ‥‥‥村の者はみんな、先生の事を尊敬している。この村の自慢じゃ‥‥‥」




酔中画3-E010




     

22




 部屋中に書画骨董を並べて整理をしている久美子の祖父。

 久美子が入って来る。

「何してるの?」

「やあ、久美子。お前の絵、賞を取ったんだってな。おめでとう」

「ありがとう。あたし、お爺ちゃんに一番、喜んでもらいたかったの」

「ああ、嬉しいよ」

 祖父は何枚かの水墨画を眺めている。

「それ、お爺ちゃんが描いた絵?」

「ああ」

「ねえ、見せて」と久美子は祖父の隣に座って、祖父から絵を受け取る。

「お爺ちゃん、どうして、絵をやめちゃったの?」

「うむ、色々とあってな」

 久美子は一枚一枚、丁寧に絵を見ていく。そして、一枚の絵に目が止まり、じっと見つめる。

「これも、お爺ちゃんの?」

「どれ、ああ、これはわしじゃない。わしの兄弟子だった人じゃ」

「有名な人?」

「いや、全然、有名じゃない。その人は自分の絵を売ったりしないから、世間の人は全然知らないよ」

「酔雲ていうの、この人?」

「ああ、何よりも酒が好きな人でな。今は山の中で隠遁生活をしてるよ」

「へえ‥‥‥」

 酔雲の絵をしばらく見ているが、次の絵に目を移す久美子。





南部美人 純米吟醸  うり粕漬け




目次に戻る      次の章に進む