酔雲庵


酔中花

井野酔雲





19




「一体、どこまで行くんじゃ?」と五郎右衛門は訊いた。

 お鶴が、すぐそばに愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴があると言うので来てみたが、なかなか、それらしきものはない。

「もうすぐよ」

「かなり歩いたぞ」

「だって、しょうがないでしょ。剣術の悟りを開いたっていう所だもん。かなり山奥よ。天狗が出て来るような所よ、きっと」

「行った事あるのか?」

「ないけど、この道でいいのよ」

「どこに道があるんじゃ?」

「ないけど、これでいいの。あっちの方にあるのよ」

 二人はどこまでも、あっちの方を目指して歩いて行った。

「おい、これ以上、先には行けんぞ」

「どうして?」

「見ろ、下は崖じゃ。天狗だって、これ以上は進めまい」

「変ねえ。もしかしたら、この下に洞穴があるんじゃない?」

「まさか?」

「だって、愛洲移香斎っていう人、天狗みたいな人なんでしょ? きっと、この崖のどこかに洞穴があるのよ」

 お鶴は四つん這いになって、崖の下を覗いてみる。

「ねえ、あれじゃないかしら? 何か、穴があいてるわ」

「どれ」と五郎右衛門も四つん這いになって下を覗く。

「どれだ?」

「あれよ、ほら」

「どれ?」

「あれよ」

 お鶴は急に五郎右衛門に抱き着くと、「一緒に死んで」と叫びながら、崖から飛び降りる。

 二人は抱き着いたまま、遥か下まで落ちて行く‥‥‥

 ドボン!と二人は川の中に落ちた。

 余程、悪運が強いとみえて、二人共、死んではいない。

 五郎右衛門が水面に顔を出した。

 お鶴は五郎右衛門にしがみ着いたまま、気を失っている。

 五郎右衛門はお鶴を抱えて、岸に向かって泳いだ。

 岸に着くとお鶴を川から引き上げ、「おい、大丈夫か」と頬を何度も叩いた。

 水を飲んだかと口を開けて、腹を押してみたが、水は飲んでいないらしい。落ちて行く途中で気を失ったのだろう。

 もう一度、頬を叩いてみた。

 お鶴は目を開けた。

「あなた‥‥‥ここは極楽なのね? よかった‥‥‥あなたと一緒で‥‥‥」

 そう言うと、また、気を失った。

 五郎右衛門はお鶴の体を揺すったが、返事はない。

 お鶴の胸に耳を当ててみた。心の臓は動いている。

 ホッとして崖の上を見上げた。

 切り立った物凄い崖だった。

 あんな上から落ちて、よく無事だったものだと自分たちに呆れた。




木面 天狗




20




 お鶴は次の日の朝になっても目を覚まさなかった。

 落ちた時に打ち所が悪かったのだろう。体に熱を持っていた。

 五郎右衛門は座禅をしながら、彼女の看病をしていた。

 なぜじゃ?

 なぜ、お鶴はあんな事をしたんじゃ?

 普通だったら、二人とも死んでいたはずじゃ。

 わしをそれ程までに憎んでいたのか?

 多分、憎んでいたんじゃろう。

 お鶴は亭主を愛していた。

 長い間、苦労してきたお鶴にとって、亭主との暮らしは夢のように幸せだったに違いない。

 わしはその生活を壊した。

 憎むのは当然じゃ。

 わしを剣で殺す事は不可能とみて、わしと一緒に崖から飛び降りたのか?

 いや、違う。

 あの時のわしはお鶴に対して、まったく、警戒していなかった。

 わしだけを突き落とす気じゃったら、それもできたじゃろう。

 いや、それはできん。

 もし、お鶴がわしを突き落とそうとすれば、その前に、お鶴の素振りにその事が絶対に現れる。

 わしがそれに気づかないはずはない。

 あの時のお鶴には、そんな素振りは全然なかった。

 まず、自分を殺して、無心になっていたのか?

 自分を殺してまで、わしを殺す‥‥‥

 仇を討ったからといって、自分まで死んでしまったのでは、どうしようもないじゃろうに‥‥‥

 わからん‥‥‥

 まったく、わからんオナゴじゃ。

「ここはどこ?」とお鶴が昼過ぎになって、ようやく目を覚ました。

「大丈夫か?」

「五エ門さん‥‥‥」

「しっかりしろ!」

「あたしたち、生きてるのね?」

「ああ、奇跡的に助かった」

「そう‥‥‥助かったの‥‥‥いいえ、これで川上新八郎の妻だった鶴は死にました‥‥‥そして、夫の仇だったあなたも死にました‥‥‥」

「どうして、あんな事をしたんじゃ?」

「あたしは川上新八郎の妻です。妻として、夫の仇を討つのは当然です。妻として仇のあなたを愛する事はできません。あたしを愛してくれた夫に対して申し訳ありません‥‥‥だから、あなたと一緒に死のうと思いました‥‥‥」

「自分の命を捨ててまで、死んだ夫に尽くすのか?」

「はい。あたしを泥沼から救ってくれた夫です‥‥‥あたしの命なんか‥‥‥でも、それだけじゃありません。あたし自身のためでもあるんです‥‥‥」

「自分のため?」

「ええ、あたし、死にたくなかった。あなたと一緒にいたかった。だけど‥‥‥だから、あたし‥‥‥」

「もう、いい。話は後でいい。今はゆっくり休む事じゃ」

 お鶴は小さくうなづいて、五郎右衛門の方に右手を差し出した。

 五郎右衛門はお鶴の手を両手で優しく包んでやった。

 お鶴は軽く笑って、眠りについた。

 五郎右衛門はしばらく、彼女の手を握ったまま、彼女の顔を見つめていた。

 自分のために自分を殺す‥‥‥

 夫のために自分を殺す‥‥‥

 果たして、今のわしにできるか?

 お鶴がやった事ができるか?

 自分を殺す‥‥‥

 自分を殺して、相手を殺す‥‥‥

 待てよ、それを剣にたとえると‥‥‥

 敵に向かい合って、剣を構える‥‥‥

 誰もが勝ちを願う‥‥‥

 敵がこう来ればこう、ああ来ればこう‥‥‥

 それでは畜生兵法じゃ。

 強い者には負け、弱い者には勝ち、同格なら相打ち‥‥‥

 待てよ、相打ち‥‥‥

 自分を殺し、相手も殺す‥‥‥

 自分を殺す事ができれば、自分以上の相手とやっても相打ちに持って行く事はできる。

 自分を殺し‥‥‥相打ちに‥‥‥

 それじゃ。

 相打ちになって、両方が死ねば仇討ちなどというものはなくなる。

 しかし、自分を殺すとなると、一生に一度しか剣を使えなくなる‥‥‥

 うむ、それでいいんじゃ‥‥‥

 それでいいんじゃ。

 本物の剣は一生に一度の大事な時に使えばいいんじゃ。

 無益な殺傷はすべきではない。

 わしにできるか?‥‥‥

 自分を殺す‥‥‥





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