酔雲庵


酔中花

井野酔雲





23




 五郎右衛門が木剣を構えて、空を睨んでいると、「五エ門さ〜ん」とお鶴が帰って来た。

 風呂敷包みと酒を抱えながら、川の中を歩いて来る。

「走ってきたら疲れちゃった」とお鶴は笑った。

「何じゃ、それは?」

「あたしの所帯道具よ。あたしが寝ていた時、色々とお世話になったからさ。あたし、そういうのに弱いでしょ。だから、今度はあたしがあなたのお世話をするの。押しかけ女房よ。嬉しい?」

「その酒は嬉しいがの、お前はうるさいからいい」

「言ったわね。嫌いよ、あんたなんか! あたし、もう帰る!」とお鶴はプイと膨れて、岩屋の中に入って行った。

 五郎右衛門はお鶴の後姿を見ながら笑うと、また、木剣を構えた。

「ねえ、この中、お掃除するわよ」と岩屋の中からお鶴が言った。




名作ふろしき 岩橋英遠・飛鶴  名作ふろしき 福田平八郎・紅白梅  名作ふろしき 中島千波・桜花風月  向かい鳳凰 大判ふろしき  大判風呂敷なでしこ




24




 掃除が終わるとお鶴は洗濯を始めた。わけのわからない歌を陽気に歌っている。

 五郎右衛門は木剣を構えたまま、そんなお鶴を見ていた。

 ‥‥‥あの女はこだわりがちっともないからの。その時、その時の気分次第で生きている。

 あの女は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いているようなもんじゃな‥‥‥

 活人剣‥‥‥人を活かす剣とは?

 眠り猫か‥‥‥

 わからん‥‥‥

 五郎右衛門は木剣を下ろし、お鶴の方に行った。

 お鶴は歌を歌いながら洗濯に熱中していた。五郎右衛門が後ろに立っても気がつかない。

 お鶴の洗濯している姿を見て、五郎右衛門は隙がないと思った。

 試しに木剣を構えてみた。

 彼女を斬ろうと思えば、簡単に斬る事はできるじゃろう。

 しかし、今のわしは彼女を斬る事はできない。

 当たり前じゃ。

 相手は女だし、丸腰じゃ。

 しかも、何の敵意も持っていない。

 そんな相手を斬れるわけがない。

 もし、お鶴がここで、わしの存在に気づいて振り向き、わしを見て、恐れを感じたら、そこに隙が生じる‥‥‥

「お鶴」と五郎右衛門は呼んでみた。

 お鶴は歌をやめ、後ろを振り返った。

「びっくりしたあ。何やってんの?」

「お前を相手に剣術の稽古じゃ」

「今はダメよ、忙しいんだから。それより、あなた、お魚を捕ってよ。いっぱい泳いでるわ。今晩のおかずにしましょうよ」

 お鶴はまた、洗濯を始めた。

 五郎右衛門は木剣を下ろした。

 わしがこんな事やったって、お鶴が驚くわけないか。

 もし、わしじゃなくて、知らない男だったら、どんな反応するんじゃろうか?

 逃げようとするか?

 攻撃しようとするか?

 何もしないで洗濯を続けるか?

 逃げようとすれば斬られる。

 攻撃しようとしても斬られる。

 何もしないで洗濯をしていても‥‥‥やはり、斬られるか‥‥‥

「お鶴、お前が歌ってるのは何の唄じゃ?」

 五郎右衛門は洗濯しているお鶴の背中に声を掛けた。

「いい歌でしょ? 今、流行ってるのよ」

「流行り唄か‥‥‥聞いた事もないな」

「あなたは遅れてるのよ」

「確かに、わしは遅れているが‥‥‥随分、調子のいい唄だな」

「百恵ちゃんの歌よ」

「百恵ちゃん?」

「うん。今、一番、流行ってんだから」

「お前はよく、そんな唄、知ってるな」

「これでも、あたしは芸人だったのよ。流行り歌なら何でも知ってるわ。今晩、聞かせてあげるわね。あなたも歌の一つくらい覚えた方がいいわよ。最近ね、江戸に吉原っていう大きな花街ができたんですって。そこに行った時、歌の一つも歌えなかったら、みんなから笑われちゃうわ。せっかく、いい男なんだから、歌くらいできなくちゃ。あたしが教えてあげるわ」

「唄なんかいい」

「ダメ。剣ばかりやっててもダメ。もっと、心に余裕を持たなくちゃ。うん、そうだわ、歌が一番いいわ。たとえばね、あなたが誰かに喧嘩を売られたとするでしょ。相手は刀を抜くわね。その時、あなた、陽気に歌を歌うのよ。そうすれば、相手だってさ、喧嘩する気なんかなくなっちゃうじゃない」

「それじゃあ、わしが馬鹿じゃねえか」

「馬鹿だっていいじゃない。喧嘩をすれば、あなたは相手を斬っちゃうでしょ。相手は痛い思いをするし、あなただって嫌な気分になるでしょ。それが、あなたが馬鹿になるだけで、その場が丸く治まるのよ。ね、それよ、それが一番いいわ。ね、そうでしょ?」

「そうじゃな、しかし‥‥‥」

「しかしじゃないの。あなたは強いんだから、一々、それを見せびらかす必要はないのよ。ね、馬鹿になりましょ。それに決まりよ‥‥‥さて、洗濯も終わったわ。あたし、ご飯の支度をするから、あなた、お魚、お願いね」




山口百恵全曲集




目次に戻る      次の章に進む