酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







16.お嬢さんはプレスリーがお好き




 美女を前にして、調子に乗って飲み過ぎたらしい。足がフラフラしている。それでも、何とか間違わずに、無事に冬子のマンションにたどり着いた。

 チャイムを押すと中から、「どなた?」と冬子が聞いた。

「日向です」と私は答えた。

「鍵は開いてます」と彼女は言った。

 私はドアを開けて中に入った。部屋は明るくて暖かかった。プレスリーの懐かしいバラードが静かに流れていた。冬子は髪をポニーテールにして、絵の具だらけのオーバーオールを着て、パレットを片手に私を迎えた。

「お酒臭〜い」と冬子は鼻をつまんだ。

「そうか?」

「近寄らないで、あなた、ほんとにお仕事してたの?」

「飲んだ量だけ仕事をやったよ。やり過ぎたような気もするが」

「映画女優って、ひろみさんでしょ?」

 私はうなづいた。

「綺麗だったでしょ?」

 私はうなづいた。

「ひろみさんにも、ちょっかい出したんでしょ?」

「かもしれない。水を下さい」

「この、すけべ探偵が」

 この前、殺風景だったアトリエにはガラクタが散らかっていた。まるで危険物のゴミ捨て場だ。イーゼルの上のキャンバスには色んな色がこんがらがってなすりつけてあった。見方のよっては人の顔にも見える。グロテスクな蜘蛛(くも)にも見える。きっと、私の顔なのだろう。確かに、冬子の頭の中で私のイメージは混乱していた。

 私はこたつに入って、冷たい水を御馳走になった。こたつに上には、この間のナポレオンが用意してあったが、冬子は、もう飲ませないと言って、しまってしまった。

「ねえ、おじさん、紀子さんの曲、聴きます?」と冬子は言った。

「あるのかい?」

 冬子はうなづくと、カセットケースから選び出してステレオにかけた。プレスリーから急にジャズピアノに変わった。

「この曲は『秋の情景』っていうの。紀子さんがアメリカに行く前の作品なんだけど、帰って来てからジャズっぽく変えたみたい」

 綺麗なメロディーだった。それ程、悲しい感じはないが、どこか『蒼ざめた微笑』に似ているような気がした。古山靖氏がこの曲を聴いて涙を流したと言っていた。確かに、胸に染み込むような感じがした。

「いい曲でしょう?」と冬子が頬杖(ほおづえ)をしながら聞いた。

「最高だね」

 しばらく、紀子の曲を黙って聴いていた。

 私は何をしにここに来たのか、すっかり忘れていた。まるで、自分の家に帰って来たかのようにホッとしていた。

「君は親父さんをどうやって見つけたんだ?」と私は聞いた。紀子の件とは関係ないが気になっていた。

「別に捜してたわけじゃないんです。手掛かりだって、お母さんが残してくれた絵が一枚あるだけでしょ。サインもしてないし、どうせ、見つかるわけないと思ってたの。偶然だったのよ‥‥‥あたし、図書館で藤沢静斎の本を見てたの。これも偶然。あたし、日本の絵画きさんの事、あまり知らないのよ。ただ、何となく、どんな絵を描くのかなって思って見てたの。名前からして水墨画かなって思ったけど、開いて見たら、わりと面白い絵を描いてるんで、少し、興味を持って見てたの。そしたら、お母さんの顔が出て来たのよ。びっくりしたわ。ほんと、あたし、思わず、声を出しちゃった。お母さんの名前まで書いてなかったけど、間違いなく、お母さんだったわ。あたしの持ってる絵と描き方もそっくりだったし‥‥‥それで、あたし、あの絵を持って静斎さんのうちに行ったのよ。でも、あの大きなお屋敷を見て、なかなか入る決心がつかなかったわ。でも、勇気を出して訪ねたの。お父さんはいなかった。紀子さんがいたの。あたし、紀子さんに全部、話したわ。何となく、いい人だと思ったから、全部、話しちゃった。そしたら、紀子さんがあたしをビーチハウスまで連れてってくれたのよ。そして、お父さんと会ったの。あたし、びっくりしちゃった。有名な絵画きさんだから若いとは思ってなかったけど、お爺さんて感じでしょ。白髪で白いお髭を伸ばして‥‥‥お父さんもびっくりしてたわ。あたしの事なんて全然、知らなかった。でも、あたしの事を喜んでくれて、お母さんの事も色々と話してくれたわ‥‥‥でも、あたしはすぐにお父さんて言えなかった‥‥‥」

 冬子はカセットケースをもてあそんでいた。

 紀子のピアノには哀愁が漂っていた。

「それはいつの事?」

「もう、一年位前かしら‥‥‥紀子さんは優しかったわ。妹が急にできた事をとても喜んでくれたの。あの人のお母さんも、あたしのお母さんと同じでしょう。だから、あたし、お父さんにはあまり会わなかったけど、紀子さんとはよく会ったわ。紀子さんは本当に素晴らしい人ですよ。あたし、尊敬してるわ。とても優しい人。心がとても大きいの。あたし、紀子さんのお陰で、お父さんの事も理解できたし、お母さんの気持ちもよく分かったわ。今はもう、素直にお父さんて呼べるわ」

「君は日曜の夜に『オフィーリア』に行ったって言ってたね?」

「ええ、行きましたけど」

「その時、紀子さん、男の人と一緒じゃなかったかい?」

「ええ。知らない男の人と一緒だったけど」

「紀子さんとその人、どんな風だった?」

「どんなって、何となく、親しそうに話をしてた。紀子さん、嬉しそうに笑ってたよ。何となく、恋人みたいだった‥‥‥あの人、誰なの?」

「隆二兄さんだよ」

「えっ、あの家出してたっていう?」

「そうらしい」

「帰って来たんだ‥‥‥でも、紀子さん、どうして、あたしに紹介してくれなかったんだろ?」

「それで、紀子さんは隆二兄さんと一緒に店を出たのかい?」

「いいえ、隆二さんは最初ののステージを聴いてから帰ってったわ。紀子さんはステージの後、あたしたちのとこに来て、裕ちゃんの事とか話して‥‥‥あたしたち、次のステージを聴いてから帰ったの。紀子さん、その時もピアノを弾いてたよ」

「紀子さんは何回、演奏するんだ?」

「普通は二回よ。八時と十時に演奏するの。でも、紀子さんはやりたくなったら、いつでもピアノを弾くみたい」

「ピアノはソロでもできるからな。という事は十一時頃、帰ったわけだ」

「あたしたちはね」

「いや、紀子さんも二度目のステージの後、帰ったそうだ」

「そうだったの。でも、どうして、あの時、隆二兄さんの事、話してくれなかったんだろ」

 冬子は氷の入ったグラスをぼうっと見ていた。ステレオから流れる紀子のピアノはもの悲しいが夢見るような、うっとりさせる曲だった。

「この曲は何ていうの?」と私は聞いた。

「えっ、これは‥‥‥確か『ハスラー』よ」

「これが『ハスラー』か‥‥‥」

「やっぱり、少し、飲もうか?」と冬子は言った。

 私はうなづいた。

 冬子はナポレオンと水と氷を用意して、私に非常に薄い水割りを作ってくれた。ナポレオンが勿体ないと思ったが、私は何も言わなかった。これ以上、酔ってしまったら、また、記憶がなくなるし、明日もやらなければならない仕事があった。

「日曜の夜だけど、紀子さん、変わったとこなかった?」

「別に、変わったとこはなかったけど‥‥‥その日はうちに帰ったんじゃないの。十一時頃、帰ったんでしょ。そんな遅くなって、どこ行くの? それに、紀子さんの車はうちに戻ってたんだし」

「そうだな。その日はうちに帰ったに違いない。そして、次の日、月曜日だな、月曜日にどこかに行ったんだ」

「そうよ。でも、どこ行ったんだろ?」

「さあね。もう、考えるのが面倒になって来たよ」

「飲み過ぎよ。ねえ、ひろみさんから何を聞いてたの?」

「フリーセックスについて聞いてたんだよ」

「何ですって? 一体、ひろみさんと何してたの?」

「きっと、君にしたような事をしたんだろう」

「覚えてないのね。いやらしい。まったく、あなたって人を見損なったわ。さっさと帰ってよ、もう」

「帰るさ。その前にもう一つ、聞きたい事がある。君は、ひろみさんの旦那さんを知ってるだろう。どんな人なんだ?」

「淳一さん? あまり、話をした事ないけど、一言で言えばインテリっていうのかしら。あなたとは正反対ね。酔っ払っても、決して乱れたりしないし、紳士なのよ」

「俺だって、決して乱れたりはしない」と私は笑った。

「その目付きが、もう、乱れてるの。いやらしいわね、まったく」

 冬子はグラスを持ったまま身を引いた。

「今日は酔っ払ってても、まともだと思ったのに、やっぱり、すけべなおじんだわ」

「そんな事はない。仕事中は、どんなに酔っても乱れたりはしない」

「まだ、仕事中なんですね?」

「いや、もうやめた」

「危険だわ」と冬子は私を睨んだ。

 私は時計を見た。もう一時を過ぎていた。

「帰るの? 泊まってってもいいですよ」

 私はニヤッとして、冬子の顔を見つめた。

「ただし、ここで寝るのよ」

「冗談だろ?」

「本気です。変な事したら、急所を蹴っとばしてやるから。紀子さんから教わって、合気道を知ってんだから」

 冬子は真面目な顔で言った。

「酔っ払いはお断り」

 私は冬子が敷いてくれた布団の中で、紀子のピアノを聴きながら眠りに落ちて行った。




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