酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







17.カサブランカの画仙人




 冬子に七時にたたき起こされ、ブラックコーヒーを飲んで、熱いシャワーを浴びて、冬子が作ってくれた目玉焼きを食べた。パジャマ姿の冬子と一緒に朝食を食べながら、冬子に手を出さなかった自分が不思議に思えた。なぜだろうと考えながら、古山邸にジープを取りに行き、冬子の案内でビーチハウスに向かった。

 冷たい風が吹いている海沿いの道をジープは走っていた。

 私は東山も捜さなければならない事を思い出した。旅行関係の雑誌を出版している出版社を当たって、東山の居場所を突き止めなくてはならなかった。調査費を貰った手前、やる事だけはやらないと信用にかかわって来る。かといって、紀子の事も放って置けなかった。暇な時は仕事なんて一つもないのに、どうして、ある時は同時に仕事が重なるのか、私は寒空を恨んだ。

 冬子は隣で本を読んでいた。探偵を絵に描くには、探偵の事を知らなければならないと探偵小説を読んでいた。

 冬の海は白い波を高く上げて荒れていた。見るからに冷たそうだった。

 ビーチハウスは枯草の中にポツンと建っていた。やはり、大きな建物だ。冬子の言った通り、それはカサブランカだった。屋根から壁まで真っ白に塗られて、まるで、ギリシャ辺りの建物のようだ。裏庭に赤いボルボが止まっていた。

 表は直接、砂浜につながっている。ビーチハウスは砂浜より一メートル位、高い所にあり、六本の太い柱で支えられていた。階段が両側にあって、階段を上ると広いテラスになっている。今は何も置いてないが夏になるとサマーベッドが並び、水着姿の美女たちが日光浴をするのだろう。ひろみに紀子、そして、冬子、モデルの美喜たちも加わるに違いない。その光景は想像するだけでも素晴らしい。私も是非、冷えたビールを片手に仲間入りしたいものだ。

 入口は中央にあった。中に入ると、そこはちょっとしたロビーになっていて、左側の壁に沿って長椅子が置いてある。右側には二階へと続く階段があった。ロビーの両側に部屋があり、静斎は左側の部屋にいた。

 日当たりのいい広いアトリエで、まず、目に入るのは壁に立て掛けてある描きかけの大作だった。日本版の天地創造図のようだ。神々がふざけ半分に天と地を造っている。みんな、楽しそうな顔をして仕事をしている。中には泣きべそをかいている女神もいたが、悲しいから泣いているのではなく、泣いている事を楽しんでいるようだ。赤い顔をして酒を飲みながら泥をこねて人間を造っている神様もいた。

 静斎は柔らかい光の中でイーゼルを中央に立て、バーのカウンターにあるような丸い椅子に腰掛けて絵を描いていた。冬子と私は彼の後ろに立って、しばらく、絵を見ていた。灰色がかった青い空と海が描いてあった。冬の海らしく、人影は見当たらない。

「いい所じゃろう」と静斎が絵を描きながら言った。

「わしは大抵、ここで仕事をしている。海を見て、波の音を聴いていると落ち着くんでな。製作意欲も出て来る‥‥‥お前も絵をやってたそうじゃな。なぜ、やめた? 絵画きなんてえのは、ただ、絵を描くだけのもんじゃよ。どんな絵を描こうが問題じゃない。とにかく、絵を描いてればいいんじゃよ。自分の絵をな‥‥‥」

 静斎は機嫌がよかった。手を休めずに喋り続けた。

「わしが硯山先生に弟子入りしたのは十七の時じゃった。先生の水墨画を見てな、どうしても自分で描きたくなったんじゃ。それで、うちを飛び出して先生の弟子になったんじゃが、先生はあまり教えてくれなかった‥‥‥わしに筆を持たせて、好きな絵を描けって言っただけで、水墨画の技術なんか教えてくれなかったんじゃよ。わしの真似なんかするな、自分の絵を描けってな‥‥‥その頃のわしに自分の絵なんか分かりゃせん。ただ、先生の真似でもいいから上手な水墨画が描きたかった。先生が教えてくれないんで、わしは昔の人の描いた絵をせっせと真似して描いたよ。そのうち、技術もだんだんと分かって来てな、ある程度、そっくりに描けるようになったんじゃ‥‥‥しかし、そっくりなのは形だけなんじゃよ。どんなに真似して、そっくりに描いてみても何かが違うんじゃ、何かがな‥‥‥わしはやめたよ。また、始めからやり直したんじゃ。自分の絵を描くためにな‥‥‥未だに分からんよ、自分の絵なんてな‥‥‥紀子は見つかったのか?」

 私はテラスへと続くガラス戸から海を眺めながら静斎の話を聞いていた。そして、形にならない『何か』について考えていた。紀子も『何か』が、肝心な『何か』が足らないと言っていた。

「紀子は見つかったのか?」と静斎はもう一度、聞いた。

「いえ、まだ、見つかりません」

 私は静斎を見た。昨日のように心配している様子は見られなかった。

「今の所、分かってるのは紀子さんが日曜日に隆二さんと会って、何かを聞いてから、いなくなったという事です」

「隆二じゃと?」

 静斎の筆が止まった。そして、ゆっくりと、私の方に振り向いた。その顔は落ち着いていた。ただ、目だけが光っていた。

「隆二が帰って来たのか?」と静斎は言った。

「はい。土曜日に帰国したらしいです」

「そうか、帰って来たか‥‥‥あいつは、まだ、絵をやってるのかな?」

 独り言のように呟いて、また、筆を動かし始めた。

「彼はまだ、絵を続けているようです。俺の友達がスペインで会った時には絵を描いていたそうです」

「なに、スペインじゃと‥‥‥あいつは、あんな所にいたのか‥‥」

「知らなかったんですか?」

「何も知らん」

 静斎は外の景色と絵を見比べた。今の彼の頭の中では絵以外の事はどうでもいいように思えた。

「パリに行ったというのは、あいつの友達から聞いたが、それからの事は何も知らん。わしも放ったらかしておいた‥‥‥わしが何を言おうと、あいつは思った通りにやる。ただ、絵だけは続けてほしいと思っていた。あいつはスペインで絵を描いてたのか‥‥‥」

「凄い絵を描いていたそうです」

「そうか」と静斎はうなづいた。

「今、どこにいるんじゃ?」

「分かりません。紀子さんと『オフィーリア』で別れてから、どこに行ったのか分かりません」

「あいつは絵を続けてくれたか‥‥‥」

 静斎は海をじっと見つめていた。潮騒が心臓の鼓動のように聞こえて来た。静斎の目が少し潤んでいるように見えた。

 冬子は部屋の隅の気持ちよさそうな椅子にうずくまって、本に熱中していた。

 冬子のそばの壁に水墨画が額に入って飾ってあった。静かな山の中の沼のほとりに釣り人が一人、のんきそうに糸を垂らしている。顔の表情まではよく見えないが、悩み事など一つもなく、陽気に笑っているようだった。彼にとって魚が釣れようが釣れまいがどうでもいい事だった。ただ、そこにいるというだけで、この上もなく楽しんでいるようだった。多分、荒木俊斎が描いた物だろう。

 その隣に、同じく額に入っている流斎のデッサンがあった。デッサンというより落書きみたいだった。へへののもへじのような顔が太い線で描いてある。その顔もやはり笑っていて、おかしくなる程、静斎に似ていた。

 本物の静斎に目を移すと彼は何事もなかったかのように絵を描いていた。

「隆二さんはどうして、うちを飛び出したんですか?」と私は聞いた。

「わしにも分からんのじゃよ。何かがあった事は確かじゃ。あいつの生活が急に乱れ出した。毎日、酒ばかり飲んでいた。大学は途中でやめちまうし、うちには帰って来なくなるし、どこかの女と一緒に暮らしていた事もあったらしいな。そして、日本を飛び出した。わしには一言も言わなかった‥‥‥それから、もう五年じゃ。一回も手紙をよこさなかった。紀子が日曜に会ったと言ったな?」

「ええ、日曜の夜、『オフィーリア』に行ったそうです。平野君が彼を見ています」

「そうか、紀子は隆二と連絡を取っていたのか?」

「かもしれません。隆二さんが帰って来るのを知っていたようです。彼女の友達は紀子さんが隆二さんの帰りを楽しみにしてたって言っていました。隆二さんがお母さんの事を何か知ってるとも言っていたそうです」

 静斎は太い筆で白い波を大胆に描いていた。一段落つくと背中を伸ばして、絵を見つめた。そして、「昭子の事か?」と言った。

「そうです。紀子さんの本当のお母さんの事です」

「隆二が知ってる?」

 静斎は顎髭を撫でながら私を見た。

「あいつが何を知ってるんじゃ?」

「俺には分かりません。ただ、その何かを聞いてから、紀子さんはいなくなったんです。紀子さんの本当のお母さんの事を話してくれませんか?」

「昭子の事で秘密めいた事など何もない。わしが知っている事は紀子も知っている。隆二がそれ以上の事を知っているはずはない」

 落ち着いた静かな声だったが、力強い声だった。

「犯人は捕まらなかったんでしょう?」

 静斎の顔が一瞬、引き締まった。私から視線をはずして、また、海の方を遠く眺めた。

「そうじゃが、隆二が犯人を知ってるはずはない。昭子が殺された時、隆二はまだ八つじゃった。子供たちには病気で亡くなったと言ってある。わしが紀子に本当の事を言った時、あいつは日本にいなかった。一体、あいつが何を知っていると言うんじゃ?」

「分かりません。紀子さんにとって、何か重要な事を隆二さんが話したんだとは思いますけど、俺には分かりません。昭子さんの事を話して下さい」

 静斎は話したくなさそうだった。しばらく、海を見つめていたが、パレットに絵の具を新しく置いて、また、筆を動かし始めた。

 私は何も言わずに、それを見ていた。

 静斎は溜息をついてから、ボソボソと話し始めた。

「わしが昭子に会ったのは、あの娘がまだ十九の時じゃった。場末のバーじゃったかクラブじゃったか忘れたが、昭子は歌っていた。その頃のわしはひどい生活をしていたんじゃ。毎日、酒に溺れていた。絵が描けなくなっちまったんじゃよ。そんな時、わしは昭子と会ったんじゃ。あの娘の歌は実によかった。わしはポカンとして聞き惚れていた。胸がジーンとして来た。昭子は華奢(きゃしゃ)な体からしぼり出すように低いかすれた声で歌っていた。まだ、若い娘なのに、これだけの歌が歌えるのか、わしはそう思って感激していた‥‥‥それから、わしは毎日、その店に通ったんじゃ‥‥‥悲しい歌じゃった。実に、悲しい歌じゃった。低く、しみわたる声で、心を慰めてくれる歌じゃった。『リリー・マルレーン』て歌があるじゃろう。あんな感じの歌じゃったよ‥‥‥そのうちに、わしは彼女と親しくなって行った。わしは彼女をその店から引き取って、わしの知り合いがやっていた、わりと高級なクラブじゃな、そこに連れて行ったんじゃ。昭子の部屋もわしが世話した。わしはうちにもあまり帰らずに彼女と暮らし始めた。まったく、自分勝手な事をしていたもんじゃ。淳一と隆二の事は久江に任せっきりで、わしは昭子と一緒にいたんじゃ。あの娘の歌を聴きながら絵を描いていた。ろくな絵は描けなかったが、それでも、真剣に描いていた。昭子もどんどんと新しい歌を作って行った。昭子は随分と苦労して来たらしく、いつも、明るく振る舞っていたが、作る歌はどれも皆、悲しい歌ばかりじゃった‥‥‥そのうち、紀子が生まれた。わしは嬉しかった。初めての女の子じゃ。わしは可愛がった。うちの事はまったく放ったらかして、親子三人で暮らしていたんじゃ‥‥‥紀子が生まれてから、わしは昭子のために店を作ってやる事にした。立派なステージのあるクラブを作ろうと思ったんじゃが、いい土地が見つからなかった。結局、小さなバーになっちまったが、昭子はそれでも喜んでくれた。その店が『オフィーリア』じゃよ。今の半分より小さかったけどな。昭子は毎日、マイクを持って、その店で歌っていた。客もみんな、喜んで聴いてくれた‥‥‥昭子の歌の噂を聞いて色んな人が聴きに来てくれた。音楽関係の人も何人かいたよ。昭子の歌をレコードにしようという計画もでた。昭子は張り切って、レコードのために歌を考えていた。しかし、レコードができる前に昭子は死んじまったんじゃ。まだ、四つだった紀子を残してな、昭子は死んじまったんゃ‥‥‥わしは紀子をうちに連れて帰った。久江が何と言おうと、わしは紀子を育てるつもりでいた。しかし、久江は何も言わなかった。久江もわしに内緒で昭子の歌を何度か聴いていたらしい‥‥‥あいつは紀子をよく育ててくれた。母親に負けない音楽家にしなければならないと言って、紀子にピアノを習わせたのもあいつだ。本当に久江は紀子をよく可愛がってくれた‥‥‥久江が言った通り、紀子は母親に負けない音楽家になった‥‥‥あいつは本当によくやってくれたよ。自分の子供でもないのにな‥‥‥」

 私は冬子を見ていた。身動きせずに本を読んでいた。急に両手を伸ばして口を大きく開けてあくびをした。私が見ていたのに気づいて、彼女は舌を出して笑った。そして、また、本に目をやった。

「犯人の事は全然、分からないのですか?」

「分からん。昭子はガラスの花瓶で殴られて死んでいた。そして、金がいくらか盗まれていた。まだ、開店前だったので、大した額じゃなかったが盗まれた事は確かじゃ。そして、店から見慣れない男が顔を隠しながら出て来るのを見たという者がいたらしいが、結局、その男は捕まらなかった‥‥‥それだけじゃ」

 静斎は背筋を伸ばして、右手で腰を何度かたたいた。そして、パレットをかたわらの台の上に乗せ、台の上からタバコを取ると口にくわえた。私もポケットからタバコを取り出して口にくわえた。静斎はタバコをくわえたまま、ぼんやりと海を見ていた。

 私は彼のと自分のとに火を点けた。

「いい音じゃな」と静斎は言った。

「ええ」と私も海を見ながら言った。

「何と言ってるか、分かるかね?」

「さあ」と私は潮騒に耳を傾けた。

 何かを言っているようだが、勿論、私には分からなかった。

 静斎は海を見つめたまま、うまそうにタバコを吸っていた。

「流斎さんの事ですけど、昭子さんが亡くなってから一月後に自殺してますよね、なぜなんです?」

「一月半後じゃ」と静斎は煙を吐きながら言った。

「絵が描けなくなったからじゃろう。奴はその頃、ちょっと変になっていた。奴の絵はどんどん単純化して行って、しまいには何も描けなくなっちまったんじゃ‥‥‥わしは頭がおかしくなって急に死んだと思っておる。馬鹿な事をしたもんじゃよ。奴の遺書には『死ぬべき時が来た。俺は死ぬ』としか書いてなかった‥‥‥」

 私は振り向いて流斎の絵を見た。確かに、あれ以上、単純化できない程、単純化してある。あれだけ単純化しても静斎の顔だという事はよく分かった。

「昭子さんを殺したのは流斎さんじゃないんですか?」

 私は何げなく聞いてみた。

「何を言ってるんじゃ。そんな事はない」と静斎は何でもない事のように答えた。

「昭子と流斎は何のつながりもない。流斎は昭子の歌さえ聴いた事がないはずじゃ。もし、あったとしても、あいつは犯人じゃない。わしも奴が突然、自殺した時、おかしいと思って疑ったんじゃ。しかし、奴は昭子が殺された時、硯山先生の所にいたんじゃよ」

 静斎は静かに海を見ていた。

 私もまた、潮騒に耳を傾けた。突然、ダックスフンドが短い足で砂浜に現れて、波打ち際を走り回った。飼い主の姿は見えなかった。

「隆二さんは昭子さんを殺したのが流斎さんだと信じてるとは考えられませんか?」

「まさか、そんな事はないじゃろう」

「でも、隆二さんは家出する前に、流斎さんの絵が好きで色々と彼の事を調べてたみたいです。もしかしたら、隆二さんがうちを飛び出したり、毎日、酒を飲んでいたのも、流斎さんの事に関係あるような気がするんですが‥‥‥」

 静斎はタバコを灰皿に押し潰した。それから、私の方を見たが何も言わなかった。何かを考えているような虚ろな目をしていた。

「流斎さんの事を話してくれませんか?」

 静斎は無意識のように新しいタバコをくわえた。私の言った事は聞いていないようだった。私は彼のタバコに火を点けてやった。

「ありがとう」と彼は呟いた。そして、目が覚めたかのように、私を見た。

「流斎さんの事を話してくれませんか?」

 私はもう一度、聞いた。

「ああ‥‥‥奴は天才じゃ。みんなが言ってるように天才画家じゃよ‥‥‥奴は十八の時、妹の久江を連れて硯山先生の所に来たんじゃ。二人はしばらく、先生のうちに厄介(やっかい)になっていた。先生は奴の描いた絵を見て、気に入ったんじゃな。両親を亡くして、好きな絵をやるために東京に出て来たと言っていた。流斎も水墨画をやりたかったらしい。しかし、先生は教えなかった。奴の描く絵は最初から少し変わっていたんじゃ。先生はそれを伸ばそうとしていた。奴も自分なりに自分の絵を見つけていたらしい‥‥‥わしは二十九の時、久江と一緒になった。丁度、今の天皇が結婚なさった年じゃ。その頃の流斎はまだ、暗中模索中じゃった。絵をやめて彫刻をやり始めたんだ。昔の仏教彫刻に興味を持って、しばらく、関西の方に行っていた。関西で何をやってたのかは、わしは知らん。帰って来た時は、また、油絵をやっていた。彫刻の影響がよく出ていた。宗教画みたいな絵も描いていたよ。そのうち、奴は先生の勧めで先生の姪にあたる娘さんと結婚した。その頃から、奴の絵はだんだんと単純化して来た。結婚してから八年目にようやく、可愛い女の子が生まれた。流斎は大喜びした。その頃が流斎にとって一番幸せだったんじゃろう。絵の方でも家庭の方でもな‥‥‥絵の方は益々、単純化して行ったが、流斎の方はだんだんと気難しくなって行った‥‥‥そして、四十四歳で自殺したんじゃよ‥‥‥」

 静斎の左手に持っているタバコは指の近くまで灰になって落ちずに残っていた。私は指で示して知らせてやった。彼は灰を落として、短くなったタバコを口に持って行った。

「流斎さんの奥さんは今、どうしてるんですか?」

「三年前に死んだよ」と彼は言い、タバコを灰皿に捨てた。

「流斎が死んでから娘と一緒に田舎に帰って、しばらくしてから再婚したらしい。幸せにやっていたらしいが六十にもならないうちに病気で死んじまった。ばちが当たったんじゃよ。綺麗な顔をしていたが、心のひねくれた冷たい女じゃった。流斎もあの女の事でかなり苦しんでいた。自殺したのもあの女のせいかもしれん‥‥‥待てよ、もしかしたら、隆二はあの女に会ったのかもしれん。そして、あの女からとんでもない事を聞いて、流斎の事を、そして、昭子の事も誤解してるのかもしれん‥‥‥あの女は流斎の自殺を昭子のせいにしてるんじゃよ」

「何か、あったのですか?」

「昭子は誰かに脅されていたんじゃ。わしは知らなかったが、昭子が死んでから店の者に聞いて初めて知ったんじゃ。やくざ風な男が時々、店に現れて昭子を脅していたらしい。多分、昔の事を、わしに喋るとでも脅されたんじゃろう。馬鹿だよ、あいつは‥‥‥昭子の過去に何があろうと、わしの気持ちは変わりはしなかった。あいつの歌を聴けば、どんな苦労をして来たか、すぐ分かる。それなのに、あいつはわしに過去の事を隠そうとしていたんじゃ。やくざな男に脅されて、昭子はわしに相談しないで流斎の所に行ったんじゃ。どうして、流斎の所に行ったのかは知らん。多分、古山から流斎の事を聞いて、助けてくれると思ったんじゃろう。昭子は流斎から金を借りたらしい。それを流斎の女房は昭子が流斎を脅迫していたと言いやがった。昭子がそんな事をするはずがない。あの女は自分の責任で流斎を自殺させたくせに、昭子のせいにしとるんじゃよ。死んだ者は何も言えんからな。その事を隆二はあの女から聞いて本気にしたのかもしれん」

「でも、おかしいじゃないですか。流斎さんが昭子さんに脅迫されていたとしたら、流斎さんには昭子さんを殺す動機があったという事になりますよ。そんな事を言いふらせば、誰だって流斎さんが昭子さんを殺したのかもしれない。そして、責任を取って自殺したんだって思いますよ」

「だから、そんな事は嘘なんじゃよ。あの女は浮気女だった。きっと、流斎が自殺した時も男と遊んでいたに違いない。そんな自分を責められたくないんで、わざと昭子の事を持ち出したんじゃよ」

「それで、やくざ風の男っていうのは捕まったんですか?」

「ああ、捕まった。しかし、昭子の殺しの犯人じゃなかった」

「そうですか‥‥‥きっと、隆二さんは誤解してると思いますよ。流斎さんの奥さんから話を聞いて、流斎さんが昭子さんを殺したと思ってるに違いありません。彼は流斎さんが好きだったそうです。その流斎さんが紀子さんの本当のお母さんを殺したと思い込み、あんなにムチャクチャになったんだと思います。そうだとすると紀子さんも隆二さんから、その話を聞いたのかもしれません」

 静斎は何も言わなかった。無表情にキャンバスを見つめていた。キャンバスには海と空と一羽のカモメが弱々しく淋しそうに飛んでいた。

 私は携帯電話で山崎の所にかけてみた。多分、まだ、寝ているだろうと思ったが彼はすぐに出た。

「珍しく早起きだな」と私は言った。

「そうでもないですよ。タバコを切らしちゃって、買いに行こうか、それとも寝ようか、迷ってた所です」

「そうか、俺がお前の代わりに吸ってやるよ」

 山崎は笑ってから、「藤沢の事でしょう?」と言った。

「感がいいな。連絡、あったのか?」

「ええ、昨日の夜、ありました。静斎の事を言ったら、よく分かったなって笑ってましたよ」

「そうか、認めたのか?」

「ええ。否定はしませんでしたよ」

「で、今、どこにいるんだ?」

「群馬県の高崎です。観音様のいるとこだって言ってました」

「高崎? 観音様に会いに行ったのか?」

「そうらしいです。ところが、観音様には可愛い子供がいたようですね」

「なに、寝ぼけた事、言ってるんだ?」

「奴の女に子供がいたんですよ。今、四つだそうです。奴が日本を出てから生まれたらしい。女は一人で子供を育てて、藤沢の帰りを待ってたらしいですよ」

「へえ、子供がね」

 山崎から隆二の泊まっている『上州屋旅館』の住所と電話番号を教えてもらった。山崎はあくびをしながら、「俺は寝ますよ」と言って電話は切れた。

 静斎はまだ、キャンバスを睨んでいた。

 冬子はまだ、本に夢中だった。

「また、どこかに行くの?」

 冬子が本から顔を上げて言った。

「ああ、聞き込みだ」

「今日は飲み過ぎないのよ」

「分かってるさ」

 冬子はニコッと笑って、「ついて行っちゃ駄目?」と聞いた。

「本を読んで勉強してろよ。立派な探偵が描けるようにね」

「でも、本の中の探偵の方が、あなたよりずっとカッコいいわ」

 私は冬子に手を振って、外に出た。

 海がブツブツとわけの分からない事を言っていた。

 私は海の香りを思い切り吸い込んだ。汚れていた肺が綺麗に洗われたような気がした。

 私はタバコをくわえ、火を点けるとジープに乗り込んだ。




リリー・マルレーン/マレーネ・ディートリッヒのすべて   さらば愛しき女よ/レイモンド・チャンドラー



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