酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







29.星空の下の風のささやき




 運転しながら、あれこれと考えていた。しかし、私の知らない何かを中心に色々な事がぐるぐる回っているだけで、答えは出て来なかった。

 十時を回った頃、高崎に着いた。考え事をしていたせいか、山荘で飲んだ高級なスコッチのせいか、以外に早く、着いたような気がした。

 駅前には、やる事がなくて退屈している若い連中が五、六人、一台のオートバイを中心に固まって、ボケッとしていた。あんな時代が誰にもあるものだ。本人たちは決して回りの者が見る程、退屈していないし、今という時をちゃんと生きている。何もしていないように見えても、何かのための準備を少しづつしているのだ。

 上州屋旅館の専用駐車場があいていたので、そこにジープを突っ込んだ。風が冷たかった。旅館の女将さんは私を覚えていてくれた。隆二はまだ、滞在していると言う。部屋まで案内すると言ったが断って、隆二の部屋まで一人で行った。

 隆二はこたつに入り、のんびり寝そべって、テレビを見ていた。こたつの脇には一升瓶が立ち、こたつの上には酒の入った湯飲み茶碗とひまわりの種が散らかっていた。

「どうしたんですか、今頃?」と隆二は驚いて、体を起こした。

「まだ、紀子を捜してたんですか?」

 私は首を振って、

「ちょっと、こたつに入れてくれ」と言いながら、こたつに入った。

「懐かしいな」と私はひまわりの種を見ながら言った。

「どうぞ」

 私はひまわりの種を口にした。こいつは一度、食べ始めるとなかなか止まらない。そして、そこら中がひまわりの種の皮だらけになる。スペインの公園のベンチの回りには決まって、そいつらが散らかっていた。

 私はひまわりの種を食べながら、急に空腹を感じた。まだ、夕飯を食べていなかった事を思い出した。

「どうしたんです、その顔は?」と隆二がひまわりの種を食べながら聞いた。

 私は顔の傷をさわった。

「ちょっと、トラブルに巻き込まれてね。これでも、大分、よくなったんだよ」

 隆二は笑った。

「紀子からは連絡があったんでしょ?」

「ええ。紀子さんは見つかりました。今日は別の事で来ました」

「別の事?」

 隆二はテレビを見ながら、ひまわりの種をかじっていた。テレビでは戦争映画をやっていた。

 私はポケットからタバコを出すとくわえて火を点けた。煙を吐いてから、「お袋さんの事だよ」と言った。

「今度は、お袋が行方不明にでもなったんですか?」と隆二は冗談ぽく言った。

 私はうなづいた。

「お袋が行方不明?」

「自殺したらしい‥‥‥」

 私が言った事が聞こえなかったのか、隆二はしばらくの間、テレビを見たままだった。やがて、振り向くと私の顔をじっと見つめた。私はその視線を避けて床の間に置いてある灰皿に手を伸ばした。

「変な冗談はやめて下さい」

 その声は、やけに陽気だった。

「俺も言いたくはないが本当なんだ」

「そんな‥‥‥なぜ、なぜ、お袋が‥‥‥そんな馬鹿な‥‥‥」

 彼はそれだけ言うと黙り込んだ。散らかっている、ひまわりの種の皮を右手で集めていたが、湯飲み茶碗を手に取ると酒をあおった。

「うちに電話した方がいい」

 私は灰皿にタバコの灰を落とした。

 隆二は黙っていた。彼は無意識のうちに、私のタバコから一本抜き取り、口にくわえ、テーブルに置いてあった旅館のマッチを手に取ると火を点けた。マッチの火が燃え尽きるまで、彼は火を見つめていた。火は消えた。また、マッチをすった。勢いよく火が点いた。彼は指が燃えるまでマッチを持っていた。灰になったマッチを灰皿に捨てた。もう一度、マッチをすった。今度は、ゆっくりとタバコに火を点けた。彼はゆっくりとタバコを吸い、煙を吐いた。左手で顔を押え、テレビを見つめていた。戦車が走り、爆弾が炸裂し、人間が吹っ飛んだ。銃を持った兵隊が弾丸の雨の中を夢中で走り回っていた。

「お袋はなぜ、死んだんだ‥‥‥」と隆二は言った。

 独り言のようだった。タバコの煙に話しかけているようだった。それから、空になった茶碗を見た。スローモーションのように一升瓶を持つと茶碗に注いだ。一升瓶を元の位置に戻すと茶碗を口に運び、酒を飲み、口をへの字に曲げて、テレビの方を見た。テレビを見ているようには見えなかった。

「うちに電話した方がいいよ」と私は携帯電話を渡した。

「どうも」と彼は言って、タバコを灰皿で揉み消した。こたつから出て、しっかりした足取りで部屋から出て行った。入口は開けっ放しだった。

 私はお茶を貰って飲んだ。テレビの戦争はまだ続いていた。人が何人も死んで行った。あまりにも簡単に、あっけなく死んで行った。誰に殺されたのかも分からず、何を恨んでいいのかも分からず、誰のために死ぬのかも分からず、何のために死ぬのかも分からずに、彼らは死んで行った。彼らには愛する人がいた。悲しむ人がいた。それなのに、彼らは死を覚悟して、戦場に出て行った。彼らは知っていた。彼らは信じていた。自分たちの死が決して、無駄にならないと。この戦争の後には、必ず、平和で楽しい時代がやって来る事を‥‥‥機関銃が火を吹いた。人間がバタバタと倒れた。空には戦闘機が勇ましく飛んでいた。

 十分位経ってから隆二は戻って来た。何もなかったかのように装おうとしていた。しかし、悲しみは隠しきれなかった。私の顔を見て、かすかな微笑をしたが、顔はこわばり、蒼ざめていた。こたつの前に座り込み、酒を飲んだ。

「親父と話しました」と彼は言いながら携帯電話を返した。

「どうする?」と私は聞いた。

「すぐ、帰るだろ?」

「ええ‥‥‥帰ります」

「外に車がある。俺は外で待ってるよ」

 私はお茶を飲み干し、彼を残して外に出た。

 風はやんでいた。裏の方から酔っ払いのわめき声が聞こえて来た。自分に向かって悪態をついているようだった。この世にある、すべての悪い事が自分のせいだと思い込んでいるようだった。自分勝手な自惚れた酔っ払いだった。悲しくて優しすぎる酔っ払いだった。

 私はジープに乗って、エンジンをかけ、ラジオのスイッチを入れた。チャーミングで陽気な声のヤンキー娘の米語の後に、やかましいロックが流れて来た。ヴォーカルは怒鳴り過ぎて声がつぶれていた。ギターの弦は切れていた。ドラムには穴が空いていた。狂ったリズムが私の心臓の鼓動とうまく合っていた。

 お前らはどうしてそんなに、わめき散らすんだ? 一体、何が気に入らないんだ? 何もかも気に入らないって‥‥‥そうか、分かった。それなら、すべてをぶっ壊せ。行儀よく形に納まっている物なんか、みんな、ぶっ壊してしまえ。そして、お前たちの気に入るように作り直すんだ。お前たちが満足の行くような物を作り出すんだ‥‥‥しかし、それだって、いつかは壊されるだろう。お前たちが作った物なんか気に入らないと言う奴らが必ず、現れる。そして、また、破壊だ。人間は繰り返し、同じ事をやるだろう。だが、人間には過去も未来もない。あるのは現在だけだ。今、自分たちが生きている現在を気に入るように、満足するように変えて行けばいいのさ。未来の事なんか知ったこっちゃない。気に入らなければ、どんどん、わめけ! どんどん、壊せ! ギターの弦なんかなくたって音は出るんだ。ドラムに穴が空いてたって音は出る。手段なんかどうだっていい。やり場のない怒りが表現できれば、それでいいんだ。

 私の頭は混乱していた。私の体は浴びる程のアルコールを要求していた。

 隆二は小さなバッグを持って出て来た。

「随分、いい車ですね」

 彼は私の車を誉めてからバッグを後ろに放り投げて、私の隣に座った。

「ちょっと、涼しいけど雪道でも平気さ」

 私はアクセルを踏んだ。

 しばらく、ラジオの音楽だけが流れていた。

 隆二は前を見つめたまま黙っていた。

 ラジオから十年近く前に流行っていたダイアナ・ロスの曲が流れ出した。

 私は何となく口ずさんでいた。

「懐かしい曲だな」と隆二は言った。

「もう、ずっと、昔のような気がする‥‥‥俺がうちを飛び出して、毎日、酒を飲んでた頃だ。この曲がよく流れてた‥‥‥」

「何で、うちを出たんだ?」

「俺さ‥‥‥理由は俺だよ。俺の自分勝手で、うちを出たんだ‥‥‥親父のせいなんかじゃない。お袋のせいでもないさ‥‥‥なぜ、お袋は自殺なんかしたんだ?‥‥‥俺はこれからお袋に喜んでもらおうと思ってたのに‥‥‥」

「あんたの親父さんはお袋さんが自殺するかもしれないと思って、流斎さんが自殺した場所に行ってみた。そこで、お袋さんのハンドバッグを見つけたんだ。あんたの親父さんは何かを知っていたんだ。お袋さんが自殺するかもしれないという理由を‥‥‥俺には全然、分からない。あんたも何かを知ってるはずだ。本当の事を話してくれないか?」

「本当の事か‥‥‥」

 隆二は呟くように言った。

 私はブレーキを踏んだ。ジープを道路脇に止めた。街の灯が遠くの方に見えた。回りには田畑が広がっていた。

 私は隆二を見た。正面を向いていた。私は彼にタバコを勧めた。私たちはしばらく、無言でタバコをふかしていた。ラジオは騒いでいたが気にならなかった。

「俺は‥‥‥」と隆二は言った。

 私はラジオのボリュームを下げた。

「俺は学生の頃、流斎の絵が好きだった‥‥‥今でも好きだよ。俺は学生の頃、旅ばかりしていた。ある日、俺は長野県の山の中の小さな村に行った。流斎とお袋が生まれた村だよ。俺は流斎がどんな人間だったのか興味を持っていた。流斎の事なら何でも知りたかったんだよ。それで村の年寄りたちに流斎の事を色々と聞いてみた‥‥‥その村に流斎のお袋がいたんだよ。俺のお婆さんがいたんだ。俺は死んだものと思ってた。お袋から両親が死んで身寄りがなくなったんで村を出たって聞かされていたんだ。ところが、生きていた。俺はお婆さんに流斎の事やお袋の事を話してやった。流斎が自殺した事には驚いてたが、有名な絵画きになったと聞いて喜んでくれた。子供の頃から絵ばかり描いてたけど、有名な絵画きになったのかと涙を溜めて喜んでくれたよ。今まで、ずっと気になってたけど、これで安心して死ねると言っていた。そして、一晩、泊めてもらう事になったんだ。俺は流斎とお袋の兄貴にも会った‥‥‥お袋の兄貴は俺の事を喜んではくれなかった。流斎にしろ、お袋にしろ、そんな者は知らない。関係ないと言った。そして、二人が村を飛び出した理由を話してくれたんだ‥‥‥」

 しばらく、沈黙が流れた。

「流斎は妹に惚れちまった畜生だ、とお袋の兄貴は言ったんだ‥‥‥二人がひそかに会ってる所を村の者に見られたらしい‥‥‥二人の事はすぐに村中の噂になって、二人は親に勘当されて村を出たんだ‥‥‥俺にはとても信じられなかった。お袋の兄貴は俺の事を流斎とお袋の間に生まれた呪われた子だと言ったんだ。俺は嘘だと言った。そんな事、絶対に嘘だと言った‥‥‥しかし、実際、流斎の絵にはお袋のヌードと思われる絵が多かったんだ‥‥‥あんたも絵を描いてたから分かると思うけど、画家が人物を描く場合、見ず知らずのモデルを描いた場合と自分と親しい者を描いた場合、自然と絵は違って来る。モデルに対する気持ちが自然と絵に出てしまうんだ。流斎がお袋を描いた絵には兄妹という以上のものが表現されてる事は事実なんだよ‥‥‥それに、親父がうちを出たのが俺が生まれた翌年なんだ。もしかしたら、俺は流斎とお袋の間にできた子で、親父はその事を知って、うちを出たのかもしれないと思った‥‥‥俺はうちを飛び出したんだ。毎日、酒ばかり飲んでいた。流斎を恨み、お袋を恨んで酒に溺れていたんだ。でも、どうしても、そんな事、信じられなかった。俺は噂の真相を調べたんだよ。今のあんたみたいに‥‥‥俺は二人を見たっていう村人を捜したんだ。しかし、結局、見つからなかった。なんせ、四十年も前の事だ。死んじまったのかもしれなかった。ところが、偶然にも旅先で真相を知ってた人に出会えたんだ。親父の兄弟子の荒木俊斎に会ったんだよ。俊斎は本当の事を知っていた。俺がその事で悩んでた事に驚いていた。俺が親父と同じ事をしていた事に驚いてたよ‥‥‥俊斎は親父が荒れ出した頃、うちにいたらしい。俊斎には、どうして、親父が毎日、酒ばかり飲んで、うちに帰って来なくなったのか理由が分からなかった。毎日、泣いてるお袋を見ていられなかったそうだ。俊斎は親父から何とか理由を聞き出した。そして、俊斎は流斎やお袋にその事を直接、聞いて、そんな事はないと親父を説得したが、親父は信じなかったそうだ。そこで、俊斎はお袋の生まれた村まで行って、その事を調べたらしい。二人を見たという村人を捜し出して真相を聞いたんだ‥‥‥その男が見たのは二人が抱き合ってる所なんかじゃなかったんだよ。流斎が妹のヌードを描いてる所だったんだ‥‥‥流斎にとって妹は美、そのものだったに違いないと俊斎は言っていた。流斎は美というものを徹底して追求し続けていた。流斎が最初に追求したのが身近にいた妹だったんだ‥‥‥しかし、村人たちにそんな事が分かるわけない。いつの間にか、兄と妹がこっそり会って抱き合っていたという噂が村人たちの間に流れ始めた‥‥‥古山靖もその噂を信じていた一人だったんだよ‥‥‥」

 隆二は静かにドアを開けて外に出た。タバコを捨てて、靴で踏み付けた。両手をポケットに突っ込み、顔を上に向けて、星を眺めていた。

 タバコを灰皿に捨てると私も外に出た。星が綺麗に光っていた。

「古山靖はその事を酔った拍子に紀子の母親に言ってしまう。紀子の母親はその事で流斎を脅したんだ。その頃の流斎は精神的におかしくなっていた‥‥‥俺はずっと、流斎が紀子の母親を殺したんだと思い込んでいたんだ‥‥‥」

 ラジオから『風のささやき』が静かに流れていた。三十年近く前の曲で、隆二がやっと生まれた頃、上映された映画の主題歌だった。私もまだ、三、四歳だったがスティーヴ・マックィーン主演のその映画をテレビで見た事があり、その曲は覚えていた。

「紀子さんにも、その事を話したのか?」

「ああ、話した‥‥‥紀子は黙って聞いてたよ‥‥‥」

「真相が分かったのに、なぜ、うちに戻らなかったんだ?」

「親父に負けたくなかったんだ‥‥‥親父は真相を知った時、紀子の母親と暮らしていた。真相を知って、二人を疑ってた事を後悔しただろう。しかし、親父はうちに帰らなかった。親父は絵画きだった。二人に詫びるには、いい絵を描くしかないと思ったんだろう。そして、親父は描いたんだ。素晴らしい絵を描いたんだ‥‥‥俺も親父に負けたくなかった。お袋にさんざ心配をかけて、お袋に詫びるには立派な絵画きにならなくちゃ、うちには帰れないと思ったんだ。そして、俺は日本を出たんだよ‥‥‥お袋に俺の描いた絵を見てもらいたかった‥‥‥」

 隆二は上を向いたままだった。しかし、彼の目には降るような星は見えないだろう。




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