酔雲庵


銭泡記〜太田道灌暗殺の謎

井野酔雲





15.桔梗の花一輪




 糟屋のお屋形を去る時、お紺は姿を現さなかった。部屋まで行ってみると、荷物はそのまま残っていた。不思議な事に、牧谿(もっけい)の絵だけがなくなっていた。お紺が自分の命を狙ったと聞き、会うのは恐ろしかったが、もう一度、あの笑顔を見たいような気もした。

 銭泡は曽我豊後守の率いる百人余りの兵と共に江戸城に向かった。

 豊後守は三十歳前後の若い男で、始終、渋い顔をして部下たちに文句を言っていた。

 豊後守はお屋形、定正より、江戸城の城代を命じられて江戸城に入るとの事だった。扇谷上杉家の事に銭泡が口出しする事はできないが、道灌の嫡男である源六郎資康の立場がどうなってしまうのか心配だった。江戸に向かう途中、何度か、その事を豊後守に聞いてみようと思ったが、いつも、怒っているようなので聞く事はできなかった。

 銭泡は江戸に帰ると真っすぐに『善法園』に向かった。お紺が銭泡よりも先に江戸に来て、お志乃を襲いはしないかとずっと心配だったが、何事もなかったようなので、ほっと胸を撫で下ろした。

 お志乃は首を長くして銭泡の帰りを待っていた。

「よかった‥‥‥無事で」と銭泡の顔を見ると嬉しそうに銭泡の手を取った。

「心配だった」と言いながら銭泡を見つめて涙ぐみ、ついには、銭泡の胸に顔をうづめて泣いてしまった。

 どうしたんだと銭泡は戸惑った。

 道灌の急死騒ぎで、誰も銭泡の事を知らせてくれなかったらしい。道灌の供をして行った者たちは皆、江戸に帰って来ているのに、銭泡だけが戻って来ない。噂では道灌に殉死した者が何人もいたという。もしかしたら、銭泡も殉死してしまったのではないかと心配していたのだという。

「お屋形様に引き留められていただけじゃ。死にはせんよ」

「わたしも死のうかと思ってたのよ」

「わしは大丈夫じゃ‥‥‥」

 ようやく落ち着くと、お志乃は涙を拭いて、

「大変な事になったわね」と言った。

「ああ。恐ろしい事じゃ」

「お殿様が急にお亡くなりになるなんて‥‥‥お風呂場で倒れたって聞いたけど、亡くなってしまうなんてね」

 お志乃は殺されたという事を知らなかった。どうやら、殺された事は隠され、急病で亡くなったと公表されたらしい。

「お城の方はどんな様子じゃ」

「毎日、評定(ひょうじょう)をしてるみたい。重臣の方々がお城に集まってるわ」

「そうか‥‥‥それで、家督の方は問題ないんじゃな」

「若殿様が跡を継ぐんじゃないの。今、足利学校にいらっしゃるらしいけど、重臣の方々が助けて行けば大丈夫じゃない。大殿様もいらっしゃるし」

「越生の殿様も今、お城にいらっしゃるのか」

「ええ。いらっしゃいます」

「じゃろうの‥‥‥道真殿の言っていた通りになってしまった‥‥‥さぞ、悲しい事じゃろう。自分よりも先に息子さんが亡くなってしまったんじゃからのう」

「大殿様は殿様が倒れる事を予想してたの」

「いや、そうじゃないが。わしはちょっとお城に行って来るわ。万里殿の事が心配じゃ」

 銭泡はお志乃に送られて『善法園』を出た。

 自分が何者かに命を狙われているという事をお志乃に言う事はできなかった。お紺がもし、ここに来たとしても何も知らないお志乃を殺す事はあるまいと思った。

 江戸城の警戒は厳重になっていた。いつも、外城で武術の稽古をしている兵たちも警固に加わっている。まるで、敵がすぐにでも、ここに攻めて来るかのようだった。

 銭泡は城内に入る事ができた。外城から中城に渡り、平川神社の隣の梅林の中にある万里の屋敷に向かった。城内は人が大勢いるわりには不気味に静まっていた。

 万里は沈んだ顔をして銭泡を迎えた。

「やっと、帰って来たか」

「ようやくな。糟屋のお屋形様がなかなか、帰してくれんので参ったわ」

「そうじゃろう‥‥‥おぬしの帰りを待っておったんじゃ。向こうで何があったのか詳しく聞かしてくれ」

「ああ。あそこに行くか」

「そうじゃのう。久し振りにおぬしのお茶でも飲みながら聞くかのう」

 『老鴬庵』の床の間には道灌の書いた漢詩が掛けられてあった。道灌が糟屋に行く前、万里に見てもらうために預けて行った物の中の一つだという。儒教の思想に基づいた太平の世の中を歌った詩だった。

 道灌の根本思想には若い頃、足利学校で学んだ孔子の教えがあった。この戦乱の世の中においても、公方様がいて、その執事である管領の山内上杉氏がいて、管領を補佐する扇谷上杉氏がいて、扇谷上杉氏の執事である自分がいるという形を崩す事はできなかった。その形のままで関東の地を治めるために、死ぬまで奔走して来た。

 管領の家臣でありながら、管領に楯を突いて反乱を起こした長尾伊玄は、道灌にとっては許す事のできない男だった。道灌は伊玄を倒すために徹底的に戦った。

 道灌の活躍によって扇谷上杉家の勢力は拡大した。扇谷上杉定正は、もしかしたら、山内上杉氏を倒す事ができるかもしれない。そうすれば、自分が管領職に就けるに違いないとの野望を持った。道灌には定正の野望は理解できなかった。管領職は京の幕府が決めるもの、管領を倒したからと言って勝手になれるものではない。かえって、幕府の怒りを買う事となろうと反対した。

 道灌も今の幕府が以前のような力を持っていない事は知っていた。知ってはいたが、京の戦も治まり、また、以前のように戻るに違いないと信じていた。また、皆が自分と同じように考えているものと思っていた。道灌の理想は現実と少しずれていた。その事に本人は気づかなかった。

 戦の時、機を見る事に敏感な道灌も、時の流れを見る事はできなかった。世の中は今、古い体制を壊して、新しい体制を生もうとしている。道灌は古い体制にしがみつき、それを守り通そうとして、自らの身を滅ぼしてしまったと言えた。

 床の間の花入れには太田家の家紋である桔梗の花が一輪挿してあった。十年振りに、筑波亭で道灌と再会した時も床の間の花入れには桔梗の花が挿してあった。あの時、道灌の頭が剃ってあった事に驚いたが、あれから二月も経っていないというのに道灌はもう、この世にいない。まさか、道灌の死に目に会うとは夢にも思っていなかった。

 京で仲間たちと会い、関東の話をすると決まって道灌の名が出た。実際に道灌に会った事のある者は道灌と会った時の事を懐かしそうに語り、会った事のない者も噂に聞いた道灌の活躍をさも見て来たように話していた。その道灌も今はもう、いない。

 銭泡は湯を沸かす準備を進めながら、十年前の道灌の事を思い出していた。

「聞かせてくれんか」

 風炉(ふろ)の上に釜が乗ると万里が言った。

 銭泡は頷くと辺りを見回した。これだけ警戒が厳重なら敵の山伏たちもここまで侵入できないだろうと安心した。

「その前に聞きたいんじゃが、おぬしはどこまで知っておるんじゃ」

「どこまでももない。ただ、道灌殿が急死したという事だけじゃ。何があって、どうして急死したのか、まったく分からんのじゃ」

「誰も知らせてくれなかったのか」

「ああ。おぬしらが糟屋に出掛けて、三日目の夕暮れ頃じゃったかのう。急に城内が慌ただしくなった。城下に住む重臣たちが続々、根城の方に行くんじゃ。何事かと思ったが、やがて、静かになってのう。わしはどこぞで、また、戦でも始まったんじゃろうと思っておった。次の日、上原殿の姿を見つけて、道灌殿はもう帰って来たのかと聞いてみると、どうも答えがはっきりせん。問い詰めて、やっと、道灌殿の死を聞いたんじゃ。しかし、どうして死んだのか詳しくは教えてくれなかった。その後、越生の道真殿も来られたが相変わらず、わしらには詳しく教えてはくれん。これは尋常な事ではないなとは思ったが、誰も、わしがここにいる事など、すっかり、忘れてしまったようじゃった。おぬしが帰って来るのを待っておったんじゃよ」

「成程のう。道灌殿が急に亡くなってしまわれたんじゃからのう。重臣たちにしてみれば客人どころではないのう」

「そういう事じゃ。それで、真相はどうなっておるんじゃ」

「真相はのう、道灌殿は殺されたんじゃ」

「‥‥‥やはりのう、そうに違いないとは思っておったが、やはり、殺されたのか‥‥‥」

「湯殿での」

「湯殿でか‥‥‥湯殿で殺されたのか‥‥‥」

「首をばっさりとのう」

「丸腰のところを()られたんじゃな‥‥‥しかし、道灌殿ともあろうお人が身の危険を感じなかったんじゃろうか」

「お屋形内におるというので安心してしまったのかのう」

「何者の仕業だったんじゃ」

 銭泡は首を振った。

「分からんのか」

「道灌殿の命を狙っておったのは一人ではなかったんじゃ」

「何じゃと」

「道灌殿が殺されたのと同じ頃、糟屋のお屋形の回りに七人の山伏の死体が発見されたんじゃ。皆、道灌殿の首を狙って殺された者たちじゃ。七人の内、身元が分かったのは四人。二人は糟屋のお屋形様の配下、一人は長尾伊玄殿の配下、一人は駿河の小鹿新五郎殿の配下じゃ。後の三人の身元は分からん。その身元の分からん三人のうちの二人が、実際に湯殿に隠れておって道灌殿を殺して、首を奪ったんじゃ」

「下手人は山伏じゃったのか」

「らしいのう」

「道灌殿は山伏に殺されたのか‥‥‥山伏に‥‥‥」

「お屋形様の命を狙っておったのは長尾伊玄、小鹿新五郎、管領殿、そして、糟屋のお屋形様じゃと道灌殿の手下の竜仙坊殿は言っておった」

「長尾伊玄と小鹿新五郎と管領殿と糟屋のお屋形様か‥‥‥その中の誰かが山伏を使って、道灌殿を殺したのか」

「うむ。その中の誰かじゃと思うが確信はないんじゃ」

「道灌殿の首はどうなったんじゃ」

「未だに行方知れずじゃよ。竜仙坊殿が追っておる事じゃろう」

「そうか。首は行方知れずか‥‥‥道灌殿も無念じゃろうのう」

「まったくじゃ‥‥‥道灌殿の御家族の方はどうじゃ。真相を知っておるようか」

「いや、知らされてはおらんじゃろう。源六郎殿には知らせたとは思うが、源六郎殿はまだ足利から帰っておらんようじゃ」

「そうか‥‥‥奥方様はおらんしのう」

「奥方様か‥‥‥とんだ熊野詣でになってしまったのう」

「おぬしもとんだ目に会ったのう。家族まで連れて来て、ここに腰を落ち着けると言っておったが、道灌殿が亡くなれば関東の地はまた戦じゃ。ここもこの先、どうなるか分からんぞ。どうするつもりじゃ」

「まだ、何とも言えんわ。じゃが、道灌殿がおらんのでは、ここにおってもつまらんしのう。美濃に帰るかもしれん」

「向こうの家はまだ、あるのか」

「ああ、承国寺の梅心に留守を頼んである」

「ほう、あいつにのう。帰る所はあるという訳じゃな」

「一応はな」

「いいのう。わしもおぬしに言われてから考えて、お志乃の所に腰を落ち着けようと決心したんじゃ。しかしのう、道灌殿がおらんとなるとのう」

「なに、道灌殿がおらなくてもお茶屋はやっていけるわ。お志乃さんはいい女子(おなご)じゃ。腰を落ち着けたほうがいい。わしはお志乃さんから直接、聞いたんじゃ。お志乃さんはおぬしの事をずっと、待っておったんじゃよ。おぬしの名前を店の名前にしてのう。あんな女子は滅多におらんぞ。おぬしはお志乃さんを幸せにしなければならんのじゃよ」

「分かっておるわ。わしもお志乃と共に暮らそうと決心したんじゃ」

「それなら、ここに腰を落ち着けるんじゃ。道灌殿がおらなくとも道胤殿を初めとして重臣の方々がおられる。源六郎殿をもり立てて江戸の城下を守って行く事じゃろう」

「うむ、そうじゃな。源六郎殿は道灌殿の子じゃからのう。道灌殿のような立派な武将に育つ事じゃろう」

「そうじゃ、道灌殿の子じゃ。この江戸を守って行くに違いないわ」

 銭泡と万里はお茶をすすりながら、道灌の書いた漢詩を眺め、道灌の事を思い出していた。





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