酔雲庵


侠客国定忠次一代記

井野酔雲






1 その目でじっくり、見てやっておくんなせえ




 嘉永(かえい)三年(一八五〇)十二月二十一日、上州(群馬県)吾妻郡(あがつまごおり)、信州街道の大戸宿(おおどじゅく)は朝早くから祭りさながらの賑やかさだった。

 その日は粉雪がちらつき、凍るような寒さだった。

 にもかかわらず、各地から人々が集まり、これから始まる見世物(みせもの)をそれぞれの人がそれぞれの思いで見守ろうとしていた。

 萩生(はぎう)村の農家から出て来た旅の商人(あきんど)が街道を眺めて目を丸くした。

「ほう、こりゃ(すげ)えのう。まるで、蟻の行列のようじゃ。ほんま、大したもんや」

 独り言をつぶやくと商人は菅笠をかぶり、荷物を背負って、その流れの中に入って行った。

 目の前に女連れの一行がいた。

 おこそ頭巾をかぶった後ろ姿がなかなか色っぽい年増(としま)女が二人と四十年配の男が三人、遠くからやって来たような旅支度で、皆、無言のまま歩いている。

 回りを見回すと女連れの者が結構、多いのに商人は驚いた。

 これから始まる見世物は女子供が好んで見るような代物(しろもの)ではないはずだったが‥‥‥

 商人は商人特有の愛想笑いを浮かべると、前を行く一行に声を掛けた。

「えらい人出でございますなア」

 二人の女と一人の男が振り返って、商人の顔を見た。

 二人の女は確かに色っぽかったが、年増というよりは中年に差しかかっていた。二人共、(いき)な身なりで料理茶屋の女将(おかみ)という感じだった。

 女たちは商人の顔をチラッと見ただけで何も言わなかったが、(ほお)っ被りして荷物をかついでいる男は商人にうなづき、「はい。まったく、凄いですなア」と答えてくれた。

 商人は軽く腰を屈め、「あたしは近江(おおみ)(滋賀県)から来た橘屋(たちばなや)という商人でございます」と名乗った。

「境の絹市で噂を聞きまして、土産(みやげ)話にちょいと覗いて行こうと思い、こうして、やって参りました。まさか、これ程の賑わいとは思ってもおりませんでしたわ」

「近江からいらしたんですか、それはそれは‥‥‥わたし共は信州(長野県)からです」

 男は人懐っこい顔をして、橘屋と並んで歩いた。丁度いい話相手が見つかって、ホッとしたという顔付きだった。

「信州? あれ、方向違いのような‥‥‥」

 橘屋は首を少し傾げた。

「はい。昨夜(ゆうべ)、大戸に着いたんですが、宿屋が一杯で泊まる所がございません。仕方なく、萩生まで行って、何とか泊まる事ができたという次第なんです」

「そうでしたか。信州から、わざわざいらしたんですね?」

「勿論ですとも。まさか、親分さんがこんな事になろうとは‥‥‥失礼ですが、親分さんの噂は近江の方にも聞こえておりますか?」

「はい、それはもう聞こえとりますとも。あたし共は上州と江州(ごうしゅう)を行ったり来たりしとりますんで、親分さんの噂は上州の話をする度に話題に上ります。ただ、噂ばかりで実際に会った者はおりまへんし、渡世人の世界の事はあたし共にはよく分かりまへん。いい加減な噂ばかりでございますよ」

「あのう、いい加減な噂とはどんな噂なんです?」と橘屋の前を歩いていた女が急に振り返った。

「はい、まったくいい加減な噂なんです」と橘屋は言ったが、もう一人の女も興味深そうな顔をして、噂の内容を聞きたがった。

「本当かどうかは存じまへんが、親分さんが悪いお代官様を斬ったとか、天保(てんぽう)飢饉(ききん)の時、お百姓たちにお米や銭をばらまいて救ったとか、いい噂もあれば、若い娘をかどわかして女郎屋に売り飛ばしたとか、赤城山(あかぎやま)に隠れてて、夜になると村々に出て来て、手当たり次第に娘たちを手籠めにしたり、銭を盗んだとか‥‥‥」

「何ですって、誰がそんなひどい噂を‥‥‥」

 女たちは口惜しそうに唇を噛んだ。

 連れの男たちも信じられないというような顔付きで橘屋を見ていた。みんな、悪い方の噂に対して、親分さんがそんな事をするはずはないと信じているようだった。

「はい、まったくいい加減な噂なんです」と橘屋は大袈裟に手を振った。

「そんな、ひどすぎます」

 二人の女は顔を見合わせて顔をしかめた。

「はい、ひどい噂です‥‥‥あたしには親分さんがどんなお人なのか、まったく見当も付きません。今回、境に行ったら、親分さんの噂で持ち切りで、あたしも気になって色んな人に聞いてみました。それでもやっぱり、よく分かりませんでした。親分さんの地元でも、親分さんを良く言う人もおりますし、悪く言う人もおります。どっちの言い分が正しいのか、あたしにはさっぱり分かりません。そこで、実際の親分さんを一目、見てみようと思いまして、こうして、やって来たわけなんですわ」

「そうでしたか」と女の一人が言った。

「親分さんは立派なお人ですよ。ねえ、お篠さん」

 お篠と呼ばれた女はうなづいたが、顔付きは暗かった。

「親分さんの最期を見守るために、これだけ大勢の人が集まるんです。親分さんが悪人だったら、こんなに人が集まるはずありません。親分さんは絶対に立派な人なんです」

 女はお篠に言い聞かせるようにしゃべっていた。

「確かに」と橘屋は二人の女にうなづき、回りを見回した。

 人々の顔は、ただのやじ馬ではなかった。それぞれが親分さんに対する思いを抱きながら歩いているように見えた。

(わり)いが、おめえさんたちの話は聞かせてもらったぜ」

 後ろからドスのきいた声がした。

 橘屋がドキッとして振り返ると百姓風の三人連れがいた。

 百姓の格好をしているが話し方や顔付きは百姓には見えない。背中に丸めた(むしろ)を背負っていて、その中には長脇差(ながどす)が隠されているに違いなかった。

「いいか(わり)いかってえのはなア、見方によって変わるもんなんだぜ」と兄貴分らしい男が遠くを眺めながら言った。

「お(かみ)の立場から見りゃア、お上に楯突いた親分さんは極悪人だ。だがよお、百姓たちから見りゃア、違った見方になるんだぜ。悪口を言う奴らはみんな、お上の立場に立って物を言うお利口さんよ。親分さんを盗っ人呼ばわりする奴らはな、あくでえ事をして弱え(もん)から銭を絞り取った汚ねえ奴らさ。親分さんに弱みを握られ、てめえから銭を差し出したくせして盗まれたと抜かしやがる。女子(おなご)の事だってそうだぜ。親分さんはな、子分たちに堅気(かたぎ)の娘にゃア絶対に手を出すなって言ってたんだ。だがよお、娘の方が黙ってねえのよ。親分さんの子分にゃアいい男が揃ってるぜ。男気(おとこぎ)のある奴らがな。芝居(しべえ)を地で行く男たちを若え娘っ子が放っとくわけがねえや。若え娘は一途(いちず)だ。中にゃア、うちをおん出て、親分さんの子分のもとに走った娘もいるだんべえ。娘を取られた親から見りゃア(だま)されただの、無理やり連れて行かれただのと騒ぎやがる。それに尾鰭(おひれ)が付いてよお、手当たり次第(しでえ)に女子を手籠めにしただのと噂になったのよ。実際(じっせえ)に、その目でじっくりと本物(ほんもん)の親分さんを見てやっておくんなせえよ。それじゃア、お先に御免なすって」

 そう言うと三人連れの百姓風の男たちは速足で橘屋たちを追い抜いて行った。

「ただの百姓じゃありませんな」

 三人の後ろ姿を見送りながら、信州から来た男が小声で言った。

「何者でしょう?」と橘屋も三人を目で追っていた。

「親分さんに(ゆかり)のあるお人に違いありませんね」

「成程‥‥‥親分さんの子分たちが、親分さんを奪い返すだろうという噂も耳にしましたが、どんなもんでしょう?」

「ないとは言えませんが難しいでしょうな。昨夜(ゆうべ)、大戸の宿場を通って来ましたが、それはもう凄い警固でした。江戸から来られたお役人様を初めとして、近在の者たちが武器を手にしてウロウロしておりました。噂では二、三百人の者たちが守ってるとの事です。親分さんの子分とは言え、あの警固を破るのは難しいと思いますよ」

「二、三百の警固ですか‥‥‥たった一人の親分さんをお仕置きするのに、二、三百もの者たちが警固をするとは、まさしく、天下の大親分や。これは見ないわけには行きまへんな‥‥‥ところで、あなた方も親分さんに縁があるんですか?」

「とんでもございません。縁だなんて‥‥‥ただ、親分さんは信州に逃げて来られた時、わたし共の村を助けてくださったんです。その時の恩が忘れられなくて、村を代表して、こうしてやって来たんです。信州から来たのはわたし共だけではありません。きっと、親分さんのお世話になった人たちは大勢いるはずです。みんな、親分さんの御冥福(ごめいふく)を祈って、遠くからやって来てるんです」

「そうでしたか。そういえば、美濃(みの)(岐阜県)を通った時、上州の親分さんが人助けをしたという噂を耳にした事がございます。その時は人違いだろうと思っておりましたが、やっぱり、親分さんの事だったんですねえ」

「美濃にも、そんな噂があるんですか‥‥‥親分さんは一度、四国の金毘羅(こんぴら)さんにお参りに行かれたと聞きますから、そん時の事なんでしょうね」

 曲がりくねった薄暗い山道を抜けるとなだらかな坂が続き、ようやく大戸の宿場が見えて来た。

 お仕置き場は宿場の南はずれにあり、竹矢来(たけやらい)で囲まれていた。赤、黒、黄色、白、桃色、浅葱(あさぎ)色と六色の(のぼり)が風に(なび)き、六尺棒や鉄砲を持った警固の者たちが竹矢来の中にも外にも大勢いるのが見えた。

 処刑の時刻まで、四時間近くもあるというのに、各地から集まって来た見物人が竹矢来の回りに群がっている。ざっと見ただけでも五、六百人はいるようだった。

「凄いですなア」と橘屋は言ったが、信州から来たという女連れの一行はさっさと先に行ってしまっていなかった。

「あれまあ、つれないお方たちじゃ」

 橘屋は独り言をつぶやき、お仕置き場の竹矢来のそばまで行った。まだ空いていた一番手前に陣取ると満足そうに荷物を下ろした。

 回りを見回すと、仲間同士でヒソヒソ話をしている者が多かった。

 座り込んで一心に御題目(おだいもく)を唱えている老婆もいる。

 あの老婆も親分さんに助けられたのだろうか‥‥‥

 見るからに渡世人と分かる者も何人かいたが、それはほんの一部に過ぎなかった。ほとんどの者が博奕(ばくち)打ちの親分とは何の関係もなさそうな人たちばかりだった。女連れも多く、中には着飾った若い娘もいる。どこかの村の名主(なぬし)のお嬢さんのようだが、そんな娘がどうしてこんな所に来るのか、橘屋には理解する事ができなかった。

「おっ、あんなとこにいやがった。あの野郎、生意気(なめえき)に偉そうにしてやがる」

 隣りにいる農民が竹矢来の中を指さしていた。

「お知り合いがいらっしゃるんですか?」と、すかさず橘屋は声を掛けた。

「へえ、うちの村の者がああして警固役に出てるんすよ」

 前歯の欠けた人の良さそうな顔をした男が自慢気に言った。

「どこの村からおいでなんですか?」

須賀尾(すがお)だア。あの浅葱色の鉢巻きをしたんが、うちの村の者たちでさア」

「ほう。村によって鉢巻きの色が違うんですか?」

「へえ。大戸が赤、大柏木が桃色、本宿(もとじゅく)が黄色、萩生が白、三島が黒、そして、須賀尾が浅葱というわけなんで。いつもだと人足を出せって村役人様から言われると、みんな、やがって逃げちまうくせして、今回に限って、俺も俺もと集まって来て、すぐに人数が揃っちまったんすよ。俺たちもやりたかったんだが、あぶれちまったってえわけでさア」

「そうですか‥‥‥みんな自分から進んで警固の任務に就いてるんですね」

「そうなんすよ。三島村なんざ、警固の人数にゃア(へえ)ってなかったんに、わざわざ頼み込んでやって来たらしいでえ」

「ほう‥‥‥これだけの警固をするという事はやっぱり、大勢の子分たちが親分さんを助けにやって来るんでしょうか?」

「それは何とも言えねえなア。この警固ん中、親分さんを助け出す事なんか不可能だんべえ。でもよお、もしかしたら、信じられねえ事が起こるかもしんねえ」

「信じられない事が‥‥‥」と橘屋は竹矢来の中を覗き込んだ。

 この中で後々までも語られる不可思議な事が起こるのかもしれないと一瞬、本気にした。が、そんな馬鹿なと振り返ると須賀尾村の農民は仲間たちとヒソヒソ話を始めていた。

 橘屋は身震いをすると(えり)を両手で押さえて、ちぢこまった。歩いている時はそれ程、気にならなかったが、じっとしていると寒さがこたえた。荷物の中から手拭いを出して、頬っ被りをしていると、二人の(さむらい)がやって来て、橘屋の隣りに立った。

「大した人出ですね」と若侍が辺りを眺めながら言った。

「うむ」と年配の侍が軽くうなづいた。

「しかしのう、たかが博奕打ちの親分の処刑が(はりつけ)とは恐れ入った事じゃ」

 二人とも旅支度をしていて、遠くから来たようだったが、どんな身分の侍かは見当もつかなかった。

「お(かみ)もかなり焦ってるようじゃな。世の中の仕組みがあちこちで崩れ始めて来ておる。何とか立て直そうと必死なんじゃが、いい知恵が浮かばん。そこで今度のお仕置きを考えたんじゃろう。関所破りをした者は破った関所の前で磔にするというのが古くからの定めじゃが、今頃、そんな馬鹿げた事をするとはお笑い草じゃ。大戸の関所に抜け道がある事を知らん奴はおらん。抜け道をほったらかしにしておいて関所破りが聞いて(あき)れるのう」

「何でも、ここで磔があったのは二百年も昔の事らしいですよ」

「そりゃそうじゃろうのう。抜け道がなかった頃の話じゃ」

「関所を破ったのは忠次一人だったわけじゃないんでしょ? 捕まった子分どもは江戸で獄門(ごくもん)になったのに、どうして親分の忠次だけが磔になるんです?」

「そこが問題なんじゃ。お上の狙いは忠次を磔にする事によって、お上の御威光を取り戻す事なんじゃ。お上に逆らうとこういう目に会うからやめろと民衆に見せつけるためなんじゃよ。特にお上に反抗する者が多い、この上州の地でやるのが最も都合がいいんじゃ。それにな、この人出を見てみろ。お上が忠次を恐れるのも無理ねえ事じゃ。忠次の最期を見るためにこれだけの人が集まるんじゃ。忠次が一声掛ければ、三千人の命知らずが集まるってえのも本当かもしれん。浪人共が忠次の勢力を利用して反乱を起こそうとしていたという噂も本当かもしれんのう」

「はい‥‥‥博奕打ちながら、大した男だ」

「うむ。逆効果にならなければいいがのう」

「逆効果とは?」

「磔になった事で、忠次が英雄に祭り上げられる事じゃ。忠次が死んで世直し大明神に祭り上げられたら、世の中は益々、乱れて来る。下手(へた)をしたら幕府が転覆する事もありえるぞ」

「まさか‥‥‥」

「たかが博奕打ちじゃ。そこまでにはなるまいとは思うがのう‥‥‥まだ、時が大分ある。こんな所で待っていても寒いだけじゃ。加部安(かべやす)の所で一杯やりながら待つとするか」

「大丈夫ですか? 加部安の家には役人たちが詰めてるんじゃないですか?」

「とにかく、行ってみよう。知ってる顔がいるかもしれんからのう」

 侍たちは街道の方に向かって行った。

 一体、何者だろう、と橘屋は侍たちを見送った。平気な顔をしてお上の批判をしていた。あんな大それた事を平気で言うとは偉い侍には違いないが、一風変わった侍だった。

 街道の方を見ると人の流れは止まる事なく、お仕置き場を目指してどんどん集まっていた。

 橘屋は耳を澄まして、回りにいる者たちの会話を聞いていた。まるでお通夜のように、みんな、しんみりとした顔付きで忠次親分の事を話している。しかし、処刑の時刻が近づくに従って、竹矢来の回りは人で溢れ、身動きする事もできない有り様となった。仲間同士で話をする事もできず、皆、じっと中の様子を見守っていた。

 近くの寺の鐘が四ツ(午前十時)を知らせた。雪は止み、薄日が差して来たが、肌を刺す風は冷たかった。

 橘屋は寒さに震えながら、一体、なぜ、自分はこんな寒い思いをしてまで、会った事もない博奕打ちの親分の処刑を見なければならないのだろうと思った。

 磔を見るのが、それ程、価値のある事なのか?‥‥‥

 もう、やめようと思った時、すでに一千人を越えている見物人たちがざわめき始めた。

 橘屋は顔を上げると目を凝らして、竹矢来の中を見つめた。

 物々しいいで立ちの行列がお仕置き場に入って来た。

 国定忠次の乗った唐丸籠(とうまるかご)は行列の中程にあった。お仕置き場のほぼ中央に唐丸籠が置かれ、役人たちが所定の場所に着いた。

 主役の忠次がお仕置き場に入って来た事によって、警固の者たちを初めとして見物人までもが緊張した。

 皆の視線が唐丸籠に集中し、重々しい沈黙が流れた。

 風になびく幟のパタパタという音がやけに不気味に聞こえた。

 長い沈黙に耐え切れずに誰かが咳払いをすると、あちこちから咳や溜め息が聞こえて来た。 橘屋もゴクリと唾を飲み込んだ。

 街道を挟んだ向こう側にも役人たちが並んでいた。役人たちを守るように鉄砲を持った警固の者がその両脇を固めている。鉄砲持ちも六色の鉢巻きを締めていた。村々から集めた猟師のようだった。

 街道は通行止めされたとみえて、警固の者以外、人影はなかった。

 ようやく、唐丸籠から忠次が現れた。

 両手を縛られた忠次は白い着物を着ていて、腰を伸ばすと首を上げて曇り空を見上げた。

 大柄の男だと思っていたが、背丈は普通で小太りといった感じだった。

 これが噂の国定忠次なのかと橘屋は少しがっかりした。噂から思い描いていた忠次と実際の忠次はあまりにも掛け離れていた。

 唐丸籠が片付けられ、忠次は検使の役人の前に座らせられた。

 橘屋の方から見れば背中を向けている。役人が忠次に向かって、最期の望みを聞いているようだった。忠次が何か答えたようだったが、その声は見物人まで届かなかった。

 橘屋はふと、自分だったら最期の時、何を望むだろうかと思った。

 死を目前にして、銭などいくらあっても役には立たない‥‥‥

 後に残る家族の事を頼むか‥‥‥

 忠次が望んだのは一杯の酒だった。

「加部安さんちの酒だ」と誰かが言った。

 加部安というのは上州でも一、二を争う程の分限者(ぶげんしゃ)で、古くより大戸に住み、代々加部安左衛門を称していた。広い屋敷内では酒造りもやっていて、銘酒『牡丹』は有名だった。

 橘屋も商売上の付き合いで、何度か会った事がある。そういえば、忠次の噂を加部安から聞いたのを橘屋は思い出した。

「国定村の親分は面白え男だ。わしも親分のために随分と銭を使ったが、不思議と後悔しちゃアいねえ。(けえ)って気持ちいいくれえだ。親分は銭に(てえ)して、まったく執着がねえ。執着がねえから親分とこにゃア自然と銭が集まって来るんかもしれん。わしも親分の真似して、吉原に行った時、パァッと派手に使ってみたが、わしゃ駄目だ。どうしても銭に執着しちまって身代(しんでえ)を傾けちまった。親分の真似はなかなかできねえ」

 加部安はそう言って笑った。

 橘屋にはその時、加部安の言っている事がよく分からなかった。しかし、今、忠次の背中を見ていると、何となくだが加部安の言った意味が分かるような気がした。

 忠次はゆっくり味わいながら、加部安の酒を飲んでいた。

 ここからは忠次の顔は見えないが、忠次がうまそうに末期(まつご)の酒を飲んでいる顔が橘屋の脳裏にはっきりと浮かんで来た。その顔は落ち着き払い、すでに、生死を超越しているようだった。

 酒を飲み干した忠次は立ち上がると、さっさと磔柱(はりつけばしら)の方に歩いて行った。

 六尺棒を持った警固の者たちが慌てて、忠次の後を追って行くという滑稽(こっけい)な場面に見物人の中から微かな笑いがこぼれた。

 忠次は磔柱の前に立つと初めて見物人たちの方を眺め回した。見物人一人一人を確かめるように、ゆっくりと一回りした。

 忠次の顔付きは極悪人というような恐ろしい顔ではなかった。これから磔にされるというのに、それに対する恐れなどまったく感じられず、他人事のような顔をしている。

 その態度には何とも言えない存在感があり、どっしりとしていて、大地にしっかりと根を張った大木を見上げているような感じがした。博奕打ちの大親分というよりは、一人の偉大な男という感じだった。

 橘屋は一瞬、忠次と目が合ったと思った。

 その目は異様に輝き、何かを必死に訴えようとしていた。その目を見た瞬間、橘屋には忠次という男のすべてが分かったような気がした。いい加減な噂の中の忠次とはまったく違った本物の忠次という男が分かったような気がした。

 そう感じたのは橘屋だけではなかった。見物人全員が忠次と一瞬、目が合ったと感じ、その瞬間に忠次という男を理解したように感じていた。

 警固に集まった連中は忠次と目が合うとうなだれ、自分が後ろめたい事をしているかのように感じた。

 江戸からやって来た役人でさえも忠次の目に何かを感じていた。それは磔にされる極悪人に対するものではなく、同じ時代を生きて来た忠次という人間に対する何かだった。彼らは上から命令された事を実行するために、意気揚々と江戸からやって来た。幕府のやる事はすべて正しいと信じて疑わず、忠次を磔にする事を誇りのように思ってやって来た。しかし、今、忠次のやけに落ち着いた目付きで見られると、何が本当に正しい事なのか、もう一度、見つめ直した方がいいのではないかという不安が心の中をよぎった。

 忠次は磔柱に縛り付けられ、人足たちによって磔柱は立てられた。

 あらかじめ掘ってあった穴の中に磔柱の根元が入れられると穴は埋められ、しっかりと踏み固められた。

 忠次は磔柱に両手両足を開いた大の字に縛り付けられ、白い絹の着物は(わき)の下から腰の辺りまで切り裂かれ胸の前で縛られていた。

 忠次の姿が高々と上げられると見物人たちはどよめいた。

「親分さん‥‥‥」と言ったつぶやきがあちこちで起こり、嗚咽(おえつ)とも溜め息ともいえる音がどこからともなく聞こえて来た。

「皆の衆‥‥‥」と少しかすれた低い声が仕置き場に響き渡った。

 それは、磔柱に縛られた忠次の声だった。皆の視線が忠次の顔に注がれた。忠次が何かを言おうとしている。誰もが、その言葉を聞き逃すまいと辺りは静まり返った。

「いい眺めだア」と忠次はしみじみと言った。そして、遠くをじっと見つめた。

 ここから赤城山が見えるのか分からないが、忠次は赤城山を見つめているに違いないと橘屋は思った。

 検使の役人が手を振り上げた。

 磔柱の両脇に控えていた槍持ちが槍を高々と突き上げ、忠次の目の前で交差させるようにした。二本の槍の穂先がぶつかり、『カキーン』という冷たい金属音が響き渡った。

 女の悲鳴が聞こえたが、それはすぐに消え、シーンと静まり返った。

 急に薄暗くなり、また、チラチラと雪が舞い始めた。

 忠次は目の前の槍の穂先に動ずる事なく、遠くを見つめたまま、微かに笑っているようだった。

 二つの槍が引かれると息を飲む間もなく、忠次の右側にいる男が、「アリャー!」と掛け声を掛けながら、忠次に向かって槍を繰り出した。

 橘屋は一瞬、目をつぶってしまった。

 あちこちから悲鳴や(うめ)きが起こった。が、すぐに、それは安堵の吐息に変わった。それはただの素突きだった。左側の男も掛け声を掛けながら素突きを行なった。

 橘屋は胸を撫で下ろしたが、安心する間もなかった。次の瞬間には鈍い音と共に、槍は忠次の右脇腹に突き刺さり、体を貫いて、左肩に一尺余りも飛び出していた。

 橘屋は口をポカンと開けたまま、串刺しにされた忠次を見つめていた。

 目の前で起こった事が信じられなかった。

 時が止まってしまったかのように見物人たちは皆、息を殺して無残な忠次の姿を見つめていた。

 それはほんの一瞬の事だったが、長い沈黙のように感じられた。

 緊張に耐え切れなくなった女たちのすすり泣きや嗚咽が聞こえて来た。

 橘屋は何かを大声で叫びたい衝動にかられたが、口を押さえて必死に(こら)えた。

 忠次の左肩に突き出た槍はひねりながら抜かれた。

 槍が抜かれると血が溢れ出し、忠次の白い着物が真っ赤に染まった。

 血の付いた槍は(わら)で拭われた。

 右側の男が槍の血を拭っている間に、左側の男が忠次を串刺しにしていた。

 右肩に槍の穂先が突き出していても、忠次は悲鳴を上げるわけでもなく、何でもない事のように遠くを見つめたまま、薄ら笑いを浮かべていた。

 何という男だ‥‥‥

 橘屋は呆然としたまま、忠次を見ていた。

 見物人たちは顔を(おお)ったり、うつむいたりして、必死に心の叫びを押さえていた。

 休む間もなく、槍は交互に突き入れられた。

 五回までは橘屋も数えながら見ていたが、その後は見ている事ができなかった。

「アリャー、アリャー」と掛け声が何度も繰り返された。

 人間の声とは思えない悲痛な叫びが橘屋の後方から聞こえ、顔を上げると忠次の首はうなだれていた。

 すでに忠次の体は真っ赤に染まったぼろ雑巾のようになり、脇腹からは臓物(はらわた)がはみ出していた。

 死んでいるのは確実だった。

 それにも拘わらず、奇妙な掛け声と共に交互に槍は突き続けられていた。

 悲鳴はいつの間にか、御題目に変わった。

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげえきょう)、南無妙法蓮華経‥‥‥」

 地の底から聞こえて来るような御題目がお仕置き場を包んでいた。

 橘屋も思わず両手を合わせ、御題目を唱えた。

 これでもか、これでもかと突いていた槍は検使役の合図でようやく止まった。

 役人の一人が忠次の死骸を見上げ、検使役に何事かを告げた。

 検使役は重々しくうなづいた。

 ようやく、終わったかと橘屋は溜め息を付いた。

 しかし、それが終わりではなかった。御丁寧に忠次の首めがけて(とど)めの槍が繰り出された。

「キャー!」という大きな悲鳴が聞こえた。

 悲鳴のした方を見ると若い女が狂ったようにわめきながら暴れていた。

 警固の者たちが見物人をかき分けて行ったが、その前に一緒にいた者に取り押さえられて、後ろの方に連れて行かれた。

 狂うのも無理はないと橘屋は首を振りながら視線を元に戻した。

 役人たちが逃げるようにして、お仕置き場から去って行くところだった。

 見物人たちも青ざめた顔をしながら、一緒に来た仲間と言葉を交わす事もなく帰って行った。

 忠次の流した血を隠すかのように、雪が本降りになって来た。

 橘屋は改めて、忠次の残骸に両手を合わせ、冥福(めいふく)を祈ると荷物を背負い、近江へと向かった。

 忠次の遺体は厳重な警固の中、磔にされたまま、三日二夜、(さら)された。

 三日目の晩、加部安によって埋められ、菩提(ぼだい)(とむら)われたが、忠次の首と右腕は何者かに盗ま;れたという。







国定忠次の仕置場




国定忠次一代記の創作ノート

1.国定忠次の年表 2.『群馬県遊民史』より 3.『上州路』より 4.『東村誌』より 5.『大前田栄五郎の生涯』より 6.お鶴・お町・お徳・お篠・お貞の略歴 7.百々村の紋次の略歴 8.大前田栄五郎の略歴 9.日光の円蔵の略歴 10.島村の伊三郎の略歴 11.三ツ木の文蔵・国定の清次郎・五目牛の千代松の略歴 12.木崎宿の左三郎・木島の助次郎・三室の勘助の略歴 13.『やくざの生活』」より 14.『日本侠客100選』より 15.「侠客国定忠次一代記」のあらすじ、主要登場人物、忠次の生きた時代背景




目次に戻る     次の章に進む