酔雲庵


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし

井野酔雲






置いてけ堀




 朝、目が覚めると一九は知らない部屋で寝かされていた。頭がグラグラして、喉がカラカラに渇いている。隣りを見ると月麿が大口を開けて(いびき)をかいていた。

 一九は昨夜(ゆうべ)の事を思い出してみた。

 駒吉は可愛い芸者だった。俺が書いた黄表紙やら滑稽本をかなり読んでいて、もう前から、俺の事が好きだったという。うまく口説き落としたはずだった。宴がお開きになって、村田屋の旦那や京伝先生たちが帰り、草津に向かう津の国屋の旦那と都八(とっぱち)、俺と月麿はそれぞれ相方の芸者と一緒に残ったのは覚えている。俺は駒吉を連れて泊まり部屋に移ったはずだった。本当なら、駒吉と一緒に寝ているはずなのに、どうして、月麿と一緒に寝ているのか、まったく覚えていない。調子に乗って、つい、飲み過ぎてしまったようだ。

「おい、起きろ」

 揺り起こすと月麿は寝ぼけて、ニヤニヤしながら夢吉の名を呼んだ。

「まったく、幸せな野郎だぜ」

 一九は月麿をたたき起こした。

「おう、あれ、ここはどこだ」

「そんな事ア、知るか」

「あれ、夢吉‥‥‥いや、違う、宮次だ。宮次はもう(けえ)ったのか」

「なにを言ってやがる。どうやら、村治の旦那にはめられたらしいぞ」

「えっ」と月麿は体を起こして、頭を抱えた。

「いてて、畜生、飲み過ぎたようだ」

「まったく、何をやってるんでえ。だらしねえ野郎だ」

「そんな事言ったってよお、うまく行ってたのに、こいつはどうなってんだ」

(だま)されたんだよ。村治の旦那にうまく、やられたってえわけよ。初手(しょて)から草津に連れて行くなんざ嘘っ八だったに違えねえ。俺たちをさんざ喜ばせておいて、津の国屋の旦那はさっさと草津に行っちまったのさ」

「そんな‥‥‥それじゃア、俺たちはどうなるんだ」

「見事に置いてけ堀をくらったんだ。どうもこうもねえ。夢吉の事アきっぱりと諦めるこった」

「そんな‥‥‥今更、諦められやしねえ。俺ア何が何でも草津に行く。絶対に行きやすからね」

「勝手にしやがれ」

 尾花屋の娘分、お滝に送られ、情けない顔をして尾花屋を出た二人は空を見上げた。今にも雨が降りそうな曇り空だった。時刻はすでに四つ(午前十時)を過ぎている。お滝の話によると、津の国屋の旦那は今朝早く、旅立って行ったという。

 昨夜、浮き浮きしながら乗り込んだのが、まるで、夢だったかのように惨めな気持ちだった。村田屋の旦那に腹が立ったが、この前、騙しているので怒るわけにもいかない。二人は猪牙舟(ちょきぶね)に乗る元気もなく、とぼとぼと歩いて帰った。

 門前仲町から油堀に沿って佐賀町に出る。白壁の土蔵が建ち並ぶ佐賀町通りを抜け、悠々と流れる大川を左手に眺めながら、二人は無言で歩いた。時々、顔を見合わせても、出るのは溜め息ばかり、それでも、根っからの楽天家である二人はそう簡単にはくじけない。両国橋を渡る頃にはすっかり立ち直り、少しでもいいから村田屋から金を借りて、津の国屋を追いかけようとうなづき合っていた。

 水茶屋や(むしろ)囲いの見世物(みせもの)小屋が立ち並ぶ両国広小路をわき目も振らずに通り抜け、通油町へとまっしぐら。村田屋に顔を出すと番頭の徳次郎がヘラヘラ笑いながら、旦那の部屋に案内した。

 治郎兵衛は何事もなかったような顔をして、深刻な顔で無心(むしん)する二人の話を黙って聞いている。話し終わると二人の顔をまじまじと見比べ、急に大笑いした。

「どんな(つら)して現れるか、楽しみに待っていたんだ。うまく、騙されたのう。いい気味だ」

「もう、意趣返(いしゅげえ)しはすんだんでしょう。旦那、お願えしますよ。貸して下せえ」

 月麿は両手を合わせて何度も拝んだ。

「ハッハッハ、しかし、二人とも酒が強いのう。昨夜(ゆうべ)、おまえたちを酔い潰すのにえらい苦労したぞ」

「みんな、ぐるだったんですか」と一九は聞いた。

「ああ、そうだ。芸者衆もみんなぐるさ。駒吉も宮次もうまくやってくれた」

「ひでえなあ。草津に連れて行くってえのも嘘だったんですね」

 村田屋の旦那はクスクスと思い出し笑いをしながら、(ふところ)から紙包みを取り出した。

「何です?」

「前金だ。津の国屋の旦那から先生たちに渡してくれと頼まれたんだ」

「えっ、それじゃア置いてかれたんじゃねえんですね」

「ああ、今晩、板橋宿の伊勢屋で待ち合わせて明日から旅立ちだ」

 一九が紙包みを受け取ると一両小判が六枚も入っていた。

「さすが、津の国屋の旦那だ。やる事が憎いねえ。これだけ、ありゃア鬼に鉄棒(かなぼう)、弁慶に薙刀(なぎなた)(ほとけ)蓮華(れんげ)ってえもんだ。ありがたく頂戴いたします」

「板橋と言やア宿場女郎がいやすねえ」と月麿がニコニコして言う。

「ああ、板橋には大勢の飯盛(めしもり)がいるらしいな。言葉つきは田舎っぽいが、なかなか、いい女子(おなご)もいるとの事だ。でもな、伊勢屋は旅人宿なんだよ。女郎はいねえそうだ」

「なんだ、つまらねえ」

「おめえ、何しに草津に行くんだ」と一九は月麿を肘で突く。

「夢吉に会う(めえ)に、女郎遊びなんかしていいのか。言い付けてやるぞ」

「そいつアかなわねえ。つれえがじっと辛抱(しんぼう)と行くか」

「そうさ。おめえは女子を近づけちゃアならねえよ。俺は関係ねえからな、存分に旅を楽しむぜ」

「そいつはずるい。帰って来てから、おかみさんに言い付けますぜ」

「おいおい、そりゃねえぜ」

「まあ、気を付けて行って来てくれ。仕事の事も忘れんようにな。面白い土産話を楽しみにしてますよ」

 二人が浮き浮きしながら一九の長屋に帰ると、お民が鬼のような顔をして待っていた。

「おまえさん、今頃、どこから帰って来たんです」

「いや、なに、ちょっと村治の旦那にはめられてな」

「深川の芸者衆と遊んで来たんですね」

「いや、そうじゃねえって。うまく、騙されて、酔い潰れちまったんだ」

「嘘ばっかり。そんな下手(へた)な嘘をついて、まったく」

「嘘じゃねえ。月麿に聞いてみろ」

「同じ穴のむじなでしょ」

「おかみさん、本当なんだ」と月麿が言っても、お民は取り合わない。

「村治の旦那に騙されて、俺たちゃア酔い潰れちまったんだ。旦那に聞いてみりゃアわかる」

「旦那には今朝、たっぷりと話を聞きました。あの二人は芸者と仲良くなって、泊まり込んじまったって言ってました」

「冗談じゃねえ。芸者衆も旦那とぐるになって俺たちを騙したんだ」

「旅に行って恥をかかないようにって、あたしがせっかくお(あし)の工面をしてたっていうのに、ええ憎らしい。もう、知らない。おまえさんなんか、さっさと草津に行って、向こうの田舎芸者と一緒になって帰って来なくたっていい」

 お民は奥の部屋に入ると大声で泣き出してしまった。

「まいったなア」と一九は頭を抱えながら、月麿を見る。

「これじゃア、旅立てねえぞ。おい、おめえ、何とかしてくれ」

「そんな事言ったって、夫婦喧嘩に他人が口出しすりゃア、余計、悪くなるっていうぜ」

「まったく、旦那もひでえ事を言いやがる」

 一九は仕方なく、お民を慰めるために部屋に上がった。何を言っても、お民は泣くばかりでどうしようもない。一九は二度と深川には行かない。吉原にも行かない。両国や浅草の水茶屋にも行かない。決して、浮気はしませんと誓い、起請文(きしょうもん)まで書かされてしまった。指を切って血判を押すとお民は急にクックックと笑い出した。気が違ってしまったのかと思っていると笑いながら、

「今朝、旦那からみんな聞いたのよ。そして、おまえさんが帰って来たら、思い切り怒って、いじめてやれって言われたの。そうでもしないとおまえさんの浮気癖は治らないって」

「なんだ、おめえ、芝居(しべえ)だったのかよ。くそっ、冗談しっこなしだぜ。まったく、とんだ目にあった」

「でも、この起請文はちゃんと預かっておくわ。もし、何かあったら、これがものを言うのよ。ばちが当たるんだから」

「わかった、わかった。今後、浮気は決していたしません」

「おまえさん、これ」とお民はお守りと一()金を四枚、一九に渡した。

「おめえ、どうしたんだ、一両も」

「もしもの時のために取っておいたのよ」

「そうか‥‥‥すまねえなア。でも、そいつはおめえが取っておけ。津の国屋の旦那から仕事の前金を貰ったから、それで何とかなる」

「でも、旅に出たら何があるかわからないし」

大丈夫(でえじょぶ)だ。旦那が一緒だからな、銭の心配はいらねえ。おめえこそ留守を守るのが大変(てえへん)だ。そいつは持っていた方がいい」

「そう。それならそうする。気をつけてね」

「おう。おめえこそ、体に気をつけるんだぜ」

 うなづくお民を見つめる一九。見ちゃアいられねえと月麿は井戸端に逃げる。

 洗い物をしていた徳次郎のおかみさんが小声で月麿に(ささや)いた。

「先生、悪い(やまい)をわずらって草津に行くんだって。おかみさんも可哀想にねえ」

「誰でえ、そんな事を言ったのは」

「誰って、長屋の(もん)はみんな知ってるよ。先生も遊び好きだからねえ。うまく治るといいけどねえ」

「そうだな」と月麿は否定もせずにうなづいた。

 この頃、草津の湯に行くと言えば、誰もが思い当たるのが、女郎遊びの果てに瘡毒(そうどく)(梅毒)を患い、治療をしに行くのだろうという事だった。殺菌力の強い酸性の温泉によって、梅毒は完治したのである。

 当時詠まれた川柳(せんりゅう)にも、

 隣りでも草津へ立つは知らぬなり

 夫婦連れ草津に行くは腐れ縁

 江戸で病み笹湯を浴びに草津まで

 とか色々と、その状況を詠んだ句があった。

 ようやく一騒動も無事にすみ、一九と月麿は旅支度をして板橋宿へと飛んで行った。





両国橋

両国橋








冗談しっこなしの創作ノート

1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物




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