酔雲庵


信長の夢

井野酔雲

信長の夢 キンドル版








 青く不気味な三日月が出ていた。

 天正十年(一五八二年)の五月、琵琶湖に突き出た安土の山の上に、この世の物とは思えない程、絢爛(けんらん)豪華な五層の楼閣(ろうかく)が月明かりに浮かび上がっていた。高く積んだ石垣の上にそびえ建つ、その楼閣は『天主(てんしゅ)』と呼ばれ、生きながら神になろうとした男、織田信長の居城(きょじょう)であった。

 その天主内のきらびやかな一室で信長はうなされていた。汗をびっしょりかき、苦しそうに(うめ)きながら、「許せん!」と怒鳴ると目を覚ました。

 隣の部屋から小姓(こしょう)が刀を構えて部屋の中を(うかが)った。信長は何でもないと言うように手で合図をした。小姓は頭を下げると下がって行った。

 ‥‥‥悪い夢を見ていた。

 最近、毎日のように同じ夢を見ては、夜中に目が覚めた。

 自分が何者かに殺され、子供たちも妻や側室(そくしつ)たちも皆、無残に殺されて、天下を奪われる夢だった。夢の中では、自分を殺す者が何者か分かり、くそ、おぬしなどにやられるか、と怒鳴るが、目が覚めると、そいつが誰だったのか、どうしても思い出せなかった。

 今、この世に自分を倒す程の者がいるとは到底考えられない。

 甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄は九年も前に亡くなり、武田家もついこの間、滅び去った。越後(新潟県)の上杉謙信も四年前に死んだ。長年、苦しめられた本願寺の一揆も崩壊した。今、信長が恐れる者は、この世に一人もいなかった。

 一体、誰が、このわしを殺すんじゃ?

 わしを殺して天下を手に入れる奴は何者なんじゃ?

 ‥‥‥くそ! 分からなかった。

 信長は額の汗を拭うと天井を睨んだ。

 今まで自分が死ぬなどという事を考えた事もなかったが、武田家を滅ぼして凱旋(がいせん)してからというもの、やけに、死というものが気になっていた。

 親父は四十二歳で亡くなった。わしは、すでに四十九歳になっている。若い頃から五十年の生命(いのち)と割り切って、今まで生きて来た。もうすぐ、その五十歳になる。

 わしはもうすぐ死ぬんじゃろうか?

 わしが死んだ後、天下はどうなってしまうんじゃ?

 (せがれ)どもがわしの跡を継いでくれるのか?

 いや、奴らじゃ無理じゃろう。武田家と同じように、織田家も滅びて行くのかもしれん。

 信玄の跡を継いだ勝頼は親父を越える事はできなかった。わしの伜どもも、わしを越える事はできまい。そうなると、誰が天下を取るんじゃ?

 家康(徳川)か?

 奴が、わしの一族を殺して天下を取るのか?

 いや、奴にそんな事はできまい。となると誰じゃ?

 権六(ごんろく)(柴田勝家)の奴か?

 光秀(明智)か?

 秀吉(羽柴)か?

 それとも、小田原の北条か?

 ええい、分からん‥‥‥

 誰だか分からないが、自分を殺そうとする奴は絶対に許せなかった。

 信長は隣の部屋で控えている小姓に、「水じゃ!」と怒鳴った。










 信長は琵琶湖を眺めながら、お茶を飲んでいた。

 天主の四階、屋根の上に張り出した四畳半の茶室で、弟の源五郎(後の有楽斎(うらくさい))を相手に茶の湯を楽しんでいた。

 梅雨入り前のいい天気だったが、信長は浮かない顔をしている。夢の事がまだ気になっていた。

「おい、源五、わしが死ぬとどうなる?」と信長はぼそっと言った。

 源五郎は信長の言葉が聞こえなかったのか、『九十九茄子(つくもなす)』と呼ばれる名物茶入れに見入っていた。

「源五!」と信長は怒鳴った。

「はぁ?」と源五郎はのんびりと顔を上げて、ぼんやりと信長を見た。

「おぬしはのんきでいいのう」と信長は馬鹿にしたように言ったが、源五郎は馬鹿にされる事には慣れているのか、

「それだけが取り得でございます」とケロッとしていた。

「源五、死ぬとどうなるんじゃ?」

「人は死ぬと、極楽か地獄に行くと聞いておりますが‥‥‥」

 信長は源五郎を(にら)むと、「このボケ!」と怒鳴った。

「人の事など、どうでもいいわ。わしが死んだら、どうなるかと聞いておるんじゃ」

「まさか、兄上が死ぬなどと‥‥‥」

「もしもの話じゃ、わしが死んだら、天下はどうなるんじゃ?」

「今、兄上が亡くなれば、天下は大変な事となりましょう」

「源五、わしの死に(ざま)はどんなじゃと思う?」

「兄上はきっと、大往生(だいおうじょう)するに違いありません」

(たたみ)の上でか?」

「はい、勿論でございます」

「嘘言うな。わしが畳の上で大往生じゃと‥‥‥わしには似合わんわ」

「似合わんと申しても、死は突然、やって来るものでございます。たとえ、兄上といえども、死に方を自分で選ぶ事などできません」

「このわしにもできん事があったか‥‥‥」

「はい。死に方を選ぶ事など、誰にもできません」

「死に方は選べんのか‥‥‥」

 信長はお茶を飲み干すと目を細めて、また、琵琶湖の方に目をやった。

 源五郎は首をかしげながら信長を見ていたが、すぐにまた、手に持ったままの茶入れを熱心に眺めた。










 日暮れ頃、信長は安土城内にあるハ見寺(そうけんじ)宿坊(しゅくぼう)の奥の間にて、愛宕山(あたごやま)の山伏、西之坊とひそかに会っていた。側近の森蘭丸らは入り口近くの部屋で控えていた。

 西之坊は信長の祈祷師(きとうし)である。祈祷など一切信じない信長が祈祷師と会うのは不思議にも思えるが、西之坊と信長の付き合いは古かった。信長が「うつけ者」と呼ばれていた十代からの付き合いで、回りの者たちも西之坊だけは例外なのだろうと納得していた。

 信長が西之坊と会うのは、勿論、祈祷をしてもらうためではない。祈祷師というのは表向きの姿で、実は忍びの者である。その事を知っているのは信長だけであった。

 髪も(ひげ)も真っ白で、もうかなりの年なのに、相変わらず、身が軽く、忍びの術も衰えてはいなかった。ある日、突然、信長の前に現れては重要な情報を提供してくれる事が何度もあった。しかし、西之坊は一度も信長から報酬を受け取ろうとはしなかった。

 不思議な男であるが、信長は、この男を気に入っていた。すべての者が自分を恐れ敬い、顔色を窺いながら近づいて来る中で、西之坊だけは昔と同じく、自分に対して対等に口を利いて来る。今の信長にとって、腹を割って話のできる唯一の男だった。

 西之坊と信長は不動明王の仏壇の前で、大の字になって寝そべったまま話をしていた。

「どうした? つまらなそうな(つら)をしとるのう」と西之坊は横っ腹を掻きながら言った。

「ああ、つまらん」と信長はしかめっ面で、天井を睨みながら、

「天下を取るのも飽きて来たわ」と独り言のように言った。

「ほう。おぬしの夢じゃろうが」

「ああ、確かに夢じゃった‥‥‥尾張(おわり)にいた頃、このわしが天下を取る事など、まったくの夢じゃった。誰に言ったとて、笑いもんじゃ。わしの事をみんなして、大うつけと呼んでおったわ」

「そうじゃ。あの頃のおぬしは本物の大うつけじゃったのう。わしは、そこに惚れたんじゃ‥‥‥未だに、おぬしとこうしておるとは不思議な縁じゃのう」

「あの頃は、天下を取る事など遠い夢じゃった。死に物狂いで、夢に近づこうと生きて来た。まさしく、それは夢だったんじゃ‥‥‥しかし、今のわしにとって、天下を取る事などなんでもない。わしが何もしなくても、天下の方から転がり込んで来るわ」

「まあ、そうじゃろうの。明日、勅使(ちょくし)がここに来る。おぬしを将軍にさせてやるそうじゃ。どうする、将軍になるか?」

「本当か?」と信長は西之坊の方に顔を向けた。

 西之坊は天井を向いたまま、股座(またぐら)をボリボリ掻いていた。

「本当じゃ。勧修寺(かんじゅうじ)殿が上臈(じょうろう)衆を連れて、こっちに向かっておるわ」

「将軍か‥‥‥将軍になって幕府を開くのか‥‥‥つまらん」

「将軍にはならんのか?」

 信長はまた、天井を見上げると鼻糞(はなくそ)をほじくり始めた。

「つまらん。一時は将軍になろうと思った事もあった。天皇になってやろうと思った事もあった。しかし、今のわしなら、どっちも簡単な事じゃ。簡単な事など、やってみた所で面白くもなんともない」

「ほう、それじゃあ、これからどうするんじゃ?」

「それが分からんのよ。やりたい事は、もう、すべてやってしまったわ」

「そうじゃろうの。欲しい物はすべて手に入れたし、立派な御殿も建てた。あまりにも多くの人間も殺して来たしのう。罪もない人間を数えきれん程、殺して来たからのう」

「おぬし、わしを責めてるのか?」

 信長は眉間(みけん)にしわを寄せて西之坊を睨んだが、西之坊は知らん顔して顎髭(あごひげ)を撫でていた。

「少々、やり過ぎたようじゃのう」

叡山(えいざん)の事を言っておるのか?」

「いや、叡山の事は仕方あるまい」

「それじゃあ、一向衆の事か?」

「そうじゃ。長島ではやり過ぎたような気がするがのう」

「あれはわしのせいではない。阿弥陀如来という化け物のせいじゃ」

「荒木摂津守(村重)の時はどうじゃ?」

「あれは見せしめじゃ。わしに逆らった罰じゃ。女子供を無残に死なせたのは村重じゃ」

「確かにのう、摂津守は女子供を見捨てて逃げ出した。しかし、七百人もの罪もない女子供を殺すのはやり過ぎじゃ。しかも、残酷な見世物(みせもの)にした」

「何が言いたいんじゃ?」

「何でも過ぎると身を滅ぼす事になる」

「ふん。このわしに刃向かう程の者がおると言うのか?」

「いるかもしれん」

「誰じゃ?」

「さあのう‥‥‥」

 信長は丸めた鼻糞を弾き飛ばすと起き上がって座り込んだ。

「西之坊よ。わしの最期をどう見る?」

「おぬしの最期か」と西之坊は初めて信長の方を見た。

 信長は珍しく真剣な顔をして西之坊を見つめていた。

「あまりいい最期じゃなさそうじゃの」

「どんな死に様じゃ?」

「この先、おぬしが(いくさ)で死ぬ事はあるまい。おぬしの代わりに戦をしてくれる者が大勢おるからのう。そうなると、老いぼれるまで生き伸びて、(みじ)めな(じじい)になって、糞や小便を垂れ流しながらくたばるか‥‥‥」

「何じゃと?」と信長は怒鳴ったが、西之坊は構わず話を続けた。

「あるいは、何者かにひそかに暗殺されるかじゃろうのう」

「誰が、わしを暗殺するんじゃ?」

「おぬしに恨みを持っている奴は大勢おるからの。いつか、おぬしが安心した時に不意にやられるんじゃ」

「暗殺か‥‥‥おぬしのような忍びにやられるのか?」

「忍びと言えば、去年、おぬしにやられた伊賀者どもは死に物狂いで、おぬしの生命(いのち)を狙っておるぞ。ここの城下にも、かなり潜伏しておるようじゃ。気を付ける事じゃな」

「伊賀者などにやられるわしではないわ‥‥‥もしかしたら、おぬしも伊賀者なのか?」

「いや、昔、甲賀(こうか)飯道山(はんどうさん)にいた事があるがの、伊賀者ではない。安心しろ」

「おぬしは、わしを殺さんのか?」

「おぬしを殺したところで、わしが天下を取れるわけでもないからの。長い間、わしはおぬしのやる事を見て来た。それだけで充分に楽しかったわ。おぬしの死に様だけは見たくないわ。その前に死ぬ事にするかの」

「おぬしはどんな死に方をするんじゃ?」

「わしか‥‥‥わしは山奥に()もって、ひそかに死ぬさ」

「山奥でか‥‥‥」

「おぬし程ではないがの、わしはわしでやりたい事はやって来たつもりじゃ。おぬしが将軍になる姿を見たら、山に籠もろうと思っておったが、おぬしにその気がないのなら、そろそろ、山に籠もるかのう」

「ちょっと待ってくれ。勝手に山に籠もるな。もう少し待ってくれ」

「何か、面白い事でもやるのか?」

「いや、まだ分からんが、最後に、おぬしの力を借りる事があるかもしれん」

「ふん、いいじゃろう。もう少し、おぬしに付き合うか」

「まだ、何だか分からんのじゃが、何か、やらなければならん事があるような気がするんじゃ」

「ほう、将軍になる事よりも、大事な何かがあると言うのか?」

「ああ、大事な事じゃ。一番肝心な事じゃ」

 信長は刀をつかむと立ち上がった。

「風呂に入った方がいいぞ」と言うと、寝そべったままの西之坊をおいて部屋から出て行った。

 西之坊はきょとんとした顔で信長を見送りながら、相変わらず股座を掻いていた。










 その夜、信長は最近迎えた若い側室、小吉(こきつ)の部屋に来ていた。

 小吉はこの辺りの農家の娘だった。信長が安土の城下を見回っている時、市場で野菜を売っている娘と出会い、目を疑いたくなる程、驚いた。その娘は、かつて、信長が本気で惚れた女、吉乃(きつの)に瓜二つだった。みすぼらしい着物を着てはいたが、顔付きから、しゃべり方までそっくりだった。信長は思わず馬から飛び降りて、娘の前に立った。

 娘は驚いて(おび)えたが、どうする事もできなかった。信長は何も言わず、娘の顔をじっと見つめていた。信長は家来に命じて、娘の売っていた野菜をすべて買わせると馬に乗って去って行った。城に戻っても、その娘の事が忘れられなかった。

 吉乃は灰と油を扱う商人、生駒(いこま)家宗の娘だった。商人と言っても江戸時代以降の商人とは違い、武力を持ったれっきとした武士だった。当時、生駒屋敷には家宗を慕って、諸国から集まって来た浪人者が数多く居候(いそうろう)していた。うつけ者と呼ばれていた頃の信長も、各地の情報を手に入れるために、清須(きよす)から馬を走らせ、時々、顔を出していた。西之坊も生駒屋敷でゴロゴロしていた仲間の一人で、生駒屋敷において信長と出会い、信長に興味を持ったのだった。藤吉郎と呼ばれていた頃の秀吉や、秀吉の家臣となる蜂須賀小六、前野将右衛門なども、生駒屋敷に出入りしていた者たちだった。

 吉乃は信長の従兄である土田(どた)弥兵次のもとに嫁いでいたが、弥兵次が戦死したため実家に戻って来た。弘治二年(一五五六年)九月の事であった。信長は吉乃を一目見て惚れてしまった。信長二十三歳、吉乃十九歳だった。当時、信長には正妻として美濃の斎藤道三の娘、胡蝶(こちょう)がいたため、信長は吉乃を生駒屋敷に置いたまま側室とした。

 吉乃は翌年、信長の長男、信忠を産み、その翌年には次男、信雄、そのまた翌年には長女、徳姫を相次いで産んだが、その後、体の具合が悪くなり、二十九歳で亡くなってしまった。信長は吉乃の死後、しばらくは何も手がつかず、茫然と日々を過ごしていた。吉乃が亡くなってから、すでに十六年も経ち、大勢の側室に囲まれていても、未だに、吉乃の面影を忘れる事ができなかった。その吉乃に瓜二つの娘がいた。その娘は信長が初めて会った頃の吉乃にそっくりだった。

 信長は森蘭丸に命じ、娘を丁寧に連れて来いと命じた。娘は信長の側室になり、小吉と名付けられた。

 小吉と一緒にいると、信長は不思議と三十年近くも昔に戻ったような錯覚を覚えた。今の自分を忘れ、若返ったようにはしゃいでいた。吉乃にしてやれなかった様々の事を、この娘にしてやろうと思った。この娘のためなら、何でもしてやろうと思っていた。

「小吉、お前の夢は何じゃ?」

 信長は小吉の若々しい肌を眺めながら聞いた。

「夢ですか?」と小吉は目をあけた。

「そうじゃ、お前の夢じゃ」

「ここに来る前は、あたし、お侍さんのお嫁さんになるのが夢でした」

「ほう、武士の嫁か」

「でも、こうして、お城の中で暮らすようになってからは、あたしの夢は、どこか静かな所で、お殿様と二人っきりで暮らす事でございまいす」

「わしと二人っきりで暮らすのか?」

「はい」と笑うと小吉は信長の体にまたがり、信長の引き締まった胸を撫でた。

「二人っきりで、小さなおうちで、のんびりと暮らします」

「ここから出て、小さなうちで暮らすのか?」

「はい。ここには贅沢な物がいっぱいあります。でも、お殿様は忙しくて、あたしの所にあまり来てくれません。あたし、お殿様とずっと一緒にいたいの」

「お前とずっと一緒にいるのか?」

「はい。朝から晩まで、そして、夜もずっと」

「一緒にいるのはいいが、どうやって食って行くんじゃ?」

「二人で畑仕事をします」

「わしも畑仕事をするのか?」

「はい」

「わしは畑仕事など知らんわ」

「大丈夫です。お殿様なら、何だってできます」

「お前と二人で畑仕事をして暮らすのか‥‥」

「はい。きっと、楽しいと思います」

「そんな事は夢じゃ」

「はい、夢です。あたしの夢です」

 小吉は信長の体の上に倒れ込んだ。

「可愛い奴じゃ」と信長はニコニコしながら小吉の長い黒髪を撫でた。










 次の日、西之坊が言っていた通り、勅使(ちょくし)がやって来た。信長は歓迎し、贅沢な料理と南蛮(なんばん)の酒で持て成したが、はっきりとした返事はしなかった。

 将軍になろうと思えば、わざわざ、天皇から任命されなくても実力をもってなれると思っている。天皇は信長を将軍に任命する事によって、信長よりも優位な立場に立とうとしているが、今の信長なら、やろうと思えば天皇をすげ替える事も可能だったし、朝廷を潰す事も可能だった。

 去年までは本気でその事を考えていた。天皇家を潰して、自分を神と(まつ)る新しい天下を作ろうと思っていた。しかし、武田家を滅ぼしてからというもの、何となく、張り詰めていた糸が切れたかのように、そんな事はどうでもいいと思うようになっていた。やればできると分かっている事などやってみても面白くも何ともなかった。

 勅使は三日間、安土に滞在したが、信長の返事が得られないまま、肩を落として京都に帰って行った。

 勅使が帰った後、信長は一人、天主に登った。最上階から遠眼鏡(とおめがね)で雨に煙る琵琶湖を眺めながら、自分の死の事を考えていた。

 わしが死んだ後、世の中はどうなって行くんじゃろうか?

 それをこの目で見てみたいと思った。神ならばそれを知る事ができるに違いない。回りの者に自分の存在を神だと認めさせる事はできても、実際に神のように、すべてを見通す事はできなかった。

 自分がどんな死に様をするのかも分からない。年老いて(みじ)めな死に方はしたくなかったし、何者か分からない者に暗殺されるような死に方も絶対にしたくなかった。世間をあっと言わせるような死に方でなくては、自分にふさわしくはない。

 上杉謙信は酒を飲み過ぎて死んだと言う。

 武田信玄は女とやり過ぎて死んだと言う。

 どっちも大した死に方ではない。

「あっと言わせる死に方か‥‥‥」と(つぶや)きながら遠眼鏡を覗いていた。

 ふいに遠眼鏡を目から離すと、一人ニヤニヤしながら、

「あっと言わせる死に方か‥‥‥」と信長は何度も(うなづ)いていた。










 五月の十一日、安土の城下は賑やかだった。

 昼過ぎより、あちこちで笛や太鼓、法螺(ほら)貝が鳴り響き、大通りには露店がずらりと並んでいた。

 着飾った娘たちはキャーキャー言いながら道を行き交い、男衆はねじり鉢巻をして、金銀で飾られた神輿(みこし)を担いで練り回っていた。

 夜になると、天主は無数の提灯(ちょうちん)の明かりで飾られ、琵琶湖に浮かべた何艘もの船には松明(たいまつ)(とも)された。まるで、この世のものとは思えない、極楽を思わせるような華麗な夜景が出現した。この夜景を目にした者たちは、信長のお陰で、長く続いた乱世もまもなく終わるに違いないと確信していた。

 今日は前夜祭、そして、明日が安土城内にあるハ見寺(そうけんじ)の縁日であった。ハ見寺の本尊の生誕を祝って町中みんなが浮かれていた。その本尊とは信長自身だった。

 信長は自分自身を本尊として祀り上げ、安土を訪れる者、全員に『盆山(ぼんさん)』と呼ばれる奇妙な石を、自分の化身として拝ませていたのであった。

 祭りの日、信長はハ見寺の本堂で、南蛮人の衣装をまとって南蛮風の椅子に座り、神のごとくに振る舞い、祝いに訪れる者たちに気前よく金銀をばらまいていた。信長の左右には小姓(こしょう)たちが、やはり南蛮風の衣装で並び、後ろには侍女(じじょ)たちが天女のような格好をして控えていた。中でも弥介(やすけ)と呼ばれる身の(たけ)六尺余り(約百八十五センチ)もある黒人の存在は目立っていた。

 誰もが信長の生誕を祝って浮かれ騒いでいたが、祭りの最中にも、信長の機嫌をそこねて首をはねられた者が数十人いた。










 祭りの三日後、信長は明智光秀と会っていた。明日、徳川家康が安土に来るので、その饗応(きょうおう)役を命じるために、光秀の居城である坂本城から呼んだのであった。

 信長は上段の間の虎皮の上に座り、かたわらの文机(ふづくえ)の上に置いてある地球儀を回しながら光秀に段取りを話した。

 光秀はかしこまって話を聞いていた。

 家康が前回の(いくさ)褒美(ほうび)として駿河(するが)の国(静岡県)を与えられたお礼をするために安土に来るというのは聞いていた。そして、その饗応役を命じられるだろう事も予測していた。

 家康は信長の同盟者である。その家康を接待するとなれば、一軍の指揮を任せられる程の武将でなければならない。今、その任務に応じるべき武将は自分しかいなかった。他の武将たちは皆、戦をしている。柴田勝家は北陸で上杉軍と戦っている。滝川一益(かずます)は関東を平定するため上野(こうづけ)(群馬県)にいる。羽柴秀吉は備中(びっちゅう)(岡山県)で毛利軍と戦っている。そして、丹羽(にわ)長秀は信長の三男、信孝と共に四国征伐(せいばつ)に向かうため、今、戦の準備をしている。手があいているのは自分だけだった。

 四国征伐は絶対に自分が命じられるものと思っていた光秀は失望した。今まで四国の長曾我部(ちょうそかべ)氏との交渉を担当していたのは光秀だった。当然、四国征伐の総大将は自分が任命されると思っていた。ところが、その任は総大将に信長の三男、信孝、その補佐として丹羽長秀が任命されたのだった。総大将の信孝は信長の息子なので仕方がないとは思うが、丹羽長秀がその補佐をするというのは納得できなかった。信長がわざわざ、自分に活躍の場を与えないようにしているとしか思えなかった。

 光秀は得意そうに地球儀を回している信長を見ながら、自分の事をもう必要ないと思っているのだろうかと心配していた。林秀貞、佐久間信盛、安藤守就(もりなり)のように、自分も追放されてしまうのではないかと恐れた。

 佐久間信盛は石山本願寺攻めの総大将だったが、四年間にわたる包囲作戦を失敗し、怠慢(たいまん)であるとして高野山に追放された。林秀貞は織田家の家老であったが、二十年以上も前、信長に逆らったという無茶苦茶な理由で追放され、安藤守就は武田氏に内通したとして追放された。要するに、信長が必要ないと思えば、理由などに関係なく、所領を没収されて追放されてしまうのだった。そして、どんな言い訳をしようとも信長は一切聞かなかった。次は自分の番かもしれないと光秀は恐れた。

 家康を迎えるための段取りを一通り話すと、信長は上段の間から下り、光秀を誘って天主に登った。

 光秀は何事だろうと不思議に思いながら信長の後を追った。いつもの気まぐれだろうが、今日の信長はなぜか機嫌がいいようだった。信長は楽しそうに、各階がどうなっているのかを詳しく説明しながら登って行った。光秀がこの天主の中を見て回ったのは初めてではなかった。しかし、信長と二人だけで上まで行くのは初めてだった。

 安土城はまさに天下の主である信長が住むにふさわしい、(ぜい)の限りを尽くした建物だった。山の上にそびえ立つ、この天主を見上げて驚かない者は誰一人としていない。今まで日本にはなかった、まったく新しく豪華な建物だった。高い石垣の上に五層もある高い建物が載っている。三層までが和風建築で、その上に法隆寺の夢殿のような八角堂があり、その上に黄金色に輝く唐様(からよう)の仏堂が載っているという、信長にしか考え出せないような奇抜な建物だった。今までの日本建築にない様々な色と贅沢な黄金をふんだんに使って見る者を圧倒させた。

 外見は五層だが、内部は七階になっている。石垣の内部が地下一階の倉庫になっていて、石垣上の一階は公的な場として正式な対面の間もあり、客の接待のために用いられた。二階は信長の私的な場で、略式の対面の間、書院、居間、寝室などがある。三階は家族の住まいになっていて、奥方や側室、子供たちが暮らしていた。三階の屋根の上に、南と北に張り出した四畳半茶室の付いた屋根裏部屋があり、そこが四階になっている。五階の八角堂、六階の仏堂には、勾欄(こうらん)(てすり)の付いた回廊があり、展望台になっていた。

 各階は、狩野永徳(えいとく)一門によって描かれた障壁画(しょうへきが)で飾られ、和室だけでなく、中国風の部屋や南蛮風の部屋など、信長独自の部屋がいくつもあった。勿論、内装にも(まぶ)しい程の黄金が使われていた。

 信長は五階の八角堂まで行くと回廊に出て景色を眺めた。光秀は室内で控えていたが、信長に言われ、回廊まで出て回りの景色を楽しんだ。

「いい眺めじゃのう」と信長は言った。

「はい」と光秀は答えた。

「嘘、言うな。霧で何も見えんわ」

「しかし‥‥‥」

「もう、いい。おぬしの屁理屈(へりくつ)など聞きたくもないわ」

 信長は回廊を一回りすると振り返って、

「光秀よ。おぬしはいくつになった?」と聞いた。

「五十五になりましたが」と光秀は一歩、引き下がって答えた。

「ほう、五十五か‥‥‥」と信長は驚いたように光秀を見ていた。

「よう生きたのう」

「はい。お陰様で‥‥‥」と言ってから、光秀は後悔した。お陰様などと言うと、信長からまた皮肉を言われそうな気がしたが、信長は何も言わなかった。

「五十五か‥‥‥光秀よ、わしは幾つまで生きられると思う? 遠慮なく言ってみよ」

「それは‥‥‥多分、七十位まで生きるかと」

「七十じゃと? 馬鹿め、このわしに後二十年も生きろと言うのか?」

「はい。あと十年もしたら天下はすべて上様のものとなりましょう。その後の十年間、上様にはのんびりしていただきたいと思います」

「ふん。それで、わしはどのような死に方をするんじゃ?」

「勿論、御家族や家臣の者たちに囲まれて大往生となりましょう」

「くだらん。それは普通の人間の死に方じゃ。神であるわしの死に方ではない。神として、どんな死に方をすべきじゃと思う?」

「それは‥‥‥」

「おぬし程の知恵者でも、神の死に様は分からんのか?」

「はっ、ただ、耶蘇教(やそきょう)の神は(はりつけ)にされたとか、そして、復活したと聞いております」

「その事なら、わしも聞いたわ。磔など、神に似合った死に方ではないわ。わしは今まで何人もの奴らを磔にして来た。奴らが皆、神になったと言うのか?」

「いえ、それは‥‥‥」

 光秀は額の汗を拭くと、回廊から部屋の中に戻った。信長が何を考えているのか、光秀にはまったく分からなかった。

「しかし、復活というのは面白いのう。どうやって、復活したんじゃ?」

「それは‥‥‥」

 光秀はぼうっとしたまま、壁に描いてあるお釈迦(しゃか)様の絵を眺めていた。

「わしはのう、まもなく死ぬような気がするんじゃ」と信長は光秀に背を向けて、霧の琵琶湖を眺めながら言った。

「毎晩、同じ夢を見るんじゃ。何者かが、このわしを殺して天下を我物にしておるんじゃ。それが誰なのかが分からんのじゃよ。夢の中でははっきりと分かるんじゃがの、目が覚めると、そいつが誰なのか、どうしても思い出せんのじゃ‥‥‥光秀よ、わしを殺すのは誰じゃと思う?」

「‥‥‥」

「言えんのか?」と信長は振り返ると光秀を(にら)んだ。

「今の世に、上様を殺す程の者など、おるはずもございません」

「ふん。もしかしたら、わしを殺すのはおぬしではないのか?」

「滅相もございません。わたしにそんな大それた事など‥‥‥」

 光秀は真っ青な顔をして、かしこまっていた。

「まあ、おぬしにはできまいの。仮にできたとしても、おぬしには天下は取れまい。おぬしは自分が大将になるよりも、大将を補佐する役の方が似合っておる」

 確かに信長の言う通りだった。信長がいたからこそ、今の自分があるのだ。もし、信長が急にいなくなったら、自分はどうしたらいいのか、見当もつかなかった。

「一体、誰なんじゃ? わしが死んだ後、一体、誰が天下を取るんじゃ。その事が分からん事には死にきれんわ。のう、光秀よ」

「‥‥‥」

「下がれ」と言うと信長は光秀に背を向けた。

 光秀は頭を下げると階段を降りて行った。

 信長が突拍子もない事を言うのには慣れてはいたが、信長の口から死という言葉が出るとは思ってもみなかった。今までに何万人もの人を殺しておきながら、やはり、信長も死を恐れているのだろうか、と不思議に思った。信長は自分はまもなく死ぬと言っていたが、確かに今日の信長の顔付きは異様だった。死神にでも取り()かれたのだろうかと思いながら、光秀は天主を後にした。










 徳川家康が安土に来て三日目の昼過ぎ、光秀は信長に呼ばれた。

 何だろうかと不安を感じた。家康の饗応に落ち度はないはずだった。しかし、光秀は信長の側近の者たちに嫌われている事を知っている。誰かがまた、何か悪口を言ったのかもしれない、と恐る恐る信長の待つ二の丸庭園内の茶室に向かった。

 茶室には信長だけでなく、信長の弟、源五郎と愛宕山(あたごやま)の山伏、西之坊がいた。

 光秀は源五郎とも西之坊とも付き合いがあった。千利休(せんのりきゅう)の弟子である源五郎とは何度もお茶会をやったし、西之坊とはよく連歌会(れんがかい)を催していた。西之坊は山伏ではあるが、連歌師宗牧(そうぼく)の弟子でもあった。教養もあり古典にも詳しく、連歌師として生きて行く才能がありながら、そんな生き方を嫌って山伏として気ままに生きていた。

 光秀の顔を見るなり信長は、

「おぬしの饗応役はもう終わりじゃ」と言った。

 光秀は顔から血が引いて行くのを感じた。信長の口から次に出る言葉が恐ろしかったが、信長は、

「じれったいのう。さっさと上がらんか」と言っただけだった。

 光秀は源五郎と西之坊に挨拶すると茶室に上がった。二人とも、何となく様子が変だった。わざと光秀と視線を合わせないようにしているようだった。

 源五郎がお茶を()て始めた。

「サル(秀吉)から、今朝、知らせがあってのう」と信長は言った。

「あの馬鹿が応援を頼むって言うんじゃ。毛利は手ごわいから助けてくれと弱音を吐いて来おったわ。おぬしにも行ってもらおうと思ってのう」

「はっ」と光秀は頭を下げた。

 饗応役の事について怒鳴られるのではないかと思っていたが、違う話だったので一安心していた。しかし、秀吉の援軍として(いくさ)に行くのは、あまり、いい気はしなかった。

 秀吉は信長に気にいられて見る見る出世して行った。このまま毛利氏を倒せば、秀吉の立場は光秀を越える事は確実だった。光秀が援軍として活躍しても、手柄はすべて総大将である秀吉のものとなろう。今回の出陣は秀吉の出世を助けるために行くようなものだ。どうせ出陣するなら四国に行きたいと言いたかったが、光秀には言えなかった。

出雲(いずも)(島根県東部)と石見(いわみ)(島根県西部)の国はおぬしにくれるわ。その代わり、丹波(たんば)(京都府中部と兵庫県中東部)と近江(おうみ)(滋賀県)の志賀郡は召し上げる。いいな?」

「出雲と石見ですか‥‥‥」

「不満か?」

「いえ。しかし、出雲と石見の国は毛利の領国では」

「それをこれから、おぬしが取りに行くんじゃ。失敗したら、おぬしは浪人じゃな」

「そんな‥‥‥」

「浪人するのは嫌か?」

「それはもう、家臣どもが路頭に迷う事となりますので‥‥‥」

「可愛い家臣のためにも毛利を倒す事じゃな」と信長は笑った。

「浪人になったところで、おぬしは困るまい。わしに会う前は、浪人だったんじゃからのう。また、初めからやり直せ」

 光秀は愕然(がくぜん)となった。やはり信長は自分の事をもう必要としていない。きっかけさえあれば、自分を追放しようと考えているに違いないと思った。

 丹波の国と近江志賀郡を取り上げると言う。近江志賀郡の中心である坂本は叡山(えいざん)焼き打ちの時、潰滅(かいめつ)状態にあったのを光秀が苦心して復興し、光秀の本拠地とも言える領地だった。丹波の国は三年前に拝領し、反抗する国人たちを平定して、戦に疲れている領民のために年貢(ねんぐ)の免除をしたり、農地開拓のための治水工事をしたりして、ようやく治世も軌道に乗って来たところだった。それなのに突然、召し上げ、京から遠く離れた出雲と石見をくれると言う。失敗したら、もう帰る場所はないのだ。信長は自分が失敗する事を望んでいるに違いないと思った。

「どうした?」と信長が陽気に言った。

「もっと、嬉しそうな顔をしたらどうじゃ?」

 光秀は何も言わなかった。何を言っても聞いてくれない事は分かっている。追放という言葉が光秀の頭の中をぐるぐると駈け巡っていた。

 信長は楽しそうにニヤニヤしながら(うつむ)いたままの光秀を見ていた。

「いいか、よく聞け」と信長は力強い声で言った。

 光秀は苦しそうに歪んだ顔を上げた。

「おぬしはこれから坂本に帰って戦の準備をして亀山に行け。わしは六月の一日に数十人の供を連れて上洛し、本能寺に入る」

 信長がそこで話すのをやめたので光秀は(うなづ)いた。

「本能寺は知っておるな?」と信長は聞いた。

「はい」と光秀は答えた。信長がなぜ、そんな事を聞くのか分からなかった。信長が上洛した場合、本能寺を宿所とするのは決まっている事だった。

 よし、と言うように信長は頷いた。

「いいか、よく聞け。おぬしは六月一日の夜中に、すべての兵を引き連れて亀山から京に向かい、二日の明け方に本能寺を攻めろ」

「は?」

「は、ではない。本能寺を攻めるんじゃ」

「何と?」

「おぬしはわしを殺すんじゃ」

 光秀は自分の耳を疑った。源五郎と西之坊を見ると、二人とも俯いたままだった。

「これは命令じゃ。分かったか? もし、わしの命にそむいた場合、どうなるか分かっておろうな?」

「しかし、上様を殺すなどと‥‥‥」

「わしは死にはせん。抜け出す。しかし、信長という男は本能寺で死ぬんじゃ。いいか、わしの死に(ぎわ)じゃ。なるたけ派手にやるんじゃぞ。何なら京の都中、火の海にしても構わん」

 信長はぞっとするような気味の悪い顔をして大声で笑っていた。光秀の背中を冷たい汗が流れた。

「いいか、誰もがぶったまげる程、大袈裟(おおげさ)にやるんじゃぞ」

「しかし‥‥‥上様の御供の者たちはいかがなさいます。皆、逃げるのですか?」

「馬鹿もん。そんなに大勢で逃げ出したら、わしが死んだ事にはならん。皆、信長と共に死ぬんじゃ。わしの伜でも容赦はするな。奴らが死んだら、それもまた運命じゃ。天下を取る資格などないわ」

「そんな‥‥‥」

「光秀、この事を知っておるのは、今、この場にいる四人だけじゃ。信長を殺してから後は、おぬしの腕次第じゃ。うまくすれば、天下を取る事もできよう。わしはおぬしのやり方を高みの見物と洒落(しゃれ)込むわ。うまくやる事じゃな」

「しかし、上様、どうして、そんなに死に急ぐのです?」

「もう飽きたんじゃ。おぬしの言った通り、後十年もすれば、この天下がすべて、わしの物となろう。それは誰もが考えつく事じゃ‥‥‥わしは今まで誰も考えつかないような生き方をして来た。誰もが、あっと驚くような生き方をのう。後は誰も考えつかないような死に方をする事じゃ。誰もが、わしが今、死ぬとは思うまい。分かるか? それにのう、わしが死んだ後、この世がどう変わって行くのか、この目で見てみたくなったんじゃ。誰が天下を取るかをのう。いいか、派手にやれよ。西之坊を一緒に連れて行け。西之坊とよく相談して、失敗のないようにするんじゃぞ」

「‥‥‥」

 光秀は何と返事をしていいのか分からなかった。信長の命令は正気の沙汰とは言えなかった。気違いじみていた。完全に狂っていた。しかし、逆らえば所領を没収されて、追い出されるに決まっている。

 信長は死ぬ前に、本能寺にて盛大に最後のお茶会をやろうと言っていた。名物の茶道具をすべて持って行って、信長の死の道連れにしようと言っていたが、光秀の耳には入っていなかった。急に目の前が真っ暗になったような気がして、座っているのもやっとの事だった。お茶を飲んでも味なんか全然分からなかった。










 坂本城に帰った光秀は苦しんでいた。

 とんでもない命令だった。あんな命令をする主人がいるだろうか?

 とうとう狂ってしまったのか?

 もし、狂っているとしても、信長の命令に背く事はできなかった。

 本能寺を襲撃したとして、その後、どうしたらいいのだろう?

 信長を殺したとなれば、信長の家臣、すべてを敵に回す事になる。皆、信長の(とむら)い合戦じゃと、勇んで自分を攻めて来るだろう。信長を殺すという事は、彼らに天下を取らせるための大義名分を与える事を意味していた。誰もが自分を倒して、天下人になる事を望むだろう。

 柴田勝家は今、越中(えっちゅう)(富山県)で上杉氏と戦っている。羽柴秀吉は備中で毛利氏と戦っている。滝川一益は関東を平定するために上野(こうづけ)にいる。丹羽長秀は安土にいるが、まもなく、信孝と共に四国に渡るため大坂に向かうだろう。徳川家康も安土にいる。家康が兵を挙げるには本拠地の浜松に帰らなくてはならない。皆、遠くにいるにしろ、信長が殺されたとなれば、戻って来るのは確実だった。皆、すぐには戻って来れないだろうが、一月もすれば、誰かが攻めて来るだろう。その一月の間に近畿を平定して、味方を集め、充分な作戦を練って、敵を待ち構えなくてはならなかった。もう少し時があれば、誰かと手を組む事も可能だろうが、時はまったくなかった。天下人になるどころか、全滅するのは目に見えていた。

 何という事じゃ‥‥‥

 わしは今まで、何のために苦労して来たんじゃ。自分が死んだ後の事が見たいという信長の気違いじみた勝手な考えのために、自分の一生を棒に振ってしまうのか‥‥‥

 どうする事もできない自分が情けなかった。

 光秀は坂本城内の茶室に西之坊を呼ぶと、どうしたらいいものか相談した。

「仕方ありませんな」と西之坊は床の間に飾られた大灯(だいとう)国師の墨蹟(ぼくせき)を眺めながら他人事のように言った。

「しかし、信長が死ぬのもいいかもしれんのう。このまま生きておれば、次に狙われるのは天皇家じゃ。天皇家を潰して奴が天皇になって、例の気まぐれで、やりたい放題にやられたら、たまったもんではないわ」

「確かに、そうかもしれませんが‥‥‥」

 光秀は火箸(ひばし)を持って風炉(ふろ)の中に炭を並べていた。

「自分で死ぬと言い出したんじゃ。死に花を咲かせてやる事じゃな」

「上様はそれでもいいでしょうが、わしは困ります。上様を殺しても、わしは天下を取るどころか、一月もしないうちに攻め滅ぼされるでしょう」

「そうなるじゃろうな」

「困る」

 光秀は風炉の上に八角釜を載せた。その茶釜は信長から拝領した物だった。

「もう遅いわ。もし、おぬしが信長の命にそむいて本能寺を襲わなかったとする。そうしたらどうなると思う?」

「所領を没収されて追放されるでしょう」

「甘いな。信長はおぬしを裏切り者として殺すつもりじゃ。大軍がここに攻めて来て全滅じゃ。おぬしは勿論の事、一族の者は皆、(はりつけ)にされるじゃろうの」

「そんな馬鹿な‥‥‥」

「信長にとって、本能寺での壮絶な死は最期の大芝居じゃ。奴は自分の死までも、自分のやりたいようにしないと気がすまんのじゃよ。それを邪魔したとなれば、恨みも物凄いものとなろう」

「なぜ、そんな役をわしに命じたんじゃ?」

「おぬしが丁度、そばにいたからじゃろう。それに、おぬしなら仕損じる事はあるまいと思ったんじゃろう。運が悪かったんじゃよ」

「しかし‥‥‥」

「諦める事じゃ」

「上様は自分を殺して、その後、どうするつもりなんです?」

「さあのう、どうするつもりかのう。何か考えはあるじゃろうが、何も聞いておらん。ただ、しばらくは若い女子(おなご)と二人きりで、のんびり暮らすとか言っておったがのう」

「若い女子とですか‥‥‥」

「雨が降って来たようじゃ」と西之坊が庭を眺めながら言った。

 光秀も庭の方を見た。池の中に雨が波紋を作っていた。庭のほとりに紫陽花(あじさい)が咲いていた。紫陽花の花が光秀の目に新鮮に映った。毎日、見ている庭なのに、いつ紫陽花が咲いたのか、光秀には分からなかった。

「梅雨に入ったようじゃのう」

「梅雨ですか‥‥‥早いもんですな」

「時の経つのは、あっと言う間じゃ」

「あっと言う間か‥‥‥西之坊殿、ここだけの話ですが、上様は少々おかしくなってるんじゃありませんか?」

「そうかもしれんのう。バテレン(宣教師)どもの影響で、自分が天下に唯一の神じゃと思い込んでおる。おぬし、天主の最上階と五階の八角堂に何の絵が描いてあるか知っておるか?」

「ええ。最上階には三皇五帝、そして、孔子(こうし)とその弟子たち。八角堂には釈迦(しゃか)とその弟子たちが描いてありますが」

「その意味が分かるか?」

「上様が尊敬なさっている人々でしょう」

「あいつがそんな昔の人間を尊敬などするか。信長はのう、世の者どもが尊敬している釈迦だの孔子だの、すべてを描かせた部屋の真ん中に立って、お前らより、わしの方が偉いんじゃと思わせるために、ああいう絵を描かせたんじゃよ。あの部屋の真ん中に立ってみろ。描いてある絵が、すべて、自分の方を見ている事が分かるはずじゃ。しかも、よく見ると皆、神でも見ているような目付きをしておる。奴はのう、本気で天下に唯一の神になろうとしておるんじゃ」

 光秀は八角堂の中の絵を思い出していた。確かに、西之坊の言う通り、それらの絵は皆、部屋の中央を見ているようだった。あの部屋に入った時、何となく変な気がしたのは、それらの視線を感じたからかもしれなかった。そんな事を考えて、あんな絵を描かせるとは、異常としか言いようがなかった。

「それにのう。神や仏をあなどった罰だか知らんが、毎晩、夢にうなされておるそうじゃ。毎晩、夜中に目が覚めて、安らかに眠る事もできんそうじゃ。罪もない人間を数え切れない程、残酷に殺して来たからのう。奴らの亡霊に取り()かれておるのかもしれん。信長でいる限り、毎晩、うなされて眠る事もできんと思って、自分を殺す事など考えたのかもしれんな。可哀想な奴じゃ」

 西之坊は信長が可哀想だと言うが、自分の方がもっともっと可哀想だと光秀は思った。

 茶釜の中の湯までもが、情けない音を立てて沸いていた。光秀は水指(みずさし)から一(しゃく)すくうと、釜の中に水をさした。







10




 十日が過ぎた。

 光秀は毎日、悩みながらもどうする事もできず、武装した兵を引き連れて丹波の亀山城(亀岡市)に移っていた。

 亀山城には十三歳になる長男の十五郎がいた。父の跡を継ぐため、昼は汗びっしょりになって武芸の稽古に励み、夜は遅くまで勉学に励んでいる。この先、この息子の将来を保証する事はできなかった。父親として息子に何もしてやれない自分が情けなかった。うまくすれば生きながらえる事はできるが、その可能性は極めて低い。次男の十次郎は筒井順慶(じゅんけい)の養子になり、三人の娘は皆、嫁に行っている。長女は光秀の腹心である明智秀満の妻となり、次女は信長の甥である織田信澄の妻となり、三女は細川忠興(ただおき)の妻となっていた。嫁に行ってはいるが、この先、安心とは言えなかった。妻はもう六年前に亡くなっていたが、妻の死後に迎えた側室が一人いた。家族の者たちを突然、どん底に落とす事など、光秀にはできなかった。

 光秀は信長を恨んだ。殺してしまいたい程、恨んだ。皮肉な事に信長は自分を殺せと命令していた。

 信長の方は、夢の中で自分を殺すのが誰だか分からずに今まで悩んでいたが、自分を殺すのは光秀だと自分で決めたため、幾分、楽になっていた。楽になってはいても、例の夢からは解放されなかった。一日中、刀や槍を振り回してみたり、鉄砲を撃ってみたり、鷹狩りに行って馬を乗り回して疲れ果てて帰って来ても、夢にうなされ、必ず、夜中に目を覚ました。くたくたになるまで何人もの女を抱いてみても、やはり同じだった。寝不足が続き、精神はぼろぼろにまいっていた。

 家康は二十一日に安土を後にし、信長の近習、長谷川秀一に案内されて京都に向かった。同じ日に、信長の長男、信忠は源五郎と共に秀吉を応援するため、兵を引き連れて京都の妙覚寺に入った。

 亀山城にて、武将たちを集め、六月一日に出陣する、それまでに各自、準備を怠りなくせよ、と命じると光秀は西之坊を連れて愛宕山に登った。愛宕山に登りながら光秀は過去を振り返っていた。

 美濃(みの)(岐阜県)の長山(おさやま)城主の伜として生まれた光秀は、叔母が斎藤道三(どうさん)に嫁いだので、小さい頃より道三に可愛がられた。父親が十一歳の時、亡くなってしまったため、道三が父親代わりと言ってもいい程だった。道三のお陰で、兵書や古典など、あらゆる書物に触れる事ができ、連歌や茶の湯も教わった。それらの知識や教養が、信長に仕えてから役に立ったのだった。また、道三は武術にも熱心で、稲葉山の城下には武術道場もあり、光秀は武術の稽古にも励んだ。武術を身に付けた事によって、浪人してからも一人で生きて行く事ができたと言えた。

 二十九歳の時、道三と道三の長男である義竜(よしたつ)との間に争いが始まり、道三は敗れた。道三方だった光秀の長山城も落城し、光秀は浪人となって旅に出た。諸国を旅して、堺にて鉄砲を習い、その腕を見込まれて、三十六歳の時、越前(えちぜん)(福井県)の朝倉家に仕えた。四十歳の時、美濃を平定した信長と出会い、従妹(いとこ)胡蝶(こちょう)の口添えもあって信長に仕えた。

 十五年間、信長の天下取りを助けて戦に明け暮れ、あげくの果ては、この有り様だった。決行の日が後四日と迫って来ている今になっても、光秀の心は決まらなかった。

 信長を殺し、そして、自分も何者かに殺されるだろう。信長の芝居に付き合って死ぬ程、馬鹿な事はない。

 どうしたらいいんだ‥‥‥

 光秀は愛宕山山頂の白雲寺に着くと、本堂の勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)を参拝して御神籤(おみくじ)を引いた。自分では決心がつかないので、信仰している勝軍地蔵に決めてもらおうと思った。

 吉が出れば本能寺へ、凶が出れば秀吉の援軍として備中に向かおう。備中に行って合戦で活躍すれば、信長も自分を裏切り者として成敗する事はあるまい。今回の事は忘れてくれるに違いない。きっと、魔が差したんだ。あれは冗談だ。本気にする奴があるかと笑いとばすに違いないと光秀は自分に言い聞かせて、御神籤を引いた。

 御神籤は大吉と出た。

 馬鹿な、と光秀は心を静めて、やり直した。また、大吉だった。嘘だ、こんなはずはないと、光秀は(いん)を結び、真言(しんごん)を唱えながら、もう一度、引いた。やはり、大吉だった。

「本能寺か‥‥‥わしには、こんな生き方しかできんのか‥‥‥」

 やるしかなかった。

 その夜、山内の威徳院(いとくいん)に泊まった光秀は次の日、晴れ晴れとした顔で、連歌師里村紹巴(じょうは)、西之坊らと百(いん)の連歌を詠み、奥の院の太郎坊に奉納した。







11




 光秀が決心を固めるために愛宕山に籠もっていた頃、安土城の信長は久し振りに正妻である胡蝶の部屋に来ていた。

「どうしたのでございます?」と胡蝶は驚いたように信長を見つめた。信長が夜になって自分のもとに来るのは、もう何年振りかの事だった。

「なに、そちの顔が見たくなったのでな」

「まあ、お珍しい事」と胡蝶は笑った。

 信長は胡蝶の前にどかっと座り込んだ。胡蝶は侍女(じじょ)を下がらせた。

「わたしの事など、とうの昔にお忘れになったのではございませんか?」

「なに、マムシの娘を忘れた事など、ありゃせん」

「懐かしいお言葉、マムシだのと」

「随分、昔のような気がするのう」

「はい、もうずっと昔の事でございます」

「そちがわしの妻となって、もう三十年も経っとるんじゃのう‥‥‥早いもんじゃ。そちが尾張に来る時、マムシの娘が来ると聞いて、わしはどんな化け物が来るのかと楽しみにしておった。しかし、そちは、ただの女子(おなご)じゃった」

「覚えております。殿様はわたしの顔をじっと見つめておりました。あの時、わたしは本当にびっくりいたしました。お噂では、たわけ者と聞いておりましたが、あの時の殿様のお姿ときたら‥‥‥わたしはもう恐ろしくて、泣きたい気持ちでございました」

「あの時、そちはわしを睨んでおったぞ」

「わたしもマムシの娘でございます。尾張のたわけ者に負けられないと精一杯、強がっていたのでございます」

「懐かしいのう‥‥‥しかし、そちはいつまでも若いのう」

「嫌ですよ。何をおっしゃいます」

 信長は急に胡蝶を抱き寄せた。

「一体、どうしたのです?」

 胡蝶は不思議そうに信長を見ていた。

「今夜はのう。そちを抱きながら昔話でもしようと思ってのう」

「何だか変ですわね。若い側室が大勢おりましょうに」

「今夜はそちが抱きたいんじゃ」

 信長は胡蝶の胸元に手を差し入れ、豊満な乳房を愛撫し始めた。

「そちが子を産んでくれたら、立派な跡継ぎができたのにのう」

「それを言って下さいますな」

「分かっておる」

 胡蝶は信長の顔を見上げながら、お互いに若かった頃の事を思い出していたが、何となく、嫌な予感がするのを感じていた。







12




 五月二十九日、信長は、安土の留守を蒲生賢秀(がもうかたひで)に任せて、雨の降る中、側室の小吉と百人程の兵を引き連れて京都の本能寺に入った。小姓たちに明日のお茶会の準備を命じると、信長は小吉と一緒に奥の間に入った。

 いよいよ、あさっての未明、信長はここで死ぬのだ。世間の者たちの騒ぎ振りが見物(みもの)だった。信長は浮き浮きしていた。

 次の日、公家衆や僧侶らが大勢、信長の上洛を祝って本能寺に詰め掛けた。信長は機嫌よく彼らを迎え、自慢の茶道具を披露して盛大なお茶会を催した。相変わらず、勅使が将軍になる事を承諾してくれと迫ったが、信長は返事をしなかった。そんな肩書など、今の信長にはまったく用のないものだった。

 日が暮れる頃、客たちが引き上げると、信長は妙覚寺にいる長男、信忠を呼び、酒を飲みながら親子水入らずで楽しく語り合った。

 わしが死んだ後、織田家の事は頼むぞ、と心の中で言ったが、目の前にいる信忠はどうも頼りなかった。

 信忠が帰った後、本因坊(ほんいんぼう)を相手に囲碁を楽しみ、深夜になって小吉の待つ奥の間に戻った。奥の間には、すでに西之坊が待っていた。

「もう、行くのか?」と信長は聞いた。

「明智の兵はすでに(おい)の坂を越え、沓掛(くつかけ)辺りに来ております。そろそろ抜け出しませんと、戦に巻き込まれるやもしれません」

「ほう、もう沓掛まで来ておるのか。相変わらず、せっかちな奴じゃ」

 信長と小吉は西之坊の案内で本能寺を抜け出し、京都から姿を消した。







13




 六月二日の夜明け前、一万三千余りの明智軍は本能寺を完全に包囲していた。

 空が白み始めた頃、光秀の指示のもと本能寺に向けて一斉に鉄砲が撃たれた。(とき)の声と共に、兵たちは(ほり)を渡り、土塁(どるい)を乗り越え、本能寺になだれ込んだ。あちこちから火の手が上がり、あっと言う間に本能寺は燃え落ちた。信長の供をして来た若い者たちは、すでにいない信長を守るために全員、討ち死にした。

 本能寺が落ちると、光秀は信忠のいる妙覚寺の襲撃を命じた。信忠は本能寺の異変を知ると妙覚寺を出て二条城に入り、明智軍を待ち受けたが、結局は敗れ、信忠は切腹して果てた。二条城には源五郎も一緒にいたが、西之坊に助けられて無事に逃げのびた。

 信長を倒した後の光秀は忙しかった。いつかは誰かに滅ぼされるにしろ、今、現在、天下は我が手の内に入ったのだ。うまくすれば、このまま天下を自分の物とする事ができるかもしれない。光秀は大坂にいる丹羽長秀に対しての守りを固めながら、京都に潜伏している残党狩りを行ない、堺にいるはずの徳川家康を捕まえろと命じた。さらに、毛利氏、上杉氏、北条氏を初めとして、あちこちに手紙を出して、味方になってくれるように頼んだ。

 本拠地に帰る前に徳川家康を討ち取り、毛利氏が羽柴秀吉を倒し、上杉氏が柴田勝家を倒し、北条氏が滝川一益を倒してくれたら、このまま、自分が天下を取る事も可能なような気もした。

 六月五日、光秀は安土城に入った。今まで、信長の顔色を(うかが)いながら恐る恐る入ったこの城が、今、自分の家に帰って来たかのように大手を振って入れるのが不思議だった。城内には信長の奥方を初め、留守を守っている者たちは誰もいなかったが、信長の集めた財宝やらは、そのままになっていた。光秀はそれらの財宝を家臣たちに分け与えて士気を高めた。

 光秀は一人、天主の最上階に登ると、心行くまで最高の景色を楽しんだ。ここに立って城下を見下ろし、夕日に染まる琵琶湖を眺め、初めて、自分が今、天下人になったのだと実感していた。天に向かって、大声で、

「やったぞ!」と叫んでみたい気分だった。

 やるべき事はやった‥‥‥

 後は運を天に任せるのみであった。天が味方すれば、このまま、天下人でいる事ができよう。ただ、家康の事が気になっていた。討ち取れと命じたが、未だに家康を殺したとの知らせは届いていなかった。

 七日には安土に勅使がやって来て、勝利の祝いを述べた。朝廷は光秀の事を信長に代わる権力者として認めてくれたのだった。光秀は涙が知らずに流れて来る程、感激した。

 九日、光秀は天下人として上洛した。公家衆や町人たちから大歓迎され、光秀は気前よく金銀をばらまいた。この日、京都の町人たちは、残忍な信長に代わって光秀が天下人になった事を心から喜んでいた。

 次の日、大坂にいる織田信孝、丹羽長秀軍を倒すため、(ほら)ケ峠まで出陣した。その夜、備中にて毛利軍と戦っていた羽柴秀吉が毛利と講和して、信長の(とむら)い合戦をするために、こちらに向かっているとの知らせを受けた。秀吉がこんなにも早く戻って来るとは予想外な事だった。この時、光秀は自分を殺すのは秀吉に違いないと悟った。

 光秀は秀吉と戦うために万全の処置を取ったが、負ける事は分かっていた。すでに、細川藤孝、筒井順慶、池田恒興(つねおき)、中川清秀らの頼りにしていた武将たちからも見放されてしまっていた。相手の立場になってみれば当然の事と言える。信長を殺しても、信長配下の武将たちは各地にいる。彼らは皆、光秀と同じ位かそれ以上の兵力を持っている。彼らが戻って来れば、光秀など、ひとたまりもないだろう。皆、そう思って、成り行きを見守っているのだ。軽はずみな事をして、一族や家臣を路頭に迷わす事などできないのだった。反面、弔い合戦という名分のある秀吉のもとには、続々と兵が集まるのは確実だった。

 十三日の昼過ぎより、山崎において光秀と秀吉の合戦が始まった。明智軍は戦死者を三千人以上も出して敗北した。光秀は勝龍寺(しょうりゅうじ)城に立て籠ったが、すぐに包囲され、逃亡者も相次いだ。その夜、光秀は数人の供を連れて、ひそかに城を抜け出した。坂本城に帰って城に火を放ち、死に花を咲かそうと思ったが、途中で土民に襲われて殺された。

 十四日には亀山城が落城し、光秀の長男が殺された。十五日には坂本城が落城し、明智一族は皆、自害して果てた。同じ日、天下人の象徴であった絢爛豪華な安土城が、城下に潜伏していた伊賀者たちによって放火され、一つの時代が終わったかのように燃え落ちた。

 光秀の首は十四日の朝、秀吉のもとに届けられ、十七日、本能寺の焼け跡に(さら)された。その首は化粧されてはいたが、かなり腐敗して異臭を放っていた。







14




 光秀の首が晒された日の昼過ぎ、愛宕山の裾野、小川に沿った細い道を行く二人の山伏があった。二人共、無言のまま急ぎ足で歩いていた。

 かなり山の中の小さな滝のほとりに(いおり)が建っていた。二人は、その庵に入って行った。

 庵に中にいたのは、みすぼらしい野良着(のらぎ)を着た信長と小吉だった。どう見ても百姓夫婦、あるいは親子だった。かつて、誰もが恐れた、あの面影は陰も形もなかった。

 信長は板の間の上で、気楽な顔をして寝そべっていたが、入って来た山伏の顔を見ると嬉しそうに、

「おぬし、生きておったか」と言った。

「西之坊殿に助けられました」と言った山伏は光秀だった。

「そうか、そいつは良かった」

 信長は起き上がると、親しい友でも迎えるように、

「うまく行ったのう。さあ、上がれ」と光秀を招いた。

 光秀は持っていた錫杖(しゃくじょう)を壁に立て掛け、草鞋(わらじ)を脱ぐと板の間に上がった。

「それにしても早かったのう。おぬしが天下を取ったのは、たったの十日か?」

「いえ、十一日です」

 信長は大笑いをした。

「サルめにやられたのう」

 その言葉を聞いた時、光秀は、もしかしたら信長は秀吉に自分が殺される事を教えたのかもしれないと疑った。秀吉が戻って来たのが、どう考えてみても早すぎる。信長は最初から秀吉に天下を取らせるつもりだったのではないのだろうかと思った。

 信長は大口をあけて腹を抱えて笑い転げていた。

「これで、おぬしもわしと同じに死んだ事となったのう。これから、どうするつもりじゃ?」

「どうするも何も、今の自分が一体、何者なのかも分かりません。明智光秀は死んだが、わたしはこうして生きている。生きてはいるが、もう、明智光秀ではない。わたしは一体、何者なんじゃ?」

「つまらん事をくよくよ考えるな。新しい名前を自分で考える事じゃ。わしは夢幻(むげん)と名乗る事にしたわ。おぬしが信長を殺してからというもの、例の夢も見なくなった。ようやく、安心して眠れるようになったわ」

「上様はこれから、どうなさるつもりです?」

「わしはもう上様ではない。夢幻という名の神じゃ」

「神ですか‥‥‥」

「わしは神として、天下の行方を見守るのよ。誰が天下を取るのか見物(みもの)じゃわ」

「確かに、上様は神様です。わたしの一生をもてあそびましたからね。わたしだけではないでしょう。上様の気まぐれによって一生を台なしにされた者は何十、何百といるでしょう」

「もう過ぎた事じゃ。すべて、忘れろ。これからの事を考える事じゃ」

「わたしはとりあえず叡山(えいざん)に登ります。わたしのために死んで行った一族の者や家臣たちの冥福(めいふく)を祈るつもりでおります」

「あんな糞山(くそやま)に登るのか。おぬしらしいの。ついでに、わしの一族の冥福も祈ってやってくれ」

「かしこまりました」と光秀は言うと顔色も変えずに刀を抜いた。

「何の真似じゃ?」

「上様、御覚悟!」

 光秀は、驚いている信長を一瞬のうちに袈裟(けさ)斬りにした。

 (かまど)の前で飯の支度をしていた小吉が悲鳴を上げた。

「やはり、おぬしじゃった、な‥‥‥」と言うと信長は倒れた。

 小吉が素早く、信長のもとに駈け寄った。血まみれの信長に抱きつくと、小吉は大声で泣き(わめ)いた。

「こうなる事は分かっていたわ」と西之坊が言った。

 光秀は刀の血を懐紙(かいし)で拭うと(さや)に納めて、西之坊の方を振り返った。

 西之坊は目を細めて信長の最期の姿を眺めていた。そして、

「哀れなもんじゃ」と呟いた。

 光秀はゆっくりと土間に下りると草鞋を履いた。

「小田原の北条氏の配下に風摩(ふうま)党という忍びの集団がいるのを御存じですね?」と光秀は草鞋の紐をしばりながら西之坊に聞いた。

 西之坊は驚いたような顔をして光秀を見つめた。

「わしは昔、小田原に行った時、不思議な術を使う男が風摩党にいるという噂を聞きました。その術というのは、人の夢を自由に操るという術だそうです‥‥‥その術を使う男というのは、西之坊殿だったのですね?」

 西之坊は顔色も変えずに光秀を見ていたが、やがて、頷いた。

「北条氏のためですか?」

「信長が関東に進出して来なかったら、こんな事にはならなかったんじゃ。北条氏は信長が何をしようと無関心じゃった。信長が何をしようとも関東には関係ないと思ったからじゃ。しかし、信長は武田氏を滅ぼし、関東に進出して来た。滝川一益を上野(こうづけ)に置き、北条氏の領地に侵入して来たんじゃ。北条氏もようやく信長の恐ろしさに気づいたんじゃろう‥‥‥わしは奴がガキの頃から知っている。できれば殺したくはなかった。しかし、奴はやり過ぎたんじゃ。調子に乗って人を殺し過ぎたわ。罪のない多くの人間をのう」

「その娘も仲間だったのですね?」

 小吉はいつの間にか、信長が腰に差していた小刀を抜き取って光秀に対して構えていた。

 その顔付きは、今までの小吉ではなく、立派な忍びの者と言えた。

 西之坊は小吉に向かって首を振った。

 小吉は頷くと、冷静な顔で信長の胸にとどめを刺した。

 光秀は錫杖をつかむと西之坊に頭を下げ、庵から出た。

 光秀は空を見上げた。

 (まぶ)しかった。

 久し振りに青い空を見たような気がした。

 (せみ)のやかましく鳴く山道を光秀はのんびりと下りて行った。










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