酔雲庵

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門 

井野酔雲

創作ノート



『沼田市史、通史編1』より




1545年 8月 関東管領上杉憲政は駿河の今川義元と連合して北条氏康を攻めるための同盟を結ぶ。
9月 上杉憲政は北条氏康の部将北条綱成の守る河越城を囲む。
10月 古河公方足利晴氏、北条氏と断ち、上杉軍に参加する。
1546年 4月 20日 北条氏康は八千余騎の馬廻衆を率いて、河越救援のため出陣し夜襲をかけ上杉軍を破る。
1551年 5月 真田幸隆、戸石城を落とし、上田1000貫文の所領を与えられる。
1552年 1月 10日 上杉憲政、平井を出て、7月3日、越後に到着する。
沼田倉内城は北条綱成の次男孫次郎康元が城主となる。
1560年 8月 29日 長尾景虎、上野国に出陣する。
9月 上旬 景虎、沼田倉内城を攻略。
年末から翌年にかけて、景虎は廐橋城にて越年する。
1561年 3月 11日 景虎、小田原城を囲む。
4月 景虎、鶴岡八幡宮で管領就任式を行う。
6月 28日 景虎、春日山城に帰る。
景虎は猿ケ京の宮野城に栗林肥前守と尻高左馬助を入れて守らせる。
廐橋城主は長尾賢忠で、嫡子彦太郎と弟二人は暴れ馬のため反乱と見られ殺され、賢忠も病死する。景虎は河田豊前守長親を城代として入れ、その後は北条丹後守高広を入れる。
関東幕注文の沼田衆は沼田顕泰、小川、岡谷右馬助、尻高左馬助、発智刑部少輔、沼田藤三郎、和田図書助、発智小四郎、恩田孫五郎、恩田与右兵衛尉、久屋内匠助、金子監持丞、松井大学助、阿左美小三郎。
1563年から1566年夏頃まで、河田豊前守は沼田倉内城代を務める。
1564年 4月 輝虎(景虎)、栗林次郎左衛門尉政頼に対し、猿ケ京辺りの人質を沼田倉内城より栗林氏の樺野沢城(南魚沼郡塩沢町)に移すよう命じる。
1566年 9月 5日 由良国繁、成繁父子、北条氏に寝返る。
9月 29日 武田信玄、箕輪城を落とす。
1567年 輝虎は帰国に際し、佐野城に色部、五十公野氏を配置し、長尾虎房丸を佐野昌綱の養子として佐野城に入れる。
1566年夏以降、沼田城代は松本石見守景繁、河田伯耆守重親、小中大蔵少輔家成、小国刑部少輔、新発田右衛門太夫が務め、1569年以降は松本石見守景繁、河田伯耆守重親、小中大蔵少輔家成が務める。
1570年 4月 5日 北条三郎、小田原を発つ。10日、沼田に着く。25日、春日山城にて婚儀が挙げる。
1571年 10月 3日 北条氏康(57)死す。
1571年 12月 北条氏政、武田と再び同盟を結ぶ。北条氏忠と同氏堯が人質として甲府へ行く。
1572年 3月 真田幸隆、白井城を落とす。この時、箕輪城には春日弾正虎綱がいた。
1573年 2月 由良氏、桐生城を攻め落とす。
1573年 3月 謙信、膳、山上、女淵の城を落とし、黒川谷の深沢城を攻める。
1573年 4月 武田信玄(52)死す。
1574年 9月 由良国繁、黒川谷に攻め入り、上杉方の城を2ケ所攻め落とす。
1574年 10月 謙信、由良方のよる仁田山城(桐生市川内町)を攻め落とし、城内の男女を皆殺しにする。
1577年 閏7月 謙信、能登七尾城を落とす。
1578年 3月 13日 謙信(49)死す。
5月 21日 景勝は猿ケ京の深沢刑部少輔利重に対し、越後侵入の兵を追い散らした事を褒める。
6月 上杉景勝と武田勝頼、同盟を結ぶ。@上野1国は武田領。A勝頼の妹を景勝の妻とする。
1579年 2月 3日 景虎方の北条丹後守景広、槍傷を受け死去。
3月 24日 景虎、殺される。
1579年 7月 17日 北条氏政、沼田城を落城させ入城する。
8月 28日 勝頼、廐橋城主北条安芸入道が武田方に属した事に対し、恩賞を与える約束をする。
9月 17日 勝頼、駿河に出陣する。
11月 真田方の小川城、名胡桃城へ、沼田城から猪股能登守、藤田能登守率いる北条軍5000余騎が押し寄せるが大雪のため退く。
1580年 1月 11日 真田昌幸は岩櫃城から名胡桃城に移り、沼田城攻略の手立てを勧め、海野能登守、小川可遊斎、鈴木右近、鎌原宮内、伊藤備中守、出浦上総介、植栗河内守、北能登守、大熊靱負、川原左京進、矢野半 左衛門、春原勘右衛門、丸山土佐守綱茂等を集め評定をする。
1月 21日 海野幸貞が先陣となり、利根川を渡り明徳寺(後閑)の要害を落とす。
閏3月 昌幸は甲府にいて、4月初めには名胡桃城へ向かう。
4月 上旬 沼田地衆の金子美濃守、渡辺左近允、西山市之丞が、名胡桃城の昌幸のもとに降伏する。
5月 藤田能登守信吉は、沼田城を昌幸に明け渡す。
昌幸は吾妻郡の大道峠北麓の須川から猿ケ京の城を攻め落とし、赤谷川沿いの城を手に入れ、名胡桃城を沼田攻略の拠点とした。
・小川可遊斎は上方浪人の赤松孫五郎。
・甲斐国の名門である武藤家が絶えたので、信玄は母方の叔父、三郎右衛門信堯にこの姓を名乗らせていたが、信堯の嫡子、武藤千代丸が早世しまったので、昌幸に武藤の姓を与え、武藤喜兵衛尉を名乗らせる。
1581年 3月 4日 沼田平八郎景義、二千余の兵を率いて阿曽の城に入る。
3月 11日 景義方と沼田城方との戦いが田北の原で行われ、城方は敗れて退く。
3月 15日 金子美濃守、沼田景義を謀殺する。
1581年 6月 7日 勝頼、沼田へ帰る昌幸に条目を与える。
6月 21日 勝頼、西条治部少輔に対し、沼田在城を命じ、真田昌幸の指図を受けるよう命じる。
10月 上旬 北条氏邦は5000騎の兵を率いて沼田城の支城である長井坂城に攻め寄せる。城主恩田越前守能定は善戦したが、わずかに200騎の兵であり、ついに落城。氏邦は宮田の住人須田加賀守を城代として配置した。これに乗じ、猪股能登守を初めとした北条軍は森下、阿曽の城を攻め落とし、沼田城に迫ったが真田配下の矢沢頼綱以下城兵はよくこれを防いだ。
11月 海野長門守、能登守兄弟が討伐される。
1582年 3月 11日 武田家滅亡。
3月 12日 北条氏邦から真田昌幸にあて、北条方に属するように促す書状が届く。
19日 関東管領になった滝川一益、一万の兵を率いて箕輪城に入る。
5月 下旬 滝川一益、廐橋城に入る。甥の滝川儀太夫、沼田城に入る。
内藤大和守、小幡上総守、和田石見守、由良信濃守、長尾但馬守、安中左近、上田安徳斎、木部宮内少輔、高山遠江守、深谷左兵衛尉、成田下総守、倉賀野淡路守、真田安房守らが人質を送り、出仕する。
6月 2日 信長、殺される。
7日 一益、信長の死を知る。一益、北条高広らに信長の死を披露する。
18日 一益、北条氏直と国境近くの金窪(神流川)で対戦。
19日 一益、北条軍に敗れ撤退する。




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